青春、リログイン


 きっと、怪盗のせいに違いない。

 電車に揺られながら、そんな馬鹿げた結論を出した。

 一か月ぶりの早起き、すし詰め状態の満員電車。眩暈がして倒れそうだったけど、もはや倒れる隙間もない。

 三学期が始まって一週間。
 不思議なことに、その一週間の記憶がすっかり盗まれてしまっている。
 盗まれたところで、不登校の僕には何も害なんてないんだけれど。

 ロータリー駅に停車し、人が雪崩のように降りていく。少し余裕ができて、僕は扉横の隅っこに体を滑らせた。

 今朝、制服に着替えてリビングに下りてきた僕を見て、母さんは泣き崩れた。ちょっと大袈裟じゃないかとも思ったけれど、それほど心配をかけていたのかと申し訳なくも思った。もちろん、記憶のことについては話していない。

 こうなったら、自分で解決するしかない。
 だからいまこうして、学校に向かっているのだ。何かヒントがあるとするなら、そこしかないと思ったから。

 しかし、最寄り駅から学校へと向かっている途中、突然足がすくんだ。
 友人と駄弁りながら僕を追い越していく同年代の人々を見て、トラウマが蘇ってくる。

 そこでようやく、自分の愚かさに気づいた。

 学校に行ってみたところで、何も解決なんてしない。無駄足だ。

 彼らのように肩を並べる友人はおろか、挨拶を交わすような友人すらいない。僕をいじめるような人間もいなければ、気遣いで声をかけてくれるような人間もいない。

 そうだ。
 僕は空気だ。

 なんとか抗って引きずるように進めていた足を、ぴたりと止める。

「……帰るか」

 ここまで来て、また逃げるのか。
 自分がどれほどダメな人間なのかは、よくわかっている。

 でも、こんな僕を諭してくれる人なんて誰も――。

「あれ……」

 踵を返そうとしたところで、脳の奥にしまいこんでいた記憶の引き出しが少しだけ開いたような感覚に襲われた。そこからは光しか見えない。ただ、逃げようとする僕を引き止めているような気がする。

 それが何なのか、はたまた誰なのかはわからない。

 でも、見過ごすわけにはいかなかった。
 何か、とても大事なことを忘れてしまっている気がしたからだ。

 しばらくそこに立ちすくんでいると、僕の目の前に人影がひとつ止まった。

「……杉本?」

 声を掛けてきたのは、同じクラスの田淵君だった。
 マフラーに顔を埋めていて顔はよく見えなかったけれど、顔の面積に対してやや大ぶりな黒縁眼鏡が印象的で間違えることはない。

 しまった。同級生に見つかってしまった。
 このまま帰れば、それこそ本当に逃げていることになってしまう。

 突然の出来事に言葉を窮していれば、田淵君に腕を掴まれた。何事かと思うよりも前に、その腕が引っ張られる。僕たちの横を、立ちこぎの自転車が猛スピードで走り去っていった。

 田淵君はその自転車を怪訝そうに見つめてから、腕を離した。

「学校、行くだろ?」

「あぁ……うん」

「じゃあ一緒に行こう」田淵君が鞄を肩にかけなおしながら言った。「久しぶりに教室に入るの、一人じゃちょっと心細いでしょ」

 田淵君の言葉は、とてもありがたかった。

 それまで僕の脳内を満たしていた、どう言い訳をして帰ろうかという逃避的な考えがシャボン玉のように弾けて消えていた。

 学校について教室に入ってみれば、それまで話に花を咲かせていたクラスメートたちの口は閉ざされ、視線は僕に注がれた。とてもひとりでは耐え難い状況だったが、隣に田淵君がいてくれたおかげで事なきを得た。

 席に座るまでに、何人かのクラスメートに「おはよう」と声を掛けられた。僕はそれに戸惑いながらも応えた。
 その中で心の底から僕を心配して声を掛けてきてくれた人間は、たぶんいない。不登校だったクラスメートが久々に登校してきて、それに無反応を決め込むのは体裁が悪いと思った偽善者たちのエゴだ。

 ……なんて、そんなことばかり考えているから、僕はずっと独りなのかもしれない。もっと素直に、表面だけを見て感謝を伝えられる人間になりたい。

「あ、そうだ」

 鞄の中身を机の中に移していると、後ろの席から肩を叩かれる。
 何やら、田淵君が机の中から取り出そうとしていた。

「これ、あげるよ」

 眼前に差し出されたのは、真新しいノートだった。
 何も考えずにそれを受け取れば、新品にはないような重みを感じた。

「これって……」

「休んでた分の板書の写し」

「いや休んでた分って……」

 僕が不登校になったのは、冬休みの一か月前からだ。そして、三学期が始まってからはすでに一週間も休んでいたはずだ。かなりの量だったに違いない。

 でも、不思議だ。

 なぜだか、田淵君からもらうこの優しさは初めてではない気がした。僕の記憶の中で仲の良い友人なんて一人も思い浮かばないけれど、田淵君だけはずっと、僕を気にかけてくれていた気がする。

「必要だろ?」

「あ、うん……」――じゃなくて、「……ありがとう」

 田淵君は、ほっとしたような笑顔を僕に向けた。
 僕もつられて、頬が緩んだ。