ブラコン新入生は、兄の友人から恋を学ぶ


 さすがに寒くなってきたので、買い足すにも間に合わず、実家にあるはずの冬服を探しに戻った。

 さくさくとまだ見ていられる服を選び、旅行用のカバンに詰め込み終わって、さて、帰るかと部屋の扉を開いた時だった。

「……っ、に、いさん」
「誰かと思ったら……伸二か」

 親にも予定を聞いて、誰もいない時間と思って帰ったのに、ばったりと兄さんに会ってしまった。

「……ごめん兄さん、すぐ、出る……から」

 つい半年ほど前に、会いたくないと言われた。
 直接ではないにせよ、それが解除されたとも聞かないのだから、きっと、まだ継続中のはずだ。

 両親の予定は聞いたが、その日に自分が帰ることを伝えて居なかったことが災いした。
 けれど、兄さんに、会うために帰ってきたわけでもなくて。

 もう必要なモノは回収した。早く、ここから出ていかないと。そう思えば思うほど、混乱して、自分の肩からカバンが滑り落ちる。

「伸二」

 どすんとカバンを落とした音より、兄さんに名前を呼ばれたことに、俺の肩はびくりと反応した。
 呼ばれた。兄さんに。
 俺が。本当に? 幻聴ではないだろうか。

「……」
「あれ、いいのか」

 振り返ると、兄さんが「落ちてる」と床を指さしていた。
 手首のあたりがすり切れそうになっているパーカーが、忘れ去られて床に転がっていた。

 俺は、パーカーだけを見ていた。
 それ以外を、視界に入れないように。

「……あり、がと。ごめんすぐいなくなるから」

 早く。そう思っているのに、指先の震えが止まらない。足もなんだか、がくがくしてきた。
 戻らないと。兄さんの前から早く立ち去って、そして。

 いろいろ考えていたせいか、もたつく手足でなんとか回収して、カバンに詰め込んで上がりきらないジッパーを、なんとか閉め切って、もう一度、肩に掛ける。

 ずしりとした重みが、これは現実だと、突きつけてくる。玄関まで転がるように進んで、かかとも入り切らないまま、ドアノブに手をかけようとしたときだった。

「悪かった」

 誰の声か、自分の脳が認識するのを拒んでいるように思えた。
 俺以外の、声がした。
 振り返る。兄さんが、俺の手の届かない範囲のギリギリまで近づいて、俺を見ていた。

「え?」
「……」
「え……っ、俺、に?」

 困惑する俺を見ていたのかいないのか、兄さんは、ぼそ、と何かを呟いていた。

「兄、さん?」

 一応、声をかけたほうがいいのだろう。兄さん以外の呼び方はわからなかったので、嫌がられるのも覚悟で、そう呼んだ。

 兄さんは、怒りもせず、俺を見ていた。

「家出るとき、お前にひどいことを言った。それは謝罪する」
「に、さ……」
「ごめん」

 きっぱりと言い切られた言葉に、動揺した俺は、また先ほどと同じように、荷物を落としてしまっていた。でも、そんなことはわからない。
 ただ、兄さんが、俺に向き合っている。

「……っ」

 俺はどうするべきだった?
 こんな風に、謝るべきは、俺で。
 俺が、謝らなきゃ、ならないのに。

「ご、め……なさ、おれも……」

 なんて言えばいいのか、わからなかった。
 むしろ、謝って許してもらえるようなことは、ひとつもしていない。

 一つ屋根の下から離れてみて、わかったこと。明らかに常軌を逸していた自分と、それでも我慢してくれていた兄さん。そんな歪みを受け止めてくれた両親。

 そして、自分自身のことだって、なんにも見ていなかったことを、俺はこの数ヶ月で、痛いほど感じていた。

 兄さんに謝ったからといって、それですべてが許されるわけがない。口から出てしまった謝罪の言葉は、飲み込むべきだったのだ。

「それだけ言いにきた。じゃあ、また」

 たぶん、謝罪は受け取られなかった。それでいい。それでいいのに。

 服の詰まったカバンの上に、俺は座り込んでしまっていた。

 兄さんの口からは、俺の言葉を受け入れたニュアンスはなかった。
 もしかしたら、過去の清算と思われたかもしれない。そうじゃない。ただ、俺は、ここで向かい合う兄さんに、どうしたらいいか、わからなくなっていたのだ。

 けれど、ひとつだけ、変わった。

「ま、た」

 兄さんと会っていいのか。帰っていいのか。
 わからない。わからないけれど、確かに気付いたことは。

「俺を許さないで、いいから……」

 もう目の前にいない兄さんに呟いた。そうだ。兄さんの大人らしい反応に毒されているほど、もう子どもではないと、自分が一番、よくわかっていた。

 目元をぐしぐしと手の甲で雑に擦り付けて、俺は、実家からまた大学へと戻っていったのだった。