🌹 【八十八の偶像（デス・ハグ・チケット）】

壱. 背中の冷たい感触

「カワイイは偽り。怖さは真実。真実の受け入れ。」

野外ライブ会場、夜の帳が降りたステージ。百足ガールズのリーダー、マユは、スポットライトを浴びながら、完璧に訓練された笑顔を振りまいていた。彼女たちの衣装は、フリルとリボンがふんだんに使われた、極彩色の可愛らしさで、異形のコンセプトを覆い隠していた。

しかし、マユの意識は、背中に這い寄る異様な冷たい感触に釘付けになっていた。それは、ステージの隅から這い出てきた巨大なムカデが、衣装のフリルの下を不吉に這い上がってくる感覚だった。 （まさか、演出……？ こんなにリアルな演出を、聞いていない） マユはプロ意識で笑顔を保つが、背中を這い登る冷たい重みが尋常ではないと本能が叫んでいた。それは、彼女の華奢なドレスのフリルや飾りの隙間に器用に隠れ、他のメンバーの背中にも、次々と連鎖していく。かつて、握手会に使っていた精巧な義手は、今、控え室に置かれたままのはずだ。微かに、控え室に漂っていたはずの、湿った土と青臭い毒の匂いが、ステージ上の熱気の中に混じってマユの鼻腔を掠めた。

メインテーマが始まり、サビでの螺旋状のフォーメーションダンスが始まる。義手を付けていた頃と同じように、腕は螺旋を描く。 （違う。これは、偽りじゃない） 背中の冷たい感触が、チクリ、と皮膚を刺した。一瞬、全身の力が抜けそうになるが、マユは必死に堪えた。

その時、マユの背中のフリルの下で、最も大きく、冷たいムカデの胴体が、不規則な痙攣を始めた。それは、甲虫の翅が擦れ合うような、観客には聞こえない微かな「カチ、カチ」というシグナルだった。他のメンバーの背中を這うムカデたちも、その音に呼応するように、動きを止める。 （やめて！まだ、ダメ！）

観客は、彼女の微かな表情の変化を「さすがKowa-Kawaii！」と熱狂的な歓声に変える。その熱狂の濁流の中で、マユの意識の隅に、ムカデ特有の冷たく、獲物を見据えるような感情が混じり始めた。

弐. 歓声と毒

ライブは最高潮に達し、フィナーレの曲に入った。観客のボルテージは頂点に達し、会場は割れんばかりの歓声に包まれる。 「みんな、ありがとう！」マユは笑顔で叫ぶ。

その時だった。マユの背中を支配していたムカデのリーダー格が、ダンスのフィナーレに合わせるかのように、一瞬、大きく体を反らせた。それは、彼らの世界における号令だった。 彼女たちの背中に張り付いていたムカデが、一斉に、そして無慈悲に、メンバー全員の背中深くに毒牙を突き立てた。

「っ！」

全身を駆け巡る激しい痛みと、神経を麻痺させる毒の感覚。マユの体が、まるで電流を流されたかのように硬直した。他のメンバーも、笑顔を保とうとしたまま、ダンスが一斉に崩壊し、ガクッと膝から崩れ落ちる。 完璧だったはずのアイドルは、一瞬にして、苦痛と絶望に歪んだ表情を晒した。

しかし、観客はそれを「最高の演出」だと信じ込んだ。 「うおおお！すげえええ！リアルすぎるだろ！」 「これが『死ぬ気で来てください』の答えか！」 「マユ様ー！演出に命かけすぎ！」 会場を覆う歓声と興奮は、メンバーの倒れ込む音も、毒に悶えるかすかな呻き声も、すべてかき消した。ファンは、舞台に倒れ伏すアイドルたちの姿を、「感動のフィナーレ」の最高の演技だと信じ、熱狂的に叫んでいた。 マユの瞳からは、一筋の涙が流れ落ちた。それは、痛みではない。コンセプトが現実になった、絶望の涙だった。

参. 100本の真実

数日後。百足ガールズは活動を再開した。ゆったりした新しい衣装の下には、本物の100本のムカデの腕が生え始めていた。一日の終わりに一本ずつ増え続け、今日の時点では全員が88本前後。

場所は握手会会場。長蛇の列は続く。 特典券を持った一人のファンが、マユの前に立つ。彼は、CDを100枚買った、異形の伝染を望む狂信者だ。 「マユちゃん！今日はこの券で！100本との真実の握手、お願いします！」ファンは目を輝かせている。その瞳の奥には、無意識に死や異形化を望むような、狂気が宿っていた。

マユは微笑んだ。その顔は、以前よりさらに強かわいすぎる。 「ありがとうございます。死ぬ気で来てくださいね」

マユのフリルの袖から、88本の生々しい腕の集合体が、ムカデの胴体のようにうねりながら伸びる。それは、マユの意思とは無関係な、冷たいオレンジ色の異物だった。その先の可愛らしい手が、ファンの両手を包み込んだ。 ファンは歓喜の声を上げる。しかし、彼の体は88本の腕から伝わる異様な熱と、生命の圧力に初めて触れ、言いようのない恐怖を感じた。 マユは、88本の腕すべてに**「力を抜け、締め付けるな」と強く念じる。腕はムカデの本能で小刻みに震えるが、マユのアイドルとしてのプロ意識と人間としての意志**がそれを抑え込む。 「最高でした！手が、すごくリアルで温かい！」ファンは満足げに去っていった。

ファンは知らない。その腕は、精巧な義手から、命を持つ本物の肉体に変わったこと。そして、彼の握手した両手には、既に微量の毒素が触れ、次の握手会には100本の新しい腕が生え始めていることを――。

肆. 抱擁券の結末

そして、その日の目玉企画。「抱きしめてもらえる券」の抽選に、中年男性ファンが当選した。 「マユさん！嘘みたいです！夢みたいです！」 彼は、この抱擁が破滅を意味すると知りながら、それを狂おしく求めているかのようだった。

マユは、マイクを握る本物の腕に力を込め、観客に問う。 「それでも、私の愛を受け取りますか？」 ファンは「はい！」と力強く頷いた。彼は、この抱擁が**「死」**を意味するとは露ほども思っていない。

マユはファンをそっと抱きしめた。88本のオレンジ色の腕すべてがファンの背中に回る。

瞬間、ムカデの本能が爆発した。「獲物だ！」。

マユの人間的な意志は崩壊し、腕の筋肉が、ファンの体を締め付ける。 ファンの胸から**「ミシッ、ミシッ」**という骨の軋む音が響いた。

マユの顔は、アイドルとして訓練された強すぎる笑顔のまま。しかし、その目から一筋の涙が流れ落ちた。 「ごめんなさい……ごめんなさい……」

そして、彼の体から**「ボキッ」**という、生命の終わりを告げる鈍い音が響き渡った。ファンは、最高の笑顔のまま、マユの腕の中で、本当に命を落とした。 会場は熱狂に包まれた。 「すごい！演出がリアルすぎる！」「マユ様、感動をありがとう！」

マユは、死んだファンを抱きしめたまま、観客席を静かに見つめる。

観客の熱狂は偽り。マユの絶望こそ真実。 ファンは誰も知らない。 百足ガールズが、本当に百足ガールズになってしまったことを。 そして、今、ステージ上で、本物の殺人が起きたことを。

マユの背中の衣装のフリルが、風にひらひらと揺れていた。 今やフリルは、ムカデの腕を隠すためではなく、その活動を助長する器官に見えた。