ブラコン新入生は、兄の友人から恋を学ぶ


 あっという間に、その日は来た。
 授業も佳境で、衣替えの中で「大学生らしい」服装がわからなくなりながら、とりあえず、自分の持つ服の中で、一番くたっとしていないものを選んだ。新しく買えるほど、俺は服に頓着していない。

 そして、たぶんそこまで、光平さんも気にしていないだろう。
 どうせ大学でも何度も会っている。服装だって知られているのだ。

「……どうしよ」

 だけれど、どうにも鏡の前から動けそうにない。
 前日から、何を着るのかどうかなど、しっかり決めていた。髪型も毛先の跳ねなく終わっている。化粧なんてしないけれど、兄さんがよく使っていたジェル状の日焼け止めはきっちり念入りに塗りたくった。
 デオドラント剤もちゃんと使ったし制汗シートも使っている。

 だから、もう、家から出てもいいはずだ。とはいえ、それでも不安だった。

「……お、わ」

 待ち合わせの場所は、光平さんに合わせたのではなく、俺が選んだ。光平さん曰く、「なにごとも経験」だとかなんだとか。ただ、それを言っていた光平さんは、なんとなく、笑いをこらえていた気がしている。

 その理由がこの状況だと、すぐにわかった。
 待ち合わせの駅に降り立った時点で、人だらけ。地上に上がる方向すら規制されていて、「滞留しないように」と拡声器からの割れた指示まで聞こえてくる。

「これ、光平さん見つけてくれるのかな……」

 一応、移動開始の時間も言ったし、光平さんのほうも「その時間には着いてるから」と連絡をくれた。
 だから待つしかないか、と促されるまま、歩道を歩き始めようとしたときだった。

「……っ、伸二!」

 後ろから、服の裾を思い切り引かれて、振り返る。

「うえ、えっと」
「後ろだ」
「あ、光平さん!」

 声に従って振り返ると、そこには件の光平さんがいた。
 いつもと変わらない気がするのに、どこかきらきらして見えたのは、自分の心が弱っていたからだろうか。

 う、となんとも言えない息のつまりを感じつつ、俺は光平さんをじっと見つめ続けていた。
 普段もたいがいだろうけれど、しっかりと光平さんに近付いていく。

「すいません、こんな混んでるとは思わなくて」
「普通、知らないもんだから。単純に経験してもらうほうがいいと思ったしな」
「はあ……」

 光平さんにはお見通しだったのか。
 なんとなく自分の失敗が読まれていたと分かって、俺は肩を落とした。

「……どうしたんだよ」
「あ、いや……」

 どう答えるべきか、悩むほどでもなかったのに、なんとなく言いよどんでしまった。
 別に、怖がる必要も、いつもがどうとか考える必要もなかったけれど。

 なんとなく、今思っていることをそのまま言うのも違うのかも、と思って、俺は話題を切り替えることにした。

「光平さんに会えて、ちょっと安心しちゃって」
「ならいいけど」
「えっと」
「とりあえず、行きたい場所、決めたか?」
「地図見ても、ぜんぜんわかんなかったんですけど。ここが有名ってことだったので、先に来ておきたくて」
「ああ、そうだろうな」

 まただ。
 先回りされている気がするけど、光平さんなら悪くない。
 そう思えるのは、ちょっとだけ不謹慎だろうか。

「とりあえず東西南北、どこに行くか。ほら、それだけでも」

 方角と地理が一致していないんですが、と言いかけて、俺は光平さんに指示されるまま、マップアプリのピンを触った。

「えっとここのあと、この辺、どうです?」

 ええいままよと指さした方角は、目当てのものとは程遠かったのかもしえない。

「わかった、北方向な」
「え、こっちが北ですか」
「違ったのか?」

 自分が指したつもりの場所は、西だったが、よくよく見れば、方位磁針のマークが九十度傾いていた。
 ああ、と気付いたときにはもう遅い。

「まあいいや、さっさと行くぞ」

 ここで手でも差し伸べられたら、異世界ヒロインにでもなれたのかもしれないけれど、あるのはちょっとヒゲの濃くなりだした美しくもない男の姿で。

 おとぎ話よりもよっぽど不思議な関係性に、俺はときめいて、動揺しているに違いない。
 ついてこい、と言わんばかりの光平さんに、俺は振り回されてばかりだ。

「光平、さ」
「ほら」

 手を繋ぐ、肘や肩を組む。背中の布地を引っ張る。
 いろんなパターンも考えついたけれど、結局はどれも選択できなくて、いつも通り、半歩後ろで光平さんの足跡をなぞるように着いて回って歩いているだけ。

 ちょっと、それだけじゃだめなんだろうと思い始めている。
 きっと、そうに違いない。

 だから俺は言った。

「なにかあったら、俺、置いていってくださいね」

 それくらいで変わるわけもないとわかっているのに、俺の口は自然と、そういう言葉を吐き出していた。あ、と思っても、俺の放った音はしっかりと光平さんの耳にも届いていた。

「わかってるよ」

 光平さんは振り返らず、俺に答えた。
 それをちょっとだけ寂しいと思うのは、きっと、間違っているのだろうと、その時の俺は思ったのだった。