ブラコン新入生は、兄の友人から恋を学ぶ


 俺の問題発言が消えたわけではなかったが、少しだけ変化はあった。
 悠々自適な鷹生と授業をともにすることが増え、周囲の視線も一過性のものだと気づき始めた。自分の奇抜だと知らなかった発言もさることながら、ほかにも髪色をかなり明るくしてみたり、ファッショナブルな格好で度肝を抜いたりする人が現れるたび、教室のささやき声と視線はそちら側に行くと知った。

 もちろん、講義はきちんと受けているものの、どこかで「あれが過ぎ去ってよかった」と思う自分もいて、非常に、不思議な心持ちに変化していたこと、振り返ると思ったものだった。

 光平さんと会ったのも、ちょうどその頃。
 ちょうど、枝垂れ桜も終わりかけた、ある春の日だった。

 焦って回り込んだ、校舎と校舎の間。普段は通らない、大人二人がすれ違えないほどの狭い道を、俺はその日、選ぼうとしてしまっていた。

「え、う、わ……」

 思いがけない衝撃に、俺の口は言葉を発することを諦めたらしい。
 おそらく、俺の「勘違い」が発覚した次くらいに、驚いたところだ。

 その路地を選んだのには理由がある。
 新入生勧誘のビッグウェーブが、ここは複数回あったのだ。

 四月一週目をやり過ごしたはずが、この時期になっても再度、新勧をしているのだ。
 どうやら、大学生活開始の一ヶ月で「チョイスミス」だと思った層を狙い撃つためにそうしていると、端々から聞こえてくる上級生らの言葉で理解したものだった。

 正直、どこに所属したところで、兄の手がかりもなければ、新しい何かに取り組めるおど意欲的でもない。

 ああ、と思ったときには、俺の手にも数枚のビラが持たされていた。
 お辞儀をしただけなのに、チラシがどんどん増えていくのである。

 中には市販のキャンディやマシュマロを付けているサークルもあり、必死度が窺える。俺は、そんな必死な先輩方を見ても、そういう団体に所属する、ということに興味が持てそうになかった。

 それでなくても、四月は大立ち回りを繰り広げてしまったのだ。
 これ以上、何かにさらされたくない。
 そう思ってきびすを返した先が、件の隙間だったわけである。

「す、すみませ……っ、うわっ」

 対向者がいる、と気付いたときには、もう捕捉されていたのだと思う。
 ちゃんと避けて、なんとか相手の体に当たらないように歩こう。そう思いながらそろそろと壁向きに歩こうとした俺の左手首は、男に掴まれていた。
 ごつごつした、手のひら。節のわかる指先。手入れをしているのかしていないのか、わからない短い爪。
 逃げたい、と思っていたくせに、びびっていた俺は、その場からまったく、動けずにいた。

「おい」
「ひっ」

 声にびびったせいで、彼の顔をまじまじと、見てしまうことになった。。
 その時点で、心の中で彼を「先輩」と呼ぶことにした。
 目つきが悪いが、背筋はしゃんとしている。この目から感じる圧力、同級生じゃないだろう。

 目の下のクマはだいぶ深く、おそらくその黒いフレームの眼鏡がなければもっとかっこいいのに、と思えるくらい……黒ずんでいた。
 そんな悠長なことを考えている間に逃げればよかったのだ。

 ぱっと手を離されて、尻餅をつきそうになった。
 が、すんでのところで、ぐっとこらえてその男を見る。

 ふつうに、なんか、通っちゃいけない路地だったのかと思うくらい、ぐっと来られて引いた。いや、引いたところで、どうしようもない。
 この先は自宅の寮までショートカットできると、最近マップアプリを見て学んでしまったのだ。試したくなるのが、男のサガだろう、なんて言って理解してもらえるかどうか。

「……っ、あ、の」

 ずん、と立ちすくんでいまった自分よりも、彼の背は高く、肉付きもいい。
 しかも目つきはきつめ。そんなハイスペそうで圧の強い人に、気持ちを振り絞って声をかけた。

 自分のことなんてきっと見ていない。
 見てないのはわかってるけど。
 こわいものは、こわいって!
 これが噂に聞く、カツアゲというやつだろうか。

「……」
「う、腕、痛いんで……あの、俺、ここ通りたい……だけ、なんです、けど……」

 いや、他人、しかも在校生にそんなことをして何になる。
 自分は、どうしてもここで一人でいられることを証明したい。
 こんなところでくじけてはだめだ。

 もう一歩、と思った瞬間、俺の頭の上に、その人の手が置かれた。
 あ、と固まっていたのだけれど、そのまま頭を上に向けられて、その男と目がばちっと合ってしまった。
 こわ、い……。
 たのむ、殺さないで。
 そんなことばかりかんがえていた俺に、思ってもみない一言が、聞こえてきたのだ。

「……お前、龍之助の弟か」
「ひ、え?」

 龍之助、は兄の名前だ。この時代に古風すぎるくらい古風な名前は、結構珍しいと聞いている。だから、ネット上の存在のような名前と勘違いされたくらいなのだ。
 それが、他人の口から出てきて、しかも、自分のことを「弟」と言った。

 これは、兄さんのことを知っている人だ。
 そう思った瞬間、肩の力は抜け、がくがく震えていた足もちゃんと地面に食い込むようになった。壁で体をこすらなかったことも、良かったのだろう。

 なんだこれ。何が起こったんだ。
 ただ、逃げて裏道を通ろうと思ったら、兄を、知っている人がいる?
 そんな奇跡的なことが、本当にあるのだろうか。

「あの、兄さ……っ、えっと、兄、のことは」
「龍之助によく聞いてた。四つ下で、面倒な弟がいるって」
「……うう」

 俺の悪名はこんな見知らぬ恐い風貌の人のところまで届いてしまったのかと、半ば凹んだ。しかし、こんな狭いところで、だらだら傷心を癒やすわけにもいかない。

 俺は、諦めてその人に向き直った。
 ええと、と呟いたその人は、なにかに狼狽えているようにも見えた。

「……え、と、その。通して、ほしいんですけど」
「つーか、弟。名前は? アイツ、弟としか言わなかったから」

 こっちの話を聞いているのかいないのか、勝手に話して進めてくれた男に、どうしてやろうかと思ったが、鷹生の言う「過度なブラコン」に当てはまっているのだろう。
 ぐぬ、と思いつつ、ここを切り抜けるためにと俺は腹をくくった。

「伸二です……その、二つに伸ばすの」
「俺はコウヘイ。光と平ら、な」

 こうへいさん。光平さん。
 いや、兄さんを知っていて、在学中ということは、俺にとっては「先輩」だろうか。
 だから、俺はそのまま、思ったことを口にした。

「光平、せんぱい?」
「あー……ちょっと、悪い」

 その人は、俺の一言を聞くなり、かがみ込んで、俺から目をそらした。
 何か知っているような、知りたくないような、重たい茎が、彼から発せられていた。

「気持ち悪いんだ、それ」

 俺の脳は、理解を拒絶した。

 きもち、わるい? 俺が、ってこと?
 だけど、名前まで聞いていてそれはないだろう。きっと睨み付けると、ああ、と光平先輩は、恐い顔をさらにしかめて、言った。

 その姿に、兄さんの姿を思い出して、じわ、と涙が浮かぶ。
 ああ、と思う間もなく、するりと瞳から雫が零れ落ちていく。
 こんな姿を見られたくない。それくらいなら、また新歓の波のほうがよっぽどマシだと、踵を返そうとした。

「待て、伸二っ」
「……っ!」

 俺の肩を力強く掴んで、光平先輩は、言った。

「悪い、その……俺を先輩呼びすんな。それが気持ち悪いんだ」

 直感で「嘘だ」と思った。必死で掴まれた肩が、熱い。でも、違うはずだ。
 これは多分、この人の気遣いだ。光平先輩――光平さんが、俺を傷つけたと思い込んでいるだけだ。実際、俺の言葉が気持ち悪かったんだろう。
 そんなことを考えているのも悔しくなって、もう一度、向かい合う先輩を見た。

「え……っ」

 どうやら、俺を怒らせたと思ったのか、ぽりぽりと頬をかいて、顔をしかめている。思っていた怒りは表情から読み取れず、俺は、きょとんと彼を見ていた。

「とにかく、俺を先輩呼びすんな。それだけ無ければ、兄貴の情報、教えてやってもいい」
「えっと……でも」

 呼び方なんて、ぱっと思いつくものでもない。ましてや年上。いの一番に浮かんだ「先輩」というワードを禁じられて、どう呼ぶべきか悩ましい俺は、眉間にシワをめいっぱい作りながら、考えた。

 青葉茂る、桜並木に負けないくらい、がっしりとした体型。身長も高ければきっと体重も相当な重さなのだろう。細マッチョの気配を感じて、俺はじいとその姿をみやっていた。
 先輩と言わずしてどうしたらいいのか。
 視線の意図が伝わったのか、先輩は俺に向かって言った。

「いっそ呼び捨てでコウとか、コウヘイでいい」
「いや、それは無理なんで……っ!」
「そうか……」
「えっと、じゃあ、光平せ……いや、光平さん?」
「ああ。そうだな。おまえはそれがいいと思う

 少しだけ緩んだような目尻と口元を見て、俺は、動揺した。

 たぶん、光平さんという呼び方を、許可されたんだと思う。ただそれだけ。

 だけれど、俺の中には別の考えが浮かんでいた。
 俺が、俺として、認められたように思ってしまった。

 だが、ふと、思い返す。
 兄を呼び捨てしたということは、もしや、兄よりも年上なのだろうか。
 じ、と再度見ていた俺に、光平さんは「そういえば」と口を開いた。

「今年、四回生だけど、お前の兄貴と同じ年」
「へ?」
「だから、その辺は気にすんな。授業もフル単しようか迷って結局、一日二コマも入ってねぇ。なんかあったら呼べ」

 差し出されたのは、この人に不釣合いなSNSの、カラフルな二次元コードだった。

「えっと」
「やってねーのか?」
「いや、一応アカウントは、その……あります」
「じゃあ、登録して」
「……はい」

 言われるがままカメラでスキャンしてみる。
 そこに現れたのは、写真ひとつもないアカウントだった。非公開にしているわけではないので、単純に「投稿がない」アカウントだ。

 唯一、アイコンだけはどこかの森っぽいところ。青々とした風景に、思い至る場所はなかった。
 しかも。

「……フォロワー、二人」
「自分の家族、二人。以上」
「え、あ……はあ……」

 変な息が出てしまったけれど、それは仕方のないことだろう。ご両親だろうか。それを調べるほど、俺は野暮ではないはずだ。その中に、兄さんがいるかどうか、確認したくなった気持ちをぐっとこらえて、俺は圧力に負けて、そのまま「フォロー」の文字を押した。

 画面をにらみつけていたのは、光平さんもだったらしい。

「あの」

 その通知が光平さんの元に届いたのか、俺のアカウント名を呟いた光平さんは、にやりと笑って言った。
 思ったより、子どもっぽいなって、そのときは思ったものだった。

「普段、ここは使わないから、通知来れば逆にわかる。それでいいだろ」
「え……と、はい。わかりました。よろしくお願いいたします」
「ああ。よろしく。ちゃんと連絡しろよ」
「あ、ハイ……」

 まるで初期表示のようなそれを見て、納得できるはずもなかったけれど、なんとなく俺は押し切られてしまった。
 きっと、すぐ切り捨てられるアカウントのように、俺もぱつっと消されてしまうんだろう。だけど、少なくともこういう形で繋がろうとしている人が、あっさりと関係を手放すということも、なかなか考えにくいような気がする。
 俺は、相当混乱していたのだと思う。

「……よ、ろしく、お願いします」

 それでも、繋がらないわけにはいかないのだろう。実際の友人よりも、公式アカウントばかりをフォローしている自分を見て、どう思うのだろうか。

 この光平さんとの出会いを、たまに思い出すことがある。
 けれど、その時の俺の心はぐちゃぐちゃで、光平さんのまつげが案外長いことしか、覚えていなかったのだった。