きっと、怪盗のせいに違いない。
そんな馬鹿げた結論が出たところで、喉にとてつもない違和感が走った。
獣の鳴き声さながらの咳に僕自身も驚いていると、目の前のポニーテールが視界から消えた。代わりに、いかにも機嫌を損ねた仏頂面が現れる。
肩がすくんだ。
「……ごめん」
言い切る前に、その仏頂面は姿を消した。ふたたび、目の前にポニーテールが視界の大半を占める。
気づけば、先ほどの僕の咳に多くの人が反応を示していた。
教壇に立つ担任でさえ、一度話を中断させたほどだ。
「――とまあ、インフルエンザもコロナも流行っているようだから、手洗いうがいは欠かさずにな」
僕の目を見ながらそう言うと、担任は「じゃ、号令」と帰りのホームルームを締めくくった。
冬休み中は、ずっと家で寝込んでいた。
クリスマスイヴにサンタクロースからのプレゼントでコロナを、お正月にはお年玉でインフルエンザをもらったせいだ。
インフルエンザに関しては少し長引き、みんなより一週間遅れでの三学期スタートとなった。
解熱したからといって、体が万全なわけではない。まだ鼻は詰まっているし、喉には常にビー玉が挟まっているような違和感がある。
今日一日、僕から発せられる音にストレスを受けた人間は非常に多いだろう。それは自覚している。
だからといって、あそこまで露骨に嫌な顔をされてしまえば気分は悪い。
「はぁ……」
漏れるようにため息が出た。
机の中から教材たちを取り出して、鞄の中に詰め込んでいく。
帰りの支度をしていると、僕の机の横で誰かが立ち止まった気配がした。
顔を上げると、そこに立っていたのはクラスメートの田淵君だった。
「平気?」
「えっ」
「いや、ずっと休んでたから」
田淵君は、肩にかけていた鞄の中から一冊のノートを出した。
そして、それを僕に差し出す。
新品のようだが、ちらりと覗いたノートの中身は、英文やら数式やらでぎっしり埋め尽くされていた。
「えっと、」
「休んでた分の板書の写し」
ほら、と眼前に突き出される。
視線をノートから田淵君へと移した。
「……だめだ」
思い出せない。
田淵君とは、わざわざ僕用にノートを用意してくれるほどの仲だったのだろうか。
彼の瞳をじっと見つめたところで、そこに答えが映し出されているわけでもないのだが。
田淵君は、そんな僕を不思議そうな顔で見つめている。
「だめって、でも必要だろ?」
何を言っているんだと言わんばかりの表情で、もう一度ノートを突き出される。
逃げるが勝ちだ。
急いで立ち上がり、教室を飛び出した。
背後から「おい杉本!」と叫ぶ田淵君の声が聞こえたけれど、僕はそのまま廊下を突っ走った。
下駄箱についたところで、呼吸を整える。
病み上がりのせいか、少し走っただけでぜえぜえと息が切れた。おまけに、咳も絶え間なく出る。鼻が詰まっているせいか息もしづらく、かといってここでマスクを外してしまえば周囲から白い目で見られる。
急いでローファーに履き替え、昇降口を出た。
やはり怪盗のせいだろう。
冬休み前の記憶が、きれいさっぱり失くなっている。


