16歳、先生になる―女子高生社長の挑戦―

土曜日の午後2時。お互いに一切しゃべる事無く、私と智花は無言のまま塾の掃除をする。

お父さんはじっと窓の外を見ている。なぜ土曜日の午後は、私たちを地獄に突き落とす事ばかり起きるのか――

話は前日にさかのぼる。

お父さんに千夏ちゃんのお母さんから「塾を辞めようと思う」と電話がかかってきたのだ。

私はパニックになり……家で大泣きしてしまった。そんな私をよそにお父さんは冷静で……すぐに智花にも連絡して、磯子駅のカフェでお通夜のような時間を過ごしていた。

もちろん辞める理由は分からない。智花に話を伝えるだけだったけど、初めて智花が泣く姿を見た。

「さ、準備はこれで終わりかな……」

智花の目。可愛らしい顔をしているのに、目の下にはくっきり黒いクマがある。

きっとあの後、家に帰ってからも泣いたらしい。もちろん私も……同じだったけど。

「はぁ。また千夏ちゃんのお母さんかぁ……怖いな」

「そんな事、言うもんじゃないぞ? 気持ちは分かるけどな。お客さんなんだから。辛いと思うけど、しっかりお客さんの気持ちは受け止めなきゃいけないよ」

「……うん。分かってる」

「こんにちは」
ドアの向こうから声がする。

千夏ちゃんのお母さんがやってきた。声を聞いて、急に鼓動が速くなるのが分かった。

「はっ……はい」
私と智花は玄関まで出迎えに行く。

お母さんの表情は一層真顔に見えた。直視できない。ちらりと一瞬だけ見て、思わず目を反らしてしまった。

「こちらです、どうぞお入り下さい」
「はい、失礼します……」

お母さんを前回と同じように、テーブルの方に案内する。椅子を指し示すために伸ばした腕は……やっぱり振るえていた。私の意思とは無関係に。

「昨日頂いたお電話ですが……退塾を希望されていらっしゃるという事で……」

お父さんが穏やかに話を切り出す。声も上ずっていないし……何でそんなに冷静なんだろうと思う。

私はもう、呼吸すら苦しいのに。

「はい。まだこちらでお世話になって間も無いんですけど……辞めさせて頂こうと思いまして」

「そうなんですね……承知しました。ご入塾の際にご説明したかと思いますが、こちらの書類にお名前をご記入頂けますか」

『退塾届』と書かれた用紙とボールペンを、お母さんの前に丁寧に差し出す。

お母さんは自分と千夏ちゃんの名前、そして住所などを静かに書いている。約20秒ほど。

シンとした沈黙が英智ゼミを包み込む……。心なしか、ボールペンの音が攻撃的なように感じた。

「……ありがとございます。もしよろしければ……辞められる理由をお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか? 何か失礼な所などあれば、お詫びいたします」

お父さんの落ち着いた問いかけに、ペンを置いたお母さんがゆっくりと答えた。

「……ここまでお世話になってきたんですけど、なかなか成績も伸びないので……個別指導の塾に変えようと思ってですね……」

表現を選ぶように、お母さんが答えた。

「……そうだったんですね」
「はい。お二人にはよくして頂いたみたいで……申し訳無いんですけど……」

そう言うと、お母さんがちらりと私と智花の方を向いた。

「あっ……」

私が出す事ができた言葉は、これだけだった。

「短い間でしたけど、お世話になりました」

座ったまま、千夏ちゃんのお母さんは軽く頭を下げた。

それに合わせて「とんでもないです……」とお父さんも頭を下げる……。

「失礼します」とお母さんがドアをゆっくりと閉じ、私たち3人は最後、パタンと音がするまで、ずっと頭を下げたまま。

階段を下りていく足音が聞こえて、ようやく顔を上げた。