大学の学園祭というものに、興味はあったが、これまで俺は行くことがなかった。
人が多く集まるイベントイコール、兄さんに会うことが難しいだろうと思っていたことが、一番の要因だった。それ以上に、兄さんの入った大学がそれなりの距離で、そういう日に限って模試なんかが重なっていたのだから、俺の辞書にその言葉は植え付けられていなかった。
そして、出店やイベントをするような活動にも所属していなかったので、俺には関係ないものだ。
とはいえ、一応経験として行っておくべきか。
そう決めて寮から出たことを、かなり後悔した。
「うそだろ」
零れた言葉は、俺の口から漏れ出たものに違いなかったのに、どこか遠くで誰かが言ったもののようにふわふわと浮いていた。
いつもの食堂に人混み。先輩と話せる、というブースがその前にあって。
普段のくせで、ついつい歩いてしまった先。学生である目印をつけた人たちの間にいた、人。
「……っ」
目の前にいるのは、男性。なぜかそこに、光平さんもいて、その人と笑い合っている。
でも、もう、会えないと思っていたひとで。
「に、いさん……」
間違いなく過去の自分が、ドロドロに執着していた兄さんで。
俺が普段話している場所で、向かい合わせに座って、二人は笑っている。
肩を震わせて、体を前後に揺らしながら、ふたりとも笑っていた。
今まで俺が見ていた光平さんの表情は、しかめていた顔に、ほんのり浮かぶくらいの微笑みだったのに。
この前のお祭りに行ったときの顔とは、また違う、自然な友人としての笑い声だ。
光平さんは子どものように顔をくしゃくしゃにして、笑っていた。
心は走り出そうとしていたのに、体はブレーキを踏み続けていた。
今、あの場に出ていったら、今までと同じじゃないか。
俺の兄さんを取るなって、言い続けていたあの頃の自分と一緒。
もう、そうじゃない。そういうのは、やめたんだ。
俺は振り返り、寮に向かって一目散に帰った。少しだけついた体力のおかげで、前よりは息を切らせず走れるようになったはずなのに、心臓がバクバク鳴って、うるさくて仕方がない。
俺は、ちゃんと、成長できているんだろうか。
そして、俺は振り返る。恐かった。あの場に、俺が入ることは間違っていたことだって、わかるようになっていた。
だから、離れた。なのに、俺は「どうして」って思っている。
ベッドにうつ伏せにダイブして、声も出さずに考える。
――俺は、今、どっちに、嫉妬した?
――俺は、今、誰を見て、二人の間に走りだそうとしていた?
気付いていた事を言語化するのは恐い。
だって、もう、気付いている。俺は、兄さんよりも、光平さんを見ていた。
光平さんがいつもの場所にいて、兄さんが俺の代わりにそこにいた。
でも、そこに付帯する感情が、どうして出てきたのか。
俺は、自分の中で、言語化しないようにしていたのに、もう我慢できなかった。
「……俺、光平さんを、みて」
口に出したら、するすると浮かんできた。
そうだ。俺は「兄さんに笑いかける光平さん」を見て、動こうとした。
年上だというのに、かわいかった。
何の話をしているのかまではわからないが、光平さんの笑い声はよく響いていて。
俺は、理解した。きちんと余所の子扱いされていたのだ。
だからちゃんと、はじめてのお祭りというイベントに付き合ってくれたのだろう。
あくまで俺は「龍之助の弟」だから、優しくされていたに違いない。
そう、わかってしまった。
自分の感情の置き所がわからず、俺はベッドに突っ伏したまま、夕方まで眠ってしまっていた。
鏡で見た俺の目元は腫れぼったくなっていて。
「……はあ」
これからもう一度、学校祭に戻る気は起きなかった。
屋外スピーカーから響く音声がうっすら聞こえる中、俺は大学から逃げるように、量販店の立ち並ぶエリアへ向けて、歩き出したのだった。

