好きなものを好きだと言うこと。

 珈琲の香りが鼻を突き刺す。向けられる視線はどれも痛々しく、心底居心地が悪い。
海里(かいり)先生、ほんとにこんな所で大丈夫なんですか? 」
 箱庭から離れた個室。この職が向いていないことなんて、それを選んだ自分が一番わかっていた。
「平気です。すみません、来て早々無茶なお願いをしてしまって」
 桜の花びらを踏み、新たな校門を跨いだ。校舎は日当たりが良く比べれば断然広い、が故にその分人数も多い訳で。
「それでね海里先生。受け持っていただくクラスの生徒に泉谷渚沙(いずみやなぎさ)さんって子がいるんですけど」
 差し出された分厚い名簿を再び指先でなぞる。名指しされるほどの問題児ではないはずだが。
「この子が何か? 」
「ちょっと変わった子でね、うちが指定する制服じゃなくてスカートで登校してるの。男子校だから少し浮いてしまって馴染めていないみたいで……だから寄り添ってあげてちょうだいね」
 なんて無責任な受け渡し方だ。
「そうですか、わかりました」
 右肩から伝わる"理解者”という言葉。二年も馴染めていないことを、たった一人の子供だけに背負わせている大人がいる事実。そんな不快感を二限の予鈴がぶった斬る。俺は必要最低限の荷物を腕に抱え、生徒たちが待つクラスへと足を早めた。
「三の二……で合ってるよな」
 見えてきた扉の縁から下がる札に近づく度、増えていく小言。俺の方がそわそわするっつうの。
 スーツの襟を正し扉をずらした先に待っていたのは、大人には無い眩しさだった。
「はい、では二限目を始めたいと思います。まずは私の自己紹介からさせて下さい」
 黒板に殴り書く自己紹介。それを更に分かりやすく声に出す。
「では皆さん改めて、こんにちは。今日からこのクラスを受け持つ海里朱雨(しゅう)と言います」
 そうすれば全ての視線が俺に向けられる、そう思っていた。けど泉谷渚沙は例外だった。
「先生何歳ですか! 」
 不意をつかれ投げつけられた疑問。勝手に始まった挙手制の質問コーナーに、ふつふつと自分の年齢を痛感する。若さに当てられ続けて麻痺してんのかな、俺はまだ若いだなんて思い込んで情けない。
「三十、ぴったりですよ」
 まあでも……今だけはこの雰囲気に乗っかるとするか。明るく、かつ大人としての雰囲気は崩さず。そんなこんなで上手くやったつもりだったけどチャイムが終わりを告げても泉谷の視線は結局、俺に向けられず。
「……まあ初日はこんなもんか」
 屋上へと続く静寂に身を任せドアノブに手を掛けた。


 __眩んだ先の景色には髪とスカートを(なび)かせ佇む後ろ姿があった。