「へぇ。アツいね……星野先生」
「そうなんだよ! ビックリしちゃったよ。私」
「ま、眠気も覚めたなら、丁度良かったじゃない」
「おい! そもそもさ、古典が面白ければ……寝たりしないんだって」
「え? すっごい面白いじゃない? 古典」

学校から山手駅に向かって歩くと、途中からは下り坂になる。登校の時と逆になるから……楽になるのかなと思っていたけれど、意外と下り坂は大変。脛や太ももに、かなり力を入れないと、ゆっくり歩く事ができない。これがまた想像以上に疲れる……。

「どこが面白いのよ……? 古典なんかの」
「どうせ英里は、単語も文法も覚えて無いんでしょ?」
「知ってるってば。『いみじ』は、『はなはだしい』って意味でしょ?」
「……それくらい? じゃ、助動詞の『む』の意味は? 言える?」
「『む』? ……『む』?」
「あんた……よくそれで、栄ケ丘に入れたわよね」
「……良いんだってば! 数学と理科なら……」

山手駅からJR根岸線に乗って、横浜駅とは逆方向に進む。山手駅からは2つ目の磯子駅が、私と智花が降りる駅。何てことは無い、ベッドタウンだけれど。

「良い? 『む』は……」
「えー……まだ続くのぉ? 電車の中だよ? ……恥ずかしいって……」
「推量! 意思! 可能! 当然! 命令! 適当! 婉曲! 分かった?」
「ひぇ……」

忘れていた。私が数学と理科を愛するように……智花は国語と社会そして英語を愛しているという事を……。

「『スイカ止めてぇ』よ?」
「はぁ……? 『スイカ止めてぇ』?」
「頭文字だって。推量の『す』。意思の『い』。可能の『か』……みたいな感じ」
「……なるほど。ま、もう……良いって。智花の愛はさ、十分伝わったから……」

磯子駅の改札口を出て、右へ曲がる。そのまま歩道橋を歩いていくと……突き当りを左右に曲がる事になる。私と智花は、ここで別れる。

「ね、智花」
「……何?」
「今日さ、この後……暇?」
「まぁ……特に予定は無いけど。……何?」
「久し振りにさ、遠藤先生のトコ! 行こうよ! ね!」

遠藤先生。私と智花が中3の時に通っていた塾の先生。磯子でやってる小さな塾。先生は遠藤先生しかいない。とてもお世話になった先生で、私と智花はたまに気が向いた時に、ふらりと顔を出していた。

「今日の星野先生の事でしょ」

智花は鋭い。その通りで、朝からずっと古典の星野先生の言葉をずっと考え続けていた。

「……まぁ、そんなトコ。ね? 良い?」
「んー……ま、良いよ。久し振りだしね。遠藤先生」
「やったっ! そうこなくっちゃ!」

私の家は、突き当りを右に曲がった所にある団地。でも今日は……左に曲がって、遠藤先生のいる光成塾へと向かって行った。

「何か、お土産でも買ってく?」

智花はいつも気が利く。「そんな黒ブチ眼鏡じゃ無ければ……もっとモテるのにな」と私は思う。

「……あぁ、そうだね。スズミヤで買ってこう!」

突き当りを左に曲がると、スロープと階段が併設されている下り坂。下り切ると、目の前にはいつも買い物に行くスーパー「スズミヤ」がある。私たちはスズミヤでドーナッツを五個買って、遠藤先生のいる光成塾へ向かう事にした。

(へへ……久し振りだなぁ)

私は遠藤先生には頭が上がらない。受験の時もそうだけれど……数学と理科が好きになり、東京科学大で宇宙の研究をしたいなと思ったのも、実は遠藤先生の影響なのだ。それに先生はいつも優しく、当時通っていた生徒たちも「嫌い」って言ってた人はいなかった。

スズミヤを出て、10分ほど歩くと、光成塾の前に到着。時間は午後4時を過ぎたところだから……先生はいるはず。でも中を覗いてみると、何やら電気が消えている感じだった。

(……えっ? やっちゃった……?)

「もしかすると休みかも……」と思っていると、私たちの背後から、聞こえ慣れた声がした。

「おぉ、藤本と東堂か?」

私たちはくるりと後ろを振り返る。そこにはスーパーの袋をぶら下げた、遠藤先生が立っていた。

「わあ! 先生!」
「おお、久し振りだな。今日は東堂も一緒か!」
先生が智花を見て、にこっと笑った。

「はい。英里に『久し振りに行こうよ』って言われたので……来てみました」
「おー! 久し振りだなぁ。……ま、とりあえず入ったら」

そう言うと先生は、ポケットからガサゴソと鍵を取り出した。

「英里、良かったね。このタイミングで」
「ね! もっと早く来てたら……会えてないもんね!」

「どうぞー」

中の電気を付けて、先生は私たちを中へ案内してくれた。久し振りの光成塾。私は先生に聞きたいことがいっぱいあった――