少し早く教室に着いたのは、俺だけじゃなかったらしい。
ちらほらと集まっている人たちの中に、鷹生の姿もあった。
「おつかれ」
いつものように声を掛けて彼の隣に座ると、何を思ったのか、鷹生が挨拶も飛ばして話しかけてきた。
「最近さぁ」
「うん?」
「伸二の兄貴の話、しないじゃん。ついに兄離れしたの?」
「ち、違うって。ただその」
「ふんふん?」
今、浮かんだのは誰か。
――間違いなく、光平さんだ。
兄さんよりも先に、光平さんが浮かんでいるという状況に困惑しているうちに、どんどん鷹生のニヤニヤ度合いが増えていく。
「俺が、おかしかったってわかったから」
「なーんかさ?」
「鷹生?」
「そう言い聞かせてんなら、別にいいんだけど」
鷹生は意味ありげに呟くと、俺の背中をどんと突いて、言った。
「俺は、別に兄貴のこと嫌いになる必要もないとは思ってるけど。まあ、そういうの自由だし、好きにしたらいいんじゃない?」
「……っ、でも」
でも、なんだ。
俺はこうして、自己中心的に生きてきた。
だから、兄さんにも、もちろん光平さんにも、迷惑ばっかりかけて、自分勝手なことをしないようにして。
それで。
それで、どうしたいんだ。
俺もそれに、思い至った。そうなってしまった。
「だって、おまえの物心ついてから十八まではそれで出来上がってんだろ? 今更兄貴のこと捨てたって、どうせ伸二の中の兄貴は消えてくれねーと思うけど」
鷹生はそう言って、空を仰いだ。
そういう執着、俺はむり、とも。
「……あの、さ」
「ま。そうか、あれだよな」
「へ?」
そう勝手に納得した鷹生は、俺に向かって笑い出す。
「今はその、兄貴が例のイケメン先輩なわけだから、仕方ないのか」
「違う!」
俺は思わず立ち上がり、そう叫んでいた。
この教室一帯に広がった声は、漣のように、世界に広がっていくのを感じて、慌てて俺は席に座り直した。
「……なんか、伸二もキレることあるんだなって思った」
「ごめん、鷹生。急にでかい声だして」
「いや。まあいいんだけど」
ふう、と息をついたのを見計らって、鷹生はニヤニヤ笑い出した。
「イケメン先輩は、兄枠じゃなかったんだなー」
「……っ、ただの人生の先輩。それだけじゃん」
「ふうん」
それ以上でも以下でもない。
ただ、俺の中では、特別な存在だというだけで。
自分の世界。ただそこにあるだけの自分。
「まあ、俺はそう思っておくことにするよ」
鷹生はそう言ったきり、授業の準備を始めて、それが終わってからはスマホでパズルゲームを始めてしまった。
何やら集中しているらしく、ハイスコアにならない度に「くそ」とか「ああ……」とか、授業が始まるまでずーっと、そのままだった。
俺は、そんな鷹生を見つつ、自分の準備を進めた。
不意にSNSアプリも開いて、光平さんの名前を見る。通知欄のアイコンは変わっていない。連絡は来ていないし、メッセージも既読がついたきりのままなにも増えてはいない。
「……」
別に、鷹生に言われたから意識しているわけじゃない。
ケータイを伏せて、そう言い聞かせる。
兄さんのような存在ではなくて、鷹生のような友人でもない。
本当に「先輩」というだけの存在なのだと思う。本人にはとうてい言えないけれど。
でも、本当に、やましい気持ちもなく、俺は光平さんのことを好意的に見続けていられるのだろうか。
ふとした疑問は、解決できないまま、眠りを誘う午後の講義が始まってしまったのだった。

