今日は朝からついてないと思っていた。
前日の夜、特別夜更かししたわけでもないのに、寝坊した。
机の上に置いていたアナログ時計の指し示す時刻を見て、慌てて準備を始めたのだが、ふとスマホを見たら、一限の授業に余裕過ぎるくらいの時間で。
一時間も早く起きたのだから、と朝ごはんをコンビニで調達しようと思ったらレジ前は長蛇の列。
割安なパン棚は在庫はすっからかんで、この先の商店で買うにはちょっとと思って、適当に買ったおにぎりは賞味期限切れ。
最初に選んだものとは、別の味に交換して事なきを得たが、その分、時間をロスすることになった。
慌てていて、いつもなら行かない正面ルートを選んだら、歩行者信号には延々ひっかかり続けてしまった。ここがいいと、道を変えれば工事中で逆戻り。
路肩に出来た段差で、つまづいたことで鞄の中身もひっくり返す。
ガチャガチャと鞄に戻したのが悪かったのか、シャープペンシルの芯はポキポキ折れて鞄の中で、縦横無尽にグレーのひっかき傷をつけてくれた。
きっと、テレビの星占いを見ていたら最下位だったのだろう。
極めつけは、定時よりも少し早く大学についた時だった。
「うわ、まじか……」
スマホの通知欄に、見慣れない文字列。学校からの「ご案内」メール。
「はー……なんだよ……」
大学からの「休講のお知らせ」通知が、そこに来ていた。
だいたい講義の三十分ほど前に、こういう通知が来るのだが、正直あまり見たくない。
しかも通知は、家を出るよりも前だった。
俺は、大学構内に入ってからその凡ミスに気付く間抜けっぷり。
「……あー、二時間なにしよ」
こういう時は、一度帰って寝てしまうのがいいのだろうが、どうもそういう気分はしょんぼりとしぼんでしまっていた。
なにせ、諸々のロスはあれど、やっとの思いで朝イチのゼミに間に合うように出てきたのだ。落胆するに決まっているだろう。
次の講義のノートはとっているが、予習必須ではないとようやく察したところだ。もうこのまま、ダラダラ午後の授業まで待っていたほうが、遅刻もないだろう。
「いちおう、言っておくか」
俺は、下げていたショルダーからケータイを取り出して、光平さんとやりとりをしているアプリを開いた。
光平さんは、最初は「ゼミしか取ってない」とか言っていたくせに、ちゃんと毎日大学に出るタイプの秀才だった。
俺に対してはそういう感じじゃない気もするが、光平さんは、知識欲も多いらしく、教授らに質問している姿は何度も見ていた。
年齢も知識量も違うのに、どうして光平さんはあんなに積極的なのだろうかと、ぼんやり思っていたことを思い出す。
もしかしたら、講義を受けている最中かも、とメッセージを送信してからきづいた が後の祭り。
光平さんの「既読」はすぐについて、走り書きのような返信が送信されてきた。
「三号棟にいる、か……」
今、自分が居る棟とは別の場所だが、次の講義はそちらに近かったことを思い出し、改めて「行きます」とだけ打った。
内心、返事がきていて、ほっとした。待たせているのも気に掛かって、少し小走りになりながら、うろ覚えの道を進んでいく。
ようやく覚えた棟ごとの雰囲気を思い出す。光平さんから細かい場所を伝えられなかったのだから、一階のフリースペースにいるのでは、と俺は思った。そこはオープンスペースで、無線通信も無料だとあって、授業のない人のたまり場になりつつある場所だった。
なんとなく、一匹狼な光平さんとは不釣合いだよなと思ったけれど、光平さんは「早く来い」と追撃したきりで、それ以上は教えてくれない。聞くのも野暮と「わかりました」のスタンプを送って、俺は移動を開始しつつ、ふと思ったことを、考えていた.
光平さんは、別に俺の事を特別視していない。
それは最初から理解している。たまたま、兄さんの弟だったから、かわいがられているだけだ。
だって、ふつう、深い関係を求めているならば、できるだけ一緒にいたいと思うものだろう。――昔の、俺みたいに。
けれど、光平さんにそれはない。
たまに会って、それで話して、そこから先にどうするか、なんてものはない。その場で解散することがほとんどだ。
たいてい、わからない大学生の仕組みとやらを聞いて、ふんふん頷いて、それっきりだ。そんな関係でも、俺はいいと、思っていた。
でも、兄さんに思っていたものとは違う形で、一緒にいたいと思っている。
一緒に居続ける距離って、と考えている自分がいることに、気付いたけれど、そんなうっすらとした将来の夢らしきなにかを期待してしまう自分が、わからない。
また、兄さんみたいに思われてしまうかもしれないのに、と。
思考している間に、俺の足は迷わず三号棟に着いていた。
予想通り、オープンスペースに光平さんがいた。窓際のわかりやすいところ。見つけやすくてよかった、と思い、声をかけようとした。
「光平さ、」
ふと、その二人がけの席の、机上が目に入った。すでに置かれたノートは向かい合わせに、光平さんの背中ごしに見たその先、向かい合う誰かがいた。
「……?」
いつも一人だから、今回も一人だろう、はなんて甘い考えだったのかを知ったのは、このときだ。
光平さんの向かいに座っていたのは、おそらく同級生だ。
背もたれにもたれかかっていた体をがばっと前に出したので、姿はよくわからない。その人は、ちょうど、光平さんの背中に隠れてしまった。
光平さんの視界に入らないように注意しながら、少し近づいてみれば、二人の会話はなぜだかよく聞こえてきた。
「みつひらぁー……頼む、ノートくれ。これじゃ試験無理だ」
「おまえ、この前もサボってたじゃねえか。自分でやれよ」
軽口。今まで聞いたことない気怠げで、ちょっとやわらかい光平さんの声。
スペースの入り口で立ち尽くしていた俺は、後続の何人かの「すみません」を聞いて、オープンスペースの角、光平さんに見えない角度に移動した。じわりと、背中に汗が噴き出す感覚があった。
やや大きめの声で話している同級生らしき人のおかげで、会話が聞き取れるくらいはっきりと意味を理解できた。
「だってさー、みつひらがちゃんと出来上がったノート貸してくれんじゃん。講義キャンセルして就活してた俺を、どうにかしてやろうって気持ち、ねーのかよ」
「あー、うるせえな。貸さねぇぞ」
「まじか。ちょ、俺みつひら以外頼れる奴居ねぇって」
「はいはい。おだてるくらいならさっさと写せよ」
「みつひらマジ神! 画像じゃどうしても文字つぶれるからさー」
「たく……次、学食なにおごってもらえるんだか」
二人の軽口は続いていた。
みつひら、と呼ばれている光平さん。俺には「コウでいい」とか言っていたのに、また違う呼び方。もしかして、その人とかぶるから、そう言われていたのだろうか。
俺は、ちゃんと距離を置かれていたのかもしれない。ただ、友人の弟だから仲良くしていただけ。俺自身がどうとかではなく、ただ、兄さんが、いたから。
――また、兄さんだ。
そう考えた瞬間に、じわりと目元が潤んできたのがわかった。
よくわからないけれど、つらい。なんだこれ。じくじくと傷む心臓に、思い当たるものなんか、なかった。
席を外すべきか否か。どうしていいかわからなくて、俺はその会話が終わるまで、じっと様子を窺っていた。
適当に持ってきたらよかったのに、水の一滴もないまま、喉の奥がかあっと熱くなっては冷めて、きゅうっと心のほうが悲鳴を上げていた。
まだ二人はケラケラと笑いながら、話を続けている。
幸い、まだ空き時間には余裕がある。
このままこの場にいても、心が荒むだけだとわかった俺は、やっとの思いで席を立ち、そのフロアから外に出たのだった。
