クラスメートや教師の名前は憶えている。体育祭や文化祭などの行事も、断片的には記憶にある。
僕が失くした記憶は、校内での人との関係性だ。
先ほどの田淵君のことも名前や顔は一致しているけれど、その彼と僕がどれほどの関係値を築いていたのかが思い出せないのだ。
長引いた高熱のせいだろうか。
なんにせよ、ずっとこのままというわけにはいかない。周囲の人々も、そのうち僕の異変には気づくはずだ。
さて――どうしようか。
そんなことを考えながら校門を出ようとしたところで、頭上でドンッ、という音が鳴った。
反射的に顔を上げると、そこは校舎の庇部分だった。
何か落ちたのだろうか。
校門を出て、庇の上を見上げる。
「えっ」
――おいおい、マジか。
「えぇっ⁉ ちょ、ちょっと‼」
喉の痛みもすっかり忘れ、僕は叫んでいた。
視線の先に、白金の短髪をなびかせた男子生徒を捉えたからだ。透明感のある白い肌からは、いまにも空気に溶けてしまいそうなほどの儚さを感じた。
僕の呼びかけに、彼は打たれたようにこちらを振り向く。
「あっ、ヨウタ!」
「はぁ?」
誰だよ――っていうか、ヨウタじゃないんだけど。
真正面に向かい合ったその顔に覚えはなかった。
しかし、ゆるく締められた胸元のネクタイは僕と同じ赤色。つまり、同級生だ。
それにしても、名前が浮かんでこない。僕のことを名前(間違えているけど)で呼んでいるということは、近しい間柄なのかもしれない。
いや、そんなことより。
「なんでそんな所にいるんだよ、危ないだろ!」
「声ガラガラじゃんか!」
繊細そうな見た目に反して、彼はカッカッカッと豪快に笑った。
呆れて声も出せずにいると、二階の教室の窓から体育科の加藤先生が顔を出した。つり上がった眉の角度が、いつもより険しく見える。
「コラァ、鳥飼ぃぃっ!」
「げっ」
余裕そうな表情から一変、血の気が引いたように青ざめた顔をした彼は、どうやら鳥飼というらしい。
加藤先生は怒り肩のまま、割れんばかりの勢いで窓を閉めると鍵をかけた。本当は自分も庇の上に降り立ち、とっとと捕まえたいところだっただろうが、ここは地域住民からの目もある。おそらく、降参して彼が下りてきたところを捕獲しようという作戦なのだろう。
「早く下りてこいよ、このままじゃ特指だぞ」
特指とは、特別指導のことだ。
うちの高校では、三回特指を受けると強制退学になる。仲間内でふざけ合っていた上級生の問題児グループが、特指を受けた回数を誤算して自爆したという話も聞いたことがある。
しかし品行方正とまではいかずとも、真面目に生きてきた僕には無縁のことだ。
いまのこの状況もできることならスルーしたいところではあったが、どうも放っておけない。
「いやあ、俺もできることなら早く下りたいんだけどさ」
「じゃあそうしろよ、自首すれば情状酌量もあるかもしれないぞ」
「俺もそうしたいんだけどねぇ」
庇の上でしゃがみこむと、彼は首を垂らした。
「……なんだよ」
突然、垂れていた首が伸びる。
桃色の薄い唇が開かれ、真っ白い歯が輝いた。そして呆気にとられているうちに、ぺろりと小さく舌が出される。
「怖くて下りれなくなっちゃったっ」
語尾に星マークがつきそうな物言いに、ズッコケそうになる。
「いやいや、じゃあなんでこんな所に――」
「ねねっ、いま飛び降りるからヨウタが受け止めてよ」
「はぁっ⁉」
「行くよっ!」
「ちょちょちょっ――!」
待ってくれ!
そう叫んだと同時に、庇を蹴り上げて彼は飛んだ。
心なしか、背中に羽が生えているようにも見える。
一瞬、鳥だと思った。
すべてがスローモーションに見えて、僕は鞄を放り投げ全力で手を広げていた。
鳥にしては滞空時間は極めて短い。
視界に占める彼の割合は、どんどん増えていく。
やがて目の前が真っ暗になり、直後、背中に激痛が走った。
「いったぁ……」
びりびりと電流が走ったような痛みに悶えていると、上体にかかっていた重みがいっきになくなる。
うっすらと目を開くと、視界には曇天の下で微笑む彼の姿があった。
仰向けに倒れる僕の腰の上に、ちょこんと乗っかっている。
慌てて上体を起こせば、鼻の先ほどの距離になった。
真っ白い肌には、毛穴ひとつ見当たらない。洗練された造形はとうてい同じ人間とは思えず、宝石のようなその男を僕はじっと見つめることしかできなかった。
体が固まったまま動けないでいると、突如彼は破顔した。
「すっげ、本当にキャッチした」
みるみるうちに、現実に引き戻されていく。
彼の小さな肩を軽く押しながら「重い」と、一言呟いた。実際そこまで重かったわけではなかったが、あまりの距離の近さに突然照れ臭くなったからだ。
「あっ、ごめんごめん」
急いでその場に立ち上がった彼は、制服を軽く払うと右手を差し伸べてきた。
危険な行動をとった彼に不信感を抱きながらも、僕がその手を掴もうと左手を伸ばす。途端、空気を裂くような鋭い怒声が耳に入り込んできた。
「鳥飼ぃぃぃぃ――っ!」
昇降口のほうから、加藤先生がジャージの襟を立たせながら大股で歩いてくる。
その後ろには、応援で呼ばれたのか生活指導部の先生たちが複数人。
彼はもはや諦めていたようで、降参を示すように両手を上げていた。
僕は手で地面を押して、まだ痛む体で無理やり立ち上がった。
面倒くさいことになる前に、退散してしまおう。
「じゃあ、僕はこれで……」
地面に放り出された鞄を拾い上げ肩にかけると、踵を返した。


