夜7時。智花と磯子駅の改札口で待ち合わせをして、一緒に光成塾へと向かう計画。お父さんは「これまで散々お世話になっただろう?」と、今現在通っている生徒さんにもちゃんとお土産を買って行くように、3千円持たせてくれた。
「あ! 智花―」
磯子駅はベッドタウン。会社や学校帰りの人たちで、改札口周辺はごった返す。人並みをかき分けながら、智花が改札に向かって歩いて来る。
「……人、多過ぎんのよ」
相変わらずの真面目な表情。ぶつぶつと文句を言う智花を連れて、スズミヤで生徒さん分にチョコレートを買う。
「……流石だね、英里のお父さんは。ウチとは全然違うなぁ」
「きっと智花のお父さんも、家にいたら同じ事言ってそうな気がするけどね」
智花のお父さんはサラリーマンをしているらしいけれど、私のお父さんは家で仕事をしている。「自営業」っていうらしい。……何の仕事なのかは知らないけれど。
「でもさ、遠藤先生……何で夜に呼んだんだろう?」
「……さぁ? 『掃除でもしてよ』とか言うのかな?」
4月の夜は、風が気持ち良い。私たちは呼ばれた理由を話し合いながら、夕方と同じ道を辿って行く。結局塾に着いた時には、結論は出ないままだった。
「……こんばんはぁ……」
煌々と明かりが漏れてくる光成塾。外からこの明るさを見るのは、久し振り。私たちは恐る恐るドアを開けた。数年振りに見る、勉強している中学生の姿。当時の自分が脳裏に浮かんで、一瞬懐かしい気持ちを覚えた。
「おぉ、来てくれたのね。ありがとう」
光成塾は、授業をしない塾。生徒さん達は各自やるべき事を、黙々と勉強している。勉強のやり方だったり、解いていて分からない問題が出てきたら、先生に質問するスタイル。先生は手招きをして、シン……とした教室の中に入るよう呼びかけてくれた。
「……失礼しまぁ……す」
中学生たちがちらりと一瞬だけ向ける視線を感じながら、教室の中を歩き……ホワイトボードがある前の方へと向かう。簡易的な職員室があるのが教室の前方だから、少し恥ずかしいけど仕方無い。
「先生、これ……お土産。はい」
「おぉ、また? 悪いな。ありがとう」
「お父さんが、買ってけって」
「流石だよな。藤本のお父さん。『ありがとうございます』って言っておいて?」
「……はぁい」
ガサガサッ……と音を立てながら、先生はチョコが入った袋を奥に持って行った。
「さて……ちょっとこっち来て」
先生は私たちを、奥の方に呼ぶ。勉強している生徒さんに、声が聞こえない様にするためだと思う。
「ミニ説明会、しようと思って」
「……説明会?」
「そ。前に立ってインタビューしようと思って」
「……えっ?」
「覚えてないの? 2人が通ってる時も……やったじゃん」
先生がにこにこしながら、私たちに説明をしてくれた。確かに……私たちが中3だった頃に、卒業した生徒を呼んで、当時生徒だった私たちに向かって色々と話をしてくれたっけ……。
「じゃ、行こうか」
「……ちょっ……心の準備が……」
「ん? 大丈夫。質問してもらって、答えるだけだから」
そう言うと、先生は教室の前方に椅子を2個並べて、私たちを手招きをする。それに合わせるかのように、私たちは15人ほどの中学生の前に立つ……。
(うわぁ……めっちゃ緊張するじゃん……)
嬉々とした視線を感じて、私と智花は思わず目を合わせてしまう。ふと気が付くと……手に汗をべっとりかいてるなと思った。
「はぁーい、みんなぁー」
パン! パン! と先生が手を叩いて注目を集める。……そこまでしなくても良いのに。
「今日はですねぇ、2年前までうちで勉強してくれていた卒塾生に来てもらったから。一言ずつ簡単に話をしてもらおうかな?」
(……えっ? 話、変わってない?)
「……ちょっ」
「まぁまぁ。せっかくだしね」
先生は軽くにこりと微笑んだ。……いつも先生にはやられっぱなし。仕方無く、覚悟を決める事にした。
「こちらが藤本英里さん。で、こちらが東堂智花さん。二人とも栄ケ丘高校ね」
先生が私たちを紹介すると、座っている生徒さんたちが「……おぉ」とざわついた。栄ケ丘高校は一応、この地域のトップ高だからだと思う。
「じゃ、藤本さん。……いきなり『しゃべって』って言われても、大変だと思うから、そうだなぁ……これから1年間、受験勉強する上で『春にやっておけば良かったな』って事、教えてもらおうかな」
(そっか……4月だから、これから1年間受験勉強するのか……)
「あっ、はい……そうですねぇー……」
「私は……数学と理科が好きで、そればっかりやっていたんですけど……国語もだし、英語も、他の科目ももっとやっておけば、入試前に困らなかったです」
そう。私は「自分の好きな事」ばかり勉強してきた。もし今……受験生に戻るなら、苦手教科もちゃんとやっておきたい……。入試前に、相当苦労したから。
(くぅー……めっちゃ緊張するじゃんよぉー……)
自分の顔がぼうっと熱くなるのが分かった。シン……とした中、みんな真剣な表情で聞いてくれているような気がする。
「はい。ありがとうね。じゃ……東堂、お願いしようかな」
「はい、私は……」
私と違って、智花の冷静沈着な表情。ピクリとも眉を動かさずに、いつも私と話をしている時と同じ顔で淡々と生徒さんたちに話かけている。
「栄ケ丘高校は、基本的に皆さん大学に進学するので……例えば慶應義塾大学に行きたいとか、医学部に行きたいとか……できるだけ高校受験をゴールにするのではなくて、その次を見据えながら、勉強すると良いと思います」
(ひょえぇー……私と全然違って、ガチな感じじゃんか……)
「何でこんなに流暢にしゃべる内容が浮かぶんだろう」と思いながら、じっと智花の横顔を見つめていた。
「……はい、2人ともありがとう」
「まぁ、まだ春だけどね。栄ケ丘高校は倍率も高くて人気がすっごいあるから……希望している人は、本当に今からコツコツやっておいた方が良いな」
先生が上手にまとめてくれて、無事に私たちの初舞台は終わった……ように思っていた。
「……じゃ、せっかく来てくれた訳だから……」
先生が私たちに視線を送る。
「ちょっと勉強でも教えて行ってもらおうかな」
「簡単な問題だけね」
(えぇー……!? 私たちが……勉強を教える……?)
思わず「えっ?」と声を出してしまった。生徒のみんなも「えっ?」という表情をしている子もいれば、目を輝かせているような感じの子もいる……。「ま、ちょっとしたアルバイトだな」と先生は軽く言っているけど……私は不安でしか無かった。
光成塾は演習が中心。私も生徒だった頃は、シン……と静まり返った教室の中で、自分のやるべき内容を黙々と勉強した。もし解説を読んでも分からない問題があれば……遠藤先生に声をかけて、教えてもらう。現在もどうやら当時と全く同じ流れらしい。
「……先生っ」
私が勉強している生徒さん達の間を歩いていると、早速手を挙げてくれた。「できないよー」というちょっと不安な感情と、初めて人に勉強を教えるわくわく感。両方が私の心の中にはあった。
「……ん? どれ?」
「えっと、これです」
『銅が15gあり、完全に酸化した場合、酸化銅は何gできるか』
(なるほどねぇ。……中2の単純な計算よねぇ……)
塾の中には、神奈川県でトップレベルの学力を持った生徒さんもいるだろうし、今のままじゃ高校に行けないっていう感じの生徒さんもいるはず。今回はかなり易しい問題を聞いてくれた。
「えっと、銅と酸素と酸化銅って……何対何対何で酸化するか、知ってる?」
「……ええっと……3対……2対……5?」
「それは、マグネシウムと酸素の酸化比だね。銅は4対1対5だよ」
「へぇ……」
私は教室の後ろ側から計算用紙を持ってきて、生徒さんの前で実際に計算を始めた。特に小数が出てくるような問題じゃ無いから……暗算でもできるレベル。でも、必ず紙に書く。これは私が生徒だった時に、遠藤先生から教わった事。
「……ありがとうございます」
解説に納得してくれて、小声であいさつをしてくれた。「意外と気持ち良いかも知れない……」と、ちょっと思った。智花にちらりと視線を送ると、何やら淡々とした表情で質問に答えていた。
(……笑えば可愛いのにな)
「もったいない」と思いながら、私はまた机の間を歩いて回った。
「はいっ! 先生―」
さっきの生徒さんと比べて、ちょっと元気がありそうな女の子。にこにことピュアな表情を向けて手を挙げてくれている。
「はぁい」
「社会なんですけど……良いですか?」
(おぉー……社会かぁ)
(ま……問題次第……かな?)
「ん? どれ?」
問題に向かって、顔を近づいていく。どうやら地理をやっているらしかった。
「これです」
「……ん? どこ?」
「『輪中』って何ですか?」
「『輪中』……」
懐かしい。塾で勉強した事は覚えている。でも……輪中が何なのかは、覚えていない。もちろんウソを教える訳にはいかないので……智花の力を借りる事にした。
「ね! 智花! 今ヒマ?」
「暇って……失礼ね。言い方、考えなさいよ」
「ごめんって。ちょっとさ、こっち来てよ。社会」
手招きして智花を呼び寄せる。生徒さんには「社会のプロが来るからね!」と調子の良い事を言っておいて……私はまた別の生徒さんの所で質問に答えた――
ふと時計に目をやると夜8時を少し過ぎていて、「もう1時間経った!?」と驚いてしまった。先生が「もう良いよ、ありがとう」という言葉をかけてくれて……私と智花の先生体験が終了した。
「ねぇ、楽しかったよね!」
帰り道、テンション高めに智花に話かけた。表情はいつも通り落ち着き払ってはいるけど、きっと内心どきどきしていたんじゃないかと思って。
「……そうね。楽しかった……かな」
「何よ……あんま楽しそうじゃないね。その表情」
「ん? 楽しかったよ? 失礼ね。表情で決めるなんて」
「……だってつまんなそうじゃん。智花の顔」
「……だから。それが失礼だって言ってんのよ」
夜8時過ぎ。ファミレスやコンビニ以外のお店はほとんど閉まっていて、すっかり夜が始まっていた。暗い夜道、笑い声をちょっと抑えながら……私たちは家に向かった。
(何だろ……めっちゃ楽しかったな)
心の中に残った、「やりがい」とも「嬉しさ」とも……何ともいえない感情。帰り道で私は一人、今日の授業を振り返っていた。
「あ! 智花―」
磯子駅はベッドタウン。会社や学校帰りの人たちで、改札口周辺はごった返す。人並みをかき分けながら、智花が改札に向かって歩いて来る。
「……人、多過ぎんのよ」
相変わらずの真面目な表情。ぶつぶつと文句を言う智花を連れて、スズミヤで生徒さん分にチョコレートを買う。
「……流石だね、英里のお父さんは。ウチとは全然違うなぁ」
「きっと智花のお父さんも、家にいたら同じ事言ってそうな気がするけどね」
智花のお父さんはサラリーマンをしているらしいけれど、私のお父さんは家で仕事をしている。「自営業」っていうらしい。……何の仕事なのかは知らないけれど。
「でもさ、遠藤先生……何で夜に呼んだんだろう?」
「……さぁ? 『掃除でもしてよ』とか言うのかな?」
4月の夜は、風が気持ち良い。私たちは呼ばれた理由を話し合いながら、夕方と同じ道を辿って行く。結局塾に着いた時には、結論は出ないままだった。
「……こんばんはぁ……」
煌々と明かりが漏れてくる光成塾。外からこの明るさを見るのは、久し振り。私たちは恐る恐るドアを開けた。数年振りに見る、勉強している中学生の姿。当時の自分が脳裏に浮かんで、一瞬懐かしい気持ちを覚えた。
「おぉ、来てくれたのね。ありがとう」
光成塾は、授業をしない塾。生徒さん達は各自やるべき事を、黙々と勉強している。勉強のやり方だったり、解いていて分からない問題が出てきたら、先生に質問するスタイル。先生は手招きをして、シン……とした教室の中に入るよう呼びかけてくれた。
「……失礼しまぁ……す」
中学生たちがちらりと一瞬だけ向ける視線を感じながら、教室の中を歩き……ホワイトボードがある前の方へと向かう。簡易的な職員室があるのが教室の前方だから、少し恥ずかしいけど仕方無い。
「先生、これ……お土産。はい」
「おぉ、また? 悪いな。ありがとう」
「お父さんが、買ってけって」
「流石だよな。藤本のお父さん。『ありがとうございます』って言っておいて?」
「……はぁい」
ガサガサッ……と音を立てながら、先生はチョコが入った袋を奥に持って行った。
「さて……ちょっとこっち来て」
先生は私たちを、奥の方に呼ぶ。勉強している生徒さんに、声が聞こえない様にするためだと思う。
「ミニ説明会、しようと思って」
「……説明会?」
「そ。前に立ってインタビューしようと思って」
「……えっ?」
「覚えてないの? 2人が通ってる時も……やったじゃん」
先生がにこにこしながら、私たちに説明をしてくれた。確かに……私たちが中3だった頃に、卒業した生徒を呼んで、当時生徒だった私たちに向かって色々と話をしてくれたっけ……。
「じゃ、行こうか」
「……ちょっ……心の準備が……」
「ん? 大丈夫。質問してもらって、答えるだけだから」
そう言うと、先生は教室の前方に椅子を2個並べて、私たちを手招きをする。それに合わせるかのように、私たちは15人ほどの中学生の前に立つ……。
(うわぁ……めっちゃ緊張するじゃん……)
嬉々とした視線を感じて、私と智花は思わず目を合わせてしまう。ふと気が付くと……手に汗をべっとりかいてるなと思った。
「はぁーい、みんなぁー」
パン! パン! と先生が手を叩いて注目を集める。……そこまでしなくても良いのに。
「今日はですねぇ、2年前までうちで勉強してくれていた卒塾生に来てもらったから。一言ずつ簡単に話をしてもらおうかな?」
(……えっ? 話、変わってない?)
「……ちょっ」
「まぁまぁ。せっかくだしね」
先生は軽くにこりと微笑んだ。……いつも先生にはやられっぱなし。仕方無く、覚悟を決める事にした。
「こちらが藤本英里さん。で、こちらが東堂智花さん。二人とも栄ケ丘高校ね」
先生が私たちを紹介すると、座っている生徒さんたちが「……おぉ」とざわついた。栄ケ丘高校は一応、この地域のトップ高だからだと思う。
「じゃ、藤本さん。……いきなり『しゃべって』って言われても、大変だと思うから、そうだなぁ……これから1年間、受験勉強する上で『春にやっておけば良かったな』って事、教えてもらおうかな」
(そっか……4月だから、これから1年間受験勉強するのか……)
「あっ、はい……そうですねぇー……」
「私は……数学と理科が好きで、そればっかりやっていたんですけど……国語もだし、英語も、他の科目ももっとやっておけば、入試前に困らなかったです」
そう。私は「自分の好きな事」ばかり勉強してきた。もし今……受験生に戻るなら、苦手教科もちゃんとやっておきたい……。入試前に、相当苦労したから。
(くぅー……めっちゃ緊張するじゃんよぉー……)
自分の顔がぼうっと熱くなるのが分かった。シン……とした中、みんな真剣な表情で聞いてくれているような気がする。
「はい。ありがとうね。じゃ……東堂、お願いしようかな」
「はい、私は……」
私と違って、智花の冷静沈着な表情。ピクリとも眉を動かさずに、いつも私と話をしている時と同じ顔で淡々と生徒さんたちに話かけている。
「栄ケ丘高校は、基本的に皆さん大学に進学するので……例えば慶應義塾大学に行きたいとか、医学部に行きたいとか……できるだけ高校受験をゴールにするのではなくて、その次を見据えながら、勉強すると良いと思います」
(ひょえぇー……私と全然違って、ガチな感じじゃんか……)
「何でこんなに流暢にしゃべる内容が浮かぶんだろう」と思いながら、じっと智花の横顔を見つめていた。
「……はい、2人ともありがとう」
「まぁ、まだ春だけどね。栄ケ丘高校は倍率も高くて人気がすっごいあるから……希望している人は、本当に今からコツコツやっておいた方が良いな」
先生が上手にまとめてくれて、無事に私たちの初舞台は終わった……ように思っていた。
「……じゃ、せっかく来てくれた訳だから……」
先生が私たちに視線を送る。
「ちょっと勉強でも教えて行ってもらおうかな」
「簡単な問題だけね」
(えぇー……!? 私たちが……勉強を教える……?)
思わず「えっ?」と声を出してしまった。生徒のみんなも「えっ?」という表情をしている子もいれば、目を輝かせているような感じの子もいる……。「ま、ちょっとしたアルバイトだな」と先生は軽く言っているけど……私は不安でしか無かった。
光成塾は演習が中心。私も生徒だった頃は、シン……と静まり返った教室の中で、自分のやるべき内容を黙々と勉強した。もし解説を読んでも分からない問題があれば……遠藤先生に声をかけて、教えてもらう。現在もどうやら当時と全く同じ流れらしい。
「……先生っ」
私が勉強している生徒さん達の間を歩いていると、早速手を挙げてくれた。「できないよー」というちょっと不安な感情と、初めて人に勉強を教えるわくわく感。両方が私の心の中にはあった。
「……ん? どれ?」
「えっと、これです」
『銅が15gあり、完全に酸化した場合、酸化銅は何gできるか』
(なるほどねぇ。……中2の単純な計算よねぇ……)
塾の中には、神奈川県でトップレベルの学力を持った生徒さんもいるだろうし、今のままじゃ高校に行けないっていう感じの生徒さんもいるはず。今回はかなり易しい問題を聞いてくれた。
「えっと、銅と酸素と酸化銅って……何対何対何で酸化するか、知ってる?」
「……ええっと……3対……2対……5?」
「それは、マグネシウムと酸素の酸化比だね。銅は4対1対5だよ」
「へぇ……」
私は教室の後ろ側から計算用紙を持ってきて、生徒さんの前で実際に計算を始めた。特に小数が出てくるような問題じゃ無いから……暗算でもできるレベル。でも、必ず紙に書く。これは私が生徒だった時に、遠藤先生から教わった事。
「……ありがとうございます」
解説に納得してくれて、小声であいさつをしてくれた。「意外と気持ち良いかも知れない……」と、ちょっと思った。智花にちらりと視線を送ると、何やら淡々とした表情で質問に答えていた。
(……笑えば可愛いのにな)
「もったいない」と思いながら、私はまた机の間を歩いて回った。
「はいっ! 先生―」
さっきの生徒さんと比べて、ちょっと元気がありそうな女の子。にこにことピュアな表情を向けて手を挙げてくれている。
「はぁい」
「社会なんですけど……良いですか?」
(おぉー……社会かぁ)
(ま……問題次第……かな?)
「ん? どれ?」
問題に向かって、顔を近づいていく。どうやら地理をやっているらしかった。
「これです」
「……ん? どこ?」
「『輪中』って何ですか?」
「『輪中』……」
懐かしい。塾で勉強した事は覚えている。でも……輪中が何なのかは、覚えていない。もちろんウソを教える訳にはいかないので……智花の力を借りる事にした。
「ね! 智花! 今ヒマ?」
「暇って……失礼ね。言い方、考えなさいよ」
「ごめんって。ちょっとさ、こっち来てよ。社会」
手招きして智花を呼び寄せる。生徒さんには「社会のプロが来るからね!」と調子の良い事を言っておいて……私はまた別の生徒さんの所で質問に答えた――
ふと時計に目をやると夜8時を少し過ぎていて、「もう1時間経った!?」と驚いてしまった。先生が「もう良いよ、ありがとう」という言葉をかけてくれて……私と智花の先生体験が終了した。
「ねぇ、楽しかったよね!」
帰り道、テンション高めに智花に話かけた。表情はいつも通り落ち着き払ってはいるけど、きっと内心どきどきしていたんじゃないかと思って。
「……そうね。楽しかった……かな」
「何よ……あんま楽しそうじゃないね。その表情」
「ん? 楽しかったよ? 失礼ね。表情で決めるなんて」
「……だってつまんなそうじゃん。智花の顔」
「……だから。それが失礼だって言ってんのよ」
夜8時過ぎ。ファミレスやコンビニ以外のお店はほとんど閉まっていて、すっかり夜が始まっていた。暗い夜道、笑い声をちょっと抑えながら……私たちは家に向かった。
(何だろ……めっちゃ楽しかったな)
心の中に残った、「やりがい」とも「嬉しさ」とも……何ともいえない感情。帰り道で私は一人、今日の授業を振り返っていた。



