あれからずっと、兄さんの問いは、俺の中にこびりついて離れなかった。
理由付けが、はっきりとしなかった。
たったそれだけのこと。
兄さんと一緒に居たかったのは、俺の中で神格化してただけなんだろう、ってことまでは咀嚼できていた。
神との同一視、なんて横暴、よく両親がスルーしてくれていたのだと、頭を抱えた。
でもたぶん、光平さんに対するものは違う。
そう、自覚していた頃には、もう試験も終わりかけの昼頃だった。
「あれ? べったり伸二くんじゃん」
目の前に現れた人に、見覚えはある。
冗談混じりに光平さんに泣きついていた人。
光平さんを「みつひら」と呼んで、俺をなじってきた先輩。
じっと見ていると、こほんと仰々しく咳払いして、その先輩は言った。
「四回の北野」
「北野……せんぱ」
「いいの? 先輩呼びで」
「なっ」
茶化すような言い回しに、ぴき、と頭の血管に圧がかかったのが分かる。
単純ないじりじゃないことは、先輩の目がにらむような感じになっていることからもわかる。
俺は歓迎されていない。もう、それは構わない。
そして、この先輩は、光平さんの「先輩」呼びについて知っている。
あからさまな挑発に乗るわけにはいかない。
俺は心の中で数秒カウントして、なんとか伸ばしてしまいそうな拳を、必死に押さえつけていた。
そんな俺の葛藤も知ってか知らずか、そこにいた女子達はきゃあきゃあと盛り上がっていることがわかる。
女子であれば、こんな男が好みということもあるのだろう。
俺には、そのよさが分からないままだったけれど。
「いやー、ちゃんと知ってる子かぁ。みつひらもやるねぇ」
「ちょっと、どういう」
「別に」
急に冷えた声で、俺の胸ぐらをぐっと掴んできた。
にらまれているよりも、真顔でじっと見られるほうがよほど恐いのだと、この瞬間、理解した。
「ただ、みつひらの事が……気になってるだけ」
北野さんはそう言って、さらにずいと顔を近づけてきた。
自分よりもすこし大きめの黒目に、困惑する自分が映り込んでいた。
「あとはおまえのこと。実際、みつひらの何を知ってんだろうなって」
「……っ」
「一応、知ってたんだよ。お前のこと」
そう言って、北野さんは俺から離れると、やや語調を強めて言った。
「あれだけ自分の兄貴に執着してたくせに、コロっとみつひらの所行ったじゃん」
それは、そうかもしれない。
兄さんのことを知っている光平さんに会って、話して。
それで、光平さんに、もっと、自分を、俺を知ってほしくなって。
それが、なにか間違いだったのだろうか。
兄さんに啖呵を切ったばかりだというのに、俺は、もうすでに怯んでいた。
「おかしいだろ、それ」
「それは……その」
北野さんに、言ってやりたかった。
俺の、今の俺の、なにがおかしいって。
否定したい。けど、たぶん、そういうことじゃない。やり過ごすしかない。
俺は、手のひらにぎゅっと爪を立て、握りこぶしを固く固く、握りしめて聞いた。
「おかしい、だろって。なあ、マジでなんなの? やっと、アイツも居なくなって落ち着いたと思ったら、お前だろ? みつひらの弱みでも握ってんなら教えろよ」
「な……っ」
「俺の方がうまく使ってやるからさ、な?」
にたりと笑う北野という人に、俺は心底恐怖した。底知れない黒。まっくろな瞳。
自分のなかに入り込んで全部まるごと沈めるような、重たい色。
面倒事すべてを委ねてしまいたくなるような、甘いささやきも、今の俺には毒でしかない。
「だ、れが……」
アンタの言いなりに、と言いかけた瞬間だった。
ふ、と北野さんの圧が、緩んだのを感じた。
「あ」
光も通さないような黒さが一点、キラキラと輝いて入口のほうを見ていた。振り返るとそこに、見覚えのある人物が、いた。
「おい、北野」
俺は、呼ばれなかった。
気づかれなかっただけかもしれないけれど、それだけでなんだか北野さんに敗北した気分だった。
「あれー、みつひらじゃーん」
「いい加減にしろよ」
「なにが」
ケラケラ笑う北野さんをよそに、強い語調で光平さんは詰めていく。
俺は、頭の上で行われるそれを聞いているしか出来なかった。
「お前がアイツを蹴散らしてくれたことには、感謝してる。でも、伸二は違うだろ」
「違う? なにが」
「……伸二は、龍之助の弟だろ」
「なんにも変わらないじゃん。なんで。龍之助さんに助けてもらったからって、その弟を無条件に信頼するとか、マジで意味わかんないって」
「無条件じゃない」
「みつひら、どうしたんだよ。なあ」
「どうもしてないって」
北野さんのすごい剣幕にも、光平さんはドライに話しているように見える。
必死な北野さんと、あしらう光平さんに、なぜか自分と兄さんを見ているようで、ハラハラしていた。
俺も、こうだったのかもしれない。
兄さんに認めてほしくて、今まで、こんなに頑張ったんだよって。
でも、俺は。
兄さんは。
状況が違うというのに、話題の外に居た自分は、二人のやり取りを、遠巻きに眺める鹿出来なかった。
「別に、伸二がどうこうは関係ない。ただ、後輩がそういう弄られ方をする原因が俺にあるんなら、俺に言えよ」
それくらいしか、俺には出来ないって。
淡々と、光平さんは俺を背中に隠しながら、言った。
言ってくれた。
それだけで、俺は。
じわじわと目頭が熱くなってきていたけれど、それに気付かせないように俺は静かに息を殺して黙っていた。
ジリジリと膠着していた二人だったが、北野さんがあっさりと「あーあ」と告げたところで、その空気は少し緩和したように思った。
「みつひらでも、そんなこと言うんだなぁ」
「んだよ」
「ちょっと、それ、ちょっかいかけただけじゃん」
光平さんにしれっと言った北野さんだったが、俺たち二人は、全然、信用出来なかった。
だって、さっきまであんなに執着していた人が「冗談です」なんて。
そんな空気じゃなかった。完全に、一人だけ、と思っていた。
誰にも取られないように必死で、守っていた。
でも、それを、俺が。
「あの、北野さん……俺は、」
「謝罪? 君そういうの好きそうだけど、いらないから」
「う」
「北野……」
俺のことも、しっかり判断されている、ということだろうか。
仕方ない。自分のやりそうなことなど、きっと光平さんから話のタネにでもされていたんだろう。それでも、なんとなく、行き場のない思いはあった。
「俺は、本当に自分のことしか考えてないだけ。だから別に、君がどうなろうとどうでもいいし、せっかくなら野垂れ死んでほしいんだけど」
「北野っ」
「光平がこうな理由がちゃーんとわかったから、もうどうでもいいやって」
それまで頑なに「みつひら」と呼んでいたのであろう。今度は光平さんが、きょとんとする場面だった。
この感情はまるで、と思わなくもない。
でも、きっと、北野さんには必要な切り替えなんだろう。
俺が彼の心情を推し量っても、きっと正解には至らない。
なんとなく、その確信があった。
北野さんは、どうやら何かを諦めたらしく、はあと長めにため息をついて、背を向けた。
「楽しいもの見せてもらったから、結果オーライだろって。じゃあなあ、みつひら、べた男くーん」
よくわからないあだ名を付けられてしまったので、一応、訂正した。
「ええと、俺、伸二って……言うんですけど……ああ、行っちゃった」
「気にすんな」」
「は、い……」
その言葉だけで、気にしないようにできたらいいんですけどね。
思うだけで、口にはしなかった。が、いろいろ、考えてしまう。
だって、自分は。
「光平さん」
「ん?」
「俺は、光平さんを」
「待った」
「へ?」
思わず口をついて出た言葉の連なりを、光平さんは止めた。
しかも、目をあさっての方向に向けて。
「とりあえず、卒業決まるまでは、聞かない」
「えっと……」
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「あ、はい、おつかれさま……です」
そうして光平さんも、北野さんとは別の方向に、すっと去ってしまった。
ぽつんと取り残された俺は、思わず空を見上げた。寒々しいほど晴れ渡った空には雲ひとつなく。
「あー……」
俺の心も、どこか置き去りになって、きしんだままだった。

