「はっ? さっきから何ワケわからないことを言っているんだ。まだ僕のことを揶揄っているのか?」
「ヨウタ」
突然、凪と初めて会ったときに呼ばれた名が発せられた。
どんな意図でその名を出したのかわからず、僕はただ黙って凪の言葉を待つしかなかった。
「初めて陽太と会ったとき、俺はきみのことをそう呼んだ。どうしてそんなことになったのか、わかる?」
「そんなの、僕の名前を学級名簿で見たときに勘違いしたんだろ。よく間違われるから――」
「まさに、その通りだよ。でもね、俺が見たのは学級名簿じゃなくて、プログラミングの際に入力された対象者プロフィールだ」
すらすらと事情を説明していく凪に、僕は呆気にとられ置いていかれる。こんなに近くにいるのに、鳥飼凪という人間がひどく遠い存在に感じられた。
「あの、ごめん……本当にわからない。ここが、凪が言う仮想現実だとして、僕はなんでこんなところにいるんだ」
「不登校支援だよ」
「……不登校支援って、」
「わけあって学校に行けなくなった小学生から高校生の子どもたちが、AIプログラムを用いて学校生活のリハビリをする。そのプログラムに用意されたのがこの仮想現実と、俺みたいにコーディネートされたAIってこと」
わからない。ひとつもわからないし、わかりたくもない。
つまり凪は、人間じゃないってことなのか?
それに、凪の説明から察するに、僕はわけがあって学校に行けていない不登校ということだ。
しかし、その理由は皆目見当がつかない。なんてったって、凪と出会う以前の記憶を失っているのだから。
「僕は……なんで不登校になったの?」
「……本当に、覚えてないんだね」
「僕の記憶は、きみが盗んだんじゃないのか?」
「質問が多いな」
眉を八の字にした新鮮な凪の表情を見て、自然と「ごめん」という言葉が漏れ出た。でも、凪は「いいんだよ」と微笑んだ。
「俺はAIだから、聞かれたことはなんでも答えるよ。原稿用紙三枚分の反省文も、対戦ゲームだって、お手のものだ」
なるほど、いままで凪に抱いていたすべての違和感の正体がここでわかった。
AIは、僕のようなイレギュラーな読み方の名前は正常に判別できない。原稿用紙三枚分の反省文を書けと言われたら要件通りに作成できるし、ゲームだって最善手を繰り出すことで黒星がつくことは極めて少ないはずだ。
しかし、理解はできても納得はできない。
凪とは言葉も交わしたし、体温だって感じた。突然「実はAIでした」なんて言われても、信じられない。
いまだ吹きつける全身を凍らせるほどの冷たい風も、現実のものとしか思えない。
「陽太が不登校になった理由、それは――特にない」
「特にない?」
「俺が認識している情報だと、そうだよ。陽太が仮想現実に来る前に提出してくれたプロフィールには、そう書かれてた。だから俺も、きみの心のうちは知らない。本当に理由はなかったのかもしれないし、ただたんに面倒くさかっただけかもしれないし、いじめを受けていたのかもしれない。それは、きみのみぞ知ることなんだ。それに俺は、陽太の記憶を盗ったりなんかしてないよ」
「じゃあ、どうして……」
「きっと、混乱してるんだよ。現実と仮想現実を行き来して、境目が曖昧になってる」
灰色の雲が、先ほどより高度を低くしている気がする。
そのまま、僕たちのことを呑み込んでくれないだろうか。
「俺に課せられた役目は、陽太が笑顔で学校に通えるようにすること。だから、仮想現実からいなくなればいい――そう思ってる。何も、陽太のことを嫌いになったわけじゃないよ。むしろ、ちょー好き」
凪が優しく微笑む。
AIとしての鳥飼凪ではなく、杉本陽太の親友の鳥飼凪として。
でも、その笑顔が寂しそうに見えるのは、別れの時間が刻一刻と近づいているからだということは、安易に想像できた。
鼻の奥がつんとして、空を見上げる。いまにも泣き出しそうな空が、僕に同情するような目を向けている気がした。
「僕、ずっとここにいちゃだめかな?」
「だめだよ」凪が呆気なく返す。「陽太は、陽太がいたところに戻らないと」
「いたところって……僕は、ずっとここにいたじゃないか」
「なーに陽太、そんなに俺との別れが惜しいのー?」
「当たり前だろ」
いつもの調子に戻って誤魔化そうとしているのかもしれないけれど、そうはさせない。
「いきなり僕の前に現れて、巻き込んで、僕の人生に入り込んできたくせに。このまま、あっさり納得して現実には戻れない」
「……そんなこと言わないでよ」
凪の顔が、ぐちゃりと歪んだ。
――ああ。そうか。
きっと、凪も僕との別れが惜しいのだろう。
ただの思い上がりなんかじゃない。だって僕たちは、親友なんだから。
気づけば、抑え込んでいた僕の雨はぽつりぽつりと頬を伝っていた。少しでも目を離せば凪がどこかに消えてしまいそうで、それを拭うことさえ躊躇ってしまう。
滲んだ視界の先で、白金の髪がゆらゆらと揺れているのが見えた。
よかった……まだいる。凪はまだ、ちゃんとここにいる。
「俺ね、本当に楽しかったんだ。陽太といると、自分が人間なんじゃないかって思えた。誰かに強制された立ち位置や感情なんて関係ない。ただ純粋に、心の底から笑えた」
凪が、僕に近づいてくる気配がした。
そして次の瞬間、僕の背中に凪の腕が回ってきた。
右耳が、ちょっとくすぐったい。そして、全身が温かかった。
僕も、応えるように凪の背中に手を回す。
親友である彼の体温を、しっかりと覚えておきたかった。
「ありがとう、陽太。きみが俺に心を教えてくれた。……ちゃーんと、学校行くんだぞ」
「無理だよ」
「大丈夫だよ」
「だって僕には、凪がいたから……凪がいてくれたから、毎日が楽しかっただけだ」
「嬉しいこと言ってくれんじゃん」
本当に、このまま凪とはお別れなのだろうか。
彼のいない学校が想像できない。
休み時間は誰と話せばいい?
昼飯は?
放課後だって、一人でどんな風に過ごせばいいのかわからない。
「陽太、」
体がそっと離された。
そろそろ、ということなのか。
「ちょっと待って。僕はまだ――」
「大丈夫。目が覚めたときには、全部忘れてるから。君が仮想現実からログアウトした時点で、俺のデータも削除される」
なんだ、それ。
忘れてたまるか。
「絶対に忘れない。鳥飼凪っていう親友がいたこと、僕はこの先も――」
突然、肩にドンッという衝撃が走った。
よろけて足を踏ん張ろうとしたところで、かかとがパラペットに当たる。またもや体勢を崩し、行き場をなくした足が宙に浮いた。
「――――っ⁉」
視界いっぱいに広がったのは曇天と、こちらに手を伸ばしている凪。そして、自分の四肢だった。
頬に、ぽたりと何かが降ってきた。雨だろうか。
そんなのんきなことを考えていると、世界が反転した。
コンクリートが容赦なく迫ってくる。
次に来る衝撃に備えて、僕は強く瞼を閉じた。


