そうして、大学デビューを華々しく失敗した俺は、考えを少しだけ改めた。
鷹生の言うように、中の中であった成績をなんとか上げて、周りを黙せるしかない。
そう安直に思っていた。それはそれで、大変な苦労があると、後々知ることになった。
それは、鷹生も一緒の共通科目の講義の時間だった。
「やあやあ、ブラコン伸二くん、今日は目の下にクマあんじゃん、どうしたんだよ」
「……昔の夢、みた。しかも兄さんに嫌われたときの」
「今より超ブラコンだったときの? なになに、どんな酷いこと言われたんだ?」
「うっさいなぁ……言うわけないだろ」
「ええー」
「予鈴終わった、ほら、教授きてるから」
「へーへーっと」
教授が中央に立つのと、俺たちが資料とノートを開くのはほぼ同時だった。
くるくるとシャープペンシルを回しながら、思い出すのは今朝の夢のことだ。
教師が昔ながらのチョークで書き続けるテキストを黙々と写しながら、反すうするのは、昔と言ってもここ5年ほどの黒歴史。
地元で擦りに擦り続けた「二言目には兄がすごい」を使うのもやめたのも、その頃だったと思う。「ブラコン野郎」の二つ名は、高校生になって早々に剥ぎ取られてしまった。文字通り、自分の兄によって。
――兄が、地元ではない大学に、進学したのだ。
年に一度、会えるかどうかの距離。俺が毎日遊びに行きたいと言えば「卒業してからにしろ」と当の兄から怒られたのだ。当時の自分は、その言葉に全然納得できなかった。
兄さんは一生実家にいて、ここから通って、仕事もいって。
それで、俺のそばにいるものだと、思い込んでいたのだから、タチが悪い。
それを表出させていなかった自分も自分なのだろうなと、今だったら思えるけれど、当時、両親はそこまで問題視していなかったらしいと後々聞いた。
夢は、自分の一番の失態から、再現されていた。
「な、んで兄さん、家から出るんだよ。ぜんぜん通える距離じゃん。もっと俺は」
「うるせえよ」
兄のいつもより強い語調に、俺は口をつぐんだ。
そう、あの日もそうだった。兄さんの言葉をちゃんと聞くしかないのか、と半ば諦めていたものの、それでもゼロではない可能性に賭けたかった自分。
だから、ずれたことにも、気づけていなかったのだが。
「伸二、ずっと言おうと思ってたんだけど」
「なに……」
「いい加減、俺以外を見ろ。気持ちわ……っ、」
「それ、は……っ!」
「来んな! 追いかけて来たらもう二度と、家に帰らねーから」
一歩踏み出した瞬間、体の向きが変わった。ドン、と全身に響く。重さ。傷み。
肩で息をする兄さんが、遠い。物理的に殴られたのだ。肩が痛んで、じんじんと響く。気持ち悪い。そうか。そうなんだろう。
「に……」
「黙れ」
「……っ」
この気持ち悪さには覚えがあった。ある日、俺を経由して兄さんに接触してこようとしてきた人たちと接していたときと、一緒なのだ。
「伸二クン、あの……龍之助さんって、付き合ってる人、いるのかな?」
そう言ってくる奴は、男女問わず一人残らず無視していた。
だって、俺の兄さんを取る、ということだ。だから、いつもこう言っていた。
「俺の兄さんなんだけど」
それが、きっと違ったんだろうと思う。なんで兄さんなんだよ、そればかり考えていた。兄さんに近付く人なんて、家族、もっと言えば俺以外必要ない。
兄さんは自分よりも賢い。行こうとしていた大学は、推薦枠がとれるくらいだったらしい。鋭いつり目ではあったけれど、朗らかな表情と人より大きめの口で話す雰囲気に、老若男女が惚れないわけはなかった。
小さい頃から、顔もよければ声も良くて、それなりに運動もできるのだから、基本、周りに人はたくさんいる。兄さんの友人という人たちにも何度も会ったが、どの人も龍之介、龍ちゃん、龍くんとうるさかった。今でこそ、遊びのホスト役におもねることは普通だと思うが、当時の俺はおかしかった。
それに輪をかけたのが、俺はお下がりなのだ、という認識だ。
自分に話しかけてくれる友人もいたけれど、いつもいつも「龍之介は」から始まる話題だった。だから、俺はあくまで兄の添え物で、おまけで、なくてもいいもので。
そう考えてしまっていた。
だから、できるだけ兄さんにくっついて、知って、今度は俺がって、思っていた。
兄を忌避するのではなく、べったりとくっつくことで、俺を認めさせたかったのかもしれないと、俺は思った。
しかし、そんな小さな葛藤は、あっけなくぶち壊されてしまった。
当の本人、兄の手によって。
「俺は、俺だけのものだし、そもそもモノ扱いしてくんのが、気持ち悪いんだ」
そうして兄は出て行った。
でも、諦められなかった。だから、少しばかりの残り香を求めて、俺は兄と同じ大学を選んだ。
学部にこだわりなく、もう、入れたらそれでいい、と思う。
場所もわかっているし、一人暮らし向けの下宿も多い。
だから、なんとかあの大学に行かせてくれ、と。
憧れた都会に辿り着いて、思ったことは「やっと」という感情だけだった。
雑踏の中。いろんなひとが、そこに吸い込まれていく。
俺も例に漏れず、一人でそこに向かって行く。この中に、兄さんがいると、信じて。
幸い、年は5つ離れているので、実際に遭遇することはないし、通う学部も違う。
兄の行き先は両親しか知らない。
「絶対に伸二には教えるな」と言われた両親は、素直にそれを行ってくれたそうだ。
だから、最低限の了承を得て、俺は、実際に進学することができた。
その結果がこれか、と思わないではないが、生きていけるだけまだマシなのかも、と思うようにしていた。
教授の「あー」が十回を超えたあたりで、俺ははっと目をこらす。
だいぶノートを取れていない。消される前にと走り書きした内容なんて今は気にしていられない。最悪、この走り書きと同レベルの鷹生にノートを写させてもらうしかないかもしれない。
ああ、でも。
家族はかくあるべし、なんて形にはならないのかもしれない。
文字情報を上書きしながら、俺の目は、ひたすら黒板を走る白線をなぞっていた。
