北野さんに会ったのは、本当に偶然だった。
自分が、イレギュラーに通り抜ける校舎を変えていて、光平さんらの受けているゼミの教授がいる棟に近いところを通ってしまったから、である。
決して、光平さんに会いたいから、というわけではない。
だが、外側から自分を見ている人にそれは伝わらないと、気付いてしまった。
「なにしてんの」
「え?」
声をかけられた相手のほうを振り返る。男性だ。その辺りを歩いているひとたちの中で、ひとりだけ、こちらをじっと見ている男がいる。
自分に対して声を掛けてくるのは、たいてい光平さんか鷹生くらいで、正直、誰の声かも認識できていなかった。
誰がそこにいるのか、と確認した先にいたのは、北野さんだった。
「き、北野さん?」
「……とぼけんなよ。みつひらのこと付け回してんだろ」
「ち、違います! すいません、授業、遅れるんで!」
そうして、俺は徐にその場を走り抜け、講義のある棟に辿り着いた。
自分の中ではっきりとした敵意を向けられたのは、いつぶりだろう。
――もしかしたら、兄さんに拒否された時以来か。
そんなどうしようもないことを考えながら、講義を受けていた。家族の属性について騙られる内容が、どうしてか自分の内側をズタズタにしてくる気がして、何度かシャープペンシルの芯が宙を舞った。
拾い上げることはできない辺りに飛び散ってしまい、踏んづけた人はそれは大変なことだろうと思う。つつがなく定刻通りに終わった講義を聴き終わり、俺は息をついた。
これで今日の講義は終わりだ。さっさと帰って寝てしまおう。
そう考えていたのは、甘かった。
廊下に出て、棟と棟の間のベンチに、人影が見えた。
「やっと終わったのかよ、真面目か」
「……っ」
そこにいたのは、北野さんだった。
なんとかあの場を乗り切った、と思った自分を恥じた。
「なんだよ、みつひらと兄さん以外は口ききたくないって?」
「違います……っ、な、なんで」
「言いたいことあったんだって、思い出したから待ってたんだよ。ったく、さっさと出てくるかと思ったら九十分戻ってこねーし」
「俺、講義って言いましたよね?」
「誰が信じられるって?」
そう言われて、ぐっと息が詰まった。
きっと、光平さんと会っているのが、気に食わないのだろう。それはいい。自分が悪いのだから。でも。だって。
一緒に光平さんのことを語らおうなんて明るい話題ではなく、きっと、否定だ。
俺に、俺のことを、光平さんに気付かれず、
「お前、こっちの連絡先、知らないだろ?」
「……っ」
ちら、と見せられたのは、大手SNSのアイコン。やり取りも頻繁なのか、すくなくとも直近やりとりしたんだろう、と思われる感じだった。
俺は、それを知らない。それだけで、なんだというのか。
少しでも何かわからないかと、北野さんから目を離さないように、じっと見ているけれど、そんなやさしいひとではないことは、この数分でも分かった。
だから、逃げたくないと思った。
このまま、俺と一緒にいる光平さんのことを、悪く言われるわけにはいかないと、そう思ったのだから。
だが、その決意も、揺らいでしまいそうになる。
一歩一歩近付いてくる、北野さんの歩みが、力強く怒りを乗せている。
ぐ、と腹に力を入れ、見上げた。
それも気に入らなかったのか、至近距離までやってきた北野さんは、薄く舌打ちをした。
「みつひら、困ってんだよな」
「そ、んな」
「今まで見たことないタイプだし、先輩の弟だしって、俺も黙ってた。あんなこともあったわけだし、どう見てもクソガキだ」
「……っ」
そう淡々と言う北野さんの目は、恐かった。
でも、俺は、逃げたくなかった。自分の中にある、光平さんの姿を想像して、自分はこのままじゃだめだと思ったのだ。
「現状、なんにもないから黙ってやる。今日もちゃんと講義だったと認めてやるよ」
「それは、だから……」
「お前の言うことは、信じられないんだよ。だから、みつひらに何かあったら……何がなくても、タダじゃおかねぇから」
手は出されていない。つばを飛ばされるような勢いで罵声を浴びせられているわけでもない。
ただ、淡々と、こちらを諭すように言うのだ。
その声色は地の底から、沸騰するような響きで俺にまとわりついてくる。
でも、逃げない。
ぐっと足の指に力を込め、なるべくまばたきもしないよう、力強く、睨み付けた。
「俺は、俺の見てる……俺とちゃんと離してくれる光平さんを、信じてます。それは、北野さんとは違うかもしれないけれど」
逃げてはいけない。
自分は、自分で。北野さんや兄さんになれるわけがない。
だから努力する。俺のままではなく、光平さんの隣にいても、俺が俺であると言えるように。
「人に言われた光平さん像よりも、本人の口から聞ける言葉を信じます。たとえ、嫌いとか、もう会わないとか言われても……それでも、俺は」
光平さんの言葉を、信じたいです。
そう最後まで言えていたかはわからない。気付いたら、顎からぽたぽたと雫が落ちていて。自分の視界は澱んでいて。
「ふざけんなよ」
北野さんはそう言うと、俺を放置して去って行った。
棟と棟の間を強く吹き抜ける冷風が、俺の皮膚をたどる雫を冷やして、通り過ぎて言った。
だが、俺の口からそれを伝えられるほど、まだ強くはなかった。
もっと、誰からも認められるように、そうあれるように。
俺の内側になにかが、燻った瞬間だった。

