ブラコン新入生は、兄の友人から恋を学ぶ


「……あ」
「どうした」
「門限、そろそろやばそうだなと」

 一応、成人済みだから、多少の遅れは了承されているらしいが、俺はそんな危ない橋を渡りたいほうではない。
 少しでも、ちゃんとしているところを見せたいということも、もちろんある。

 ただ、もう少し、この非日常に浸っていたいと思うのは、悪いことなのだろうか。
 諦めたように呟いた俺に、光平さんは淡々と「帰るか」と言った。

「……はい」

 俺はそれに、しぶしぶ同意した。

「残念そうだな」
「それは、まあそうですよ」

 ここで待ち合わせたということは、このわいわいとした空気の中で別れるということで。
 手を繋いだり、肩を組んだりしている人たちの姿を眺めながら、なんとなく俺は、その光景の一部から、傍観者へと変化したように感じていた。

 頭だけがフル回転していた俺は、ぐっと腕を引かれるまで、光平さんの存在を自分の外に置いていたらしい。

「うわっ」
「送る」
「へ?」

 動揺のまま、変な声を出してしまったが、光平さんはそんな俺の行動を気にする様子もなく、ずんずん進んで行く。
 俺は、もう一度ちゃんと聞こうと思って追いかけた。

「あそこから抜けたら、地下鉄。最寄りまで行けば、頑張れば歩いてでも帰れるだろ?」
「……た、ぶん?」
「普段、あの辺まで出歩かないのか?」
「用事がないので」
「ふうん」

 光平さんは何か考えていたようで、ピタとその場に立ち尽くした。
 急ブレーキに、俺は光平さんにぶつかりかけてしまったが、肌を触れあわせることはなかった。

「光平さん?」
「送ってから帰ってやる」
「え」

 俺の返答を聞かず、光平さんは再度歩き出した。
 暗くなり、マップアプリにも頼れなくなった俺は、急いで光平さんについて行く。

「とりあえずあっち行くぞ」
「あ、はい……!」

 普段より多い人混みを避けきれず、ときどき置いていかれそうになった。
 けれど、光平さんの向かうほうは人が少ない路線だったらしく、徐々に減る人波のおかげで、俺はぎりぎり、追いつくことができた。

「早……」
「慣れだ」
「ええ……」

 混み合う地下鉄に乗り込んだ俺は、光平さんのすんとした表情を見て、余計に疲労度を高くした。

 そこまで長い時間でもなかったが、座席の空きは増えず、二人でつり革を掴んで並んでいると、光平さんはやはり、自分よりも体格がよくて、どっしりとした安定感もあって、うらやましいことばかりだ。

「……」
「……」
「なに」
「え、あ……なんでもないです」

 じっと見ていたことに気付かれて、俺はふい、と顔を背けた。正面の窓ガラスに映る自分の百面相を見続けるのもなんだかいやで、俺は俯いたり、光平さんとは逆隣を見たりして、気を紛らわせていた。
 そのいたたまれない気持ちのうちに、最寄り駅に着いて、さくさく進んで行く光平さんを追いかけて、俺はひたすら、寮に近付くために歩いていく。

「光平さん、なんで、そんな……早い……」
「門限あるんだろ」
「いや、はい、そうなんですが……っ、俺、そんなに足長くないんで!」

 思わず強めに言った言葉は、光平さんの足を止めるのに十分な勢いだったらしい。

「……えっと?」
「え、あ。いや、頑張って走ります、大丈夫です」

 よくよく辺りを見回せば、見覚えのある景色が広がっていて。

「……たぶん、このままいけば帰れるので」
「送る」
「でも」
「なんかあったら、龍之助に悪い」
「う……」

 そこでパワーワードの兄の名前を出されてしまって、俺は困惑した。
 とはいえ、事実、危ないと思われているのであれば仕方がない。

「じゃあ、その、大学まででいいんで」
「ああ」
「なんにもないですよ」
「知ってる」

 光平さんは淡々と喋って、息も切らさず歩いて行く。
 俺は、ときどきちょっとだけ遅れたものの、普段よりは早く大学付近まで辿り着けた。
 歩いてる間に、会話はなかった。というのも、俺がぜーはー言いながら歩いていたからで、決して、話す気持ちがなかったわけではない。

 なんで誘ってくれたのか。
 なんで一緒に、最初から最後まで付き合ってくれたのか。

「あ、りがとうございました……」
「ああ」
「……あの」
「ん?」
「楽しかったです!」

 誰もいない夜闇に、俺の声が微妙に広がって、さすがに気恥ずかしい。
 ささっと帰ろうと、踵を返そうとしていたところだった。

「……それはよかった」

 光平さんの柔らかい声。ほっとしたような、小さい子どもにかけるような。
 その声にドキドキしてしまい、俺は、しどろもどろになりながら、もう一言、沿えようと思った。

「また、あの」
「わかった」

 光平さんは同意してくれたけれど、なんとなく俺は気恥ずかしくなって、その後は盛大に頭を下げて、寮まで全力ダッシュした。

 部屋に戻ってから俺は、息を切らせたままシャワーを浴びて、なんとか冷静さを取り戻そうとしたけど、全然元に戻らなくて。

「……一緒に、行ったんだよなぁ」

 一応、世間にならっていろんな写真を撮ったけれど、それが自分の手により撮られたものかすら、曖昧で。
 二人で撮った写真もなく、ただただ、出店と食料と、展示がぐるぐる回転していくカメラロール。

「つ、かれた……」

 そのままベッドになだれ込んで、俺は一瞬で眠ってしまった。
 翌朝、忘れられていた筋肉が各所で目覚め、ぷるぷるしたまま、一日を過ごしたのだった。