大学生になった僕は、新人作家としてデビューしていた。
そう言うと、なんだか物語の冒頭みたいで、少しだけ気恥ずかしい。
実際のところは、大学と編集部とバイト先を往復する、どこにでもいる二十一歳だ。夢の一歩を踏み出せた。それだけで、僕の世界は見え方が少し変わった。
「──で、そのデビュー作がさ……」
編集部の会議室で、担当編集が得意げに言う。
「『星屑の郵便局』あれ、ほんとよかったよ。デビュー作でこれは強い」
「ありがとうございます」
反射でそう答えながら、僕はある違和感をずっと拭えないでいた。
『星屑の郵便局』は紛れもない僕の作品。そのタイトルを聞くたびに、どうしてか、胸の奥に小さな穴が空いたように、大事なものがこぼれ落ちたような感覚を覚える。
「高校の文藝部だっけ?部誌に載せた短編を、よくここまで膨らませたよね」
「……そうですね」
僕はなんで、部誌に新作なんて書いたんだっけ? 先輩方の傑作集を再編しようとしてたのに。
「春の小説甲子園で優秀賞。からの書籍化。順風満帆だよ。次回作は何か考えてる? プロットできたら送っくださいね」
「順風、ですか?」
「なに、その間、満足してない?」
「いえ。なんか……実感がなくて。世界から置いてかれてるみたいな……って」
担当は、あははと笑った。
「まあ、最初はそんなもんだよ。そうだ、今週末、高校の文化祭なんだっけ?」
「……え?」
一瞬、言葉が遅れた。
「ほらーー。文藝部OBとして顔出すって言ってたじゃん!」
「ああ……はい。行きます」
文藝部で一緒だった美優と慎也に誘われてたんだった。慎也なんてスマホの画面から飛び出てくるんじゃないかってくらい、張り切った文章を書いてよこした。その熱量を部活でも発揮してくれよ。
文化祭当日。
久しぶりに歩いた通学路。
懐かしい制服姿の高校生が、楽しそうに笑いながら僕の横を走り抜けていく。その中に混じると、自分だけ時間がずれてしまったみたいで、少し居心地が悪い。
「遥斗ー!」
聞き慣れた声がして、振り返る。
「久しぶり! 部長さん」
美優が手を振っていた。髪は少し短くなっていて、服装は大人っぽい。それでも、笑うと昔と変わらない。
「変わってないね」
「それ、適当に言ってない? よく見てよ、ほら!」
「ごめん……えっと、髪切った?」
「部長さん、ずっと彼女いないでしょ? 女心ぜんぜんわかってない」
隣で慎也が笑う。
「お前ら、再会の台詞それでいいのかよ」
「慎也は、相変わらずうるさいな」
「失礼だな。俺は文藝部のムードメーカーだぞ?」
そんなことを言いながら、三人で並んで校門をくぐる。
懐かしいはずの景色なのに、どこか現実感が薄いな。
「文藝部、今年もやってるよ」
美優が指さした先には、見覚えのあるポスターが貼られていた。
『言えなかった言葉、文藝部で預かります』
その文字を見た瞬間、頭の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……これ」
僕の声が、少し掠れた。
「さすが部長さんの名言! 未だ健在。今年で三年目だよ。文化祭の目玉企画になったね」
「遥斗、知ってるか? 部誌に載ったラブレターは成就する、って噂」
慎也が、ニヤニヤしながら肩をすくめる。
「作ったの、誰だと思う?」
「君ら……二人でしょ」
「正解!」
慎也が胸を張る。
慎也は美優への想いをラブレターにして書いた。確か誰かが面白がって部誌に載せて……誰だったっけ?
「まあ、仕方なくよ。しつこいから、付き合ってあげてもいいかなって」
「はいはい、ごちそうさまです」
お揃いのリングをつけて、仲睦まじいくせに。笑い合いながらも、僕の中の違和感は消えない。
未完成のパズルみたいに、所々欠けてる気がする。
おかしい。
「ねえ、部長さん」
美優がふいに言った。
「なに?」
「私たち三人さ。なんで文藝部だったんだっけ?」
足が、止まった。
「……え?」
「いや、ふと思って。別に嫌な意味じゃないよ?」
慎也も首を傾げる。二人とも、僕と同じ違和感を感じているんじゃないかと思った。
「確かに。俺、最初なんで入ったんだっけな」
「慎也は……美優がいたから、じゃない?」
「お前っ……ちがっ……まあ、否定しないけど」
ツッコミはしたけど、僕は笑えなかった。僕は元から文藝部だった。だけど、いつから僕たちの文藝部になった? 理由が、浮かばないんだ。
「部長さんは最初からいたんだよね?」
「うん……小説を、書きたかったから」
「まあ、それはそうだよね」
美優は納得したみたいに頷く。もしかして、何か違和感を感じてるの? と聞こうとして止めた。
文藝部の展示教室に入った瞬間、思わず息を漏らす。
天井から張られた紐と、吊るされた、無数の封筒。
白、クリーム色、淡いピンク、水色。
風もないのに、わずかに揺れている。
「……やっぱり、すごいな」
「でしょ?」
美優が得意げに言う。
「私たちの時は教室ひとつ分だったんだけど、今は廊下まで使ってるんだね」
「OBの僕らが言うのもなんだけど、考えたヤツ天才……」
慎也が苦笑する。
「もう完全に看板企画だな」
「あの……」
声の方を振り返ると、女子生徒が二人立っている。
「水瀬遥斗先輩……失礼しました。水瀬先生ですか? 私たち、文藝部員で」
「いや……先生じゃないよ」
「水瀬せ、ん、せ、い。可愛い後輩にサインでも書いてやったら?」
茶化す慎也の後ろから、女子生徒から期待の眼差しを感じる。分不相応だと思ったが、慣れないサインを書いた。
ふと、封筒の影が床に落ちる。
自分の影と重なって、静かに揺れた。
──あれ? 見覚えがあるな。
強烈な既視感が、胸を打つ。
「……いてっ」
僕は思わず、こめかえを押さえた。耳鳴りのような、ノイズが頭に走る。
「部長さん、ちょっと大丈夫?」
美優が心配そうに覗き込む。
「いや……平気、たぶん」
そう言いながらも、平気じゃないことは自分が一番分かっているのに。頭の奥で、何かが弾けそうな感覚。砂嵐のテレビのような記憶の映像が、脳裏に映る。
「おい、遥斗?」
慎也の声が、遠い。
目の前の封筒が目に留まる。
【宛先:これ以上、大切な人を失いたくないわたしへ】
胸が、どくん、と鳴った。
「……これ」
指先が、勝手に伸びる。
女子生徒達がすかさず口を開く。
「その手紙、たぶん先輩たちの代で届いたもので。宛先が素敵だったんで、使わせてもらいました」
触れた瞬間、一瞬だけ、鮮明に。
誰かの声がする。
少し高くて、無邪気な声だ。
──大丈夫だよ。ちゃんと、届くから。
「……君は、だれ?」
「部長さん! 遥斗くん!!」
美優の声で、一気に現実に引き戻される。
「はぁはぁ……ごめん、大丈夫」
「ほんとに平気? 顔、真っ青だよ」
「……うん」
謝る理由も分からないのに、咄嗟にそう言っていた。
教室の真ん中で、僕は立ち尽くす。それから、拭いきれない違和感を二人にぶつけた。
「僕さ、何か欠けてる気がするんだ」
慎也が深く同調した。いつになく真剣な顔で。
「それ俺も……なんか、変な感じしない?」
「変って?」
「懐かしいのに、思い出せない感じ」
美優も相槌を打つ。
「分かる。大事な人の名前、忘れてるみたいな」
それだ。
「やっぱり……欠けてるんだよ」
思わず、口に出てしまった。
「なにが?」
「分からない。けど……僕らの中で、何かが欠けてる」
二人は顔を見合わせる。
「なんか、作家さんらしい言い方だね」
美優は場を和ませようとして、冗談めかして笑った。
でも、僕は笑えなかった。だって、これは物語のための比喩じゃない。現実なんだ。失くしたものがある。それが、僕の人生の、いや青春のど真ん中にあった気がする。
誰なんだろう?
確かに、誰かが、ここにいた。
その人の名前を、
僕は、どうして思い出せないんだろう。
ずきんずきんと、頭痛がまた強くなる。
忘れていることそのものが、僕を責めているみたいだった。
文化祭から数日後。
封筒が一通、編集部の受付カウンターに置かれていた。
「水瀬さん宛てですよ」
そう言って、受付の女性が僕に差し出す。白い封筒。切手は控えめで、宛名は丁寧な丸みのある文字だった。差出人の欄に、見慣れない苗字がある。
八雲。……やくも?
「ファンレターっぽいですねぇ」
受付の人が、くすっと笑う。
正直、僕の頬も緩んでしまった。作家になって初めてのファンレターだった。
僕は、ロビーの椅子に腰を下ろした。 手持ち無沙汰でパソコンを開いてみる。画面には、次回作のプロット案が開きっぱなしになっていた。文字が、ひとつも頭に入ってこない。
机の隅に置いたファンレターが気になってしょうがない。
「どうしたんですか、水瀬さん?」
背後から声がして振り返ると、担当編集がコーヒー片手に立っていた。我慢して正解だった。この人に手紙でにやけた顔を見られたくない。からかわれるのがオチだから。
担当編集は、今日も相変わらず忙しそうな顔だ。
「珍しい顔してる」
「……いや、珍しい顔って、どんな顔ですか」
「なんか、固い。嫌な感想でも来た?」
必死に取り繕った顔を、上手い具合に勘違いしてくれた。これはこのままスルーしても良さそうだ。しかし、流石は編集者、めざとい。
「あぁ……その手紙か。ごめんね、先に確認だけさせてもらったよ」
忘れてた。編集部宛に届いたファンレターには検閲が入る。
「読まないの? 水瀬さんの知り合いっぽかったけど」
「えっ?……八雲なんて知り合いにいませんけど」
「まぁ、読んでみたら? 思い出すかもよ」
知らない名前。 知らない、はずなのに。
僕は封筒を、開ける。 中身は便箋が二枚。折り目のつき方がきっちりしていて、まっすぐすぎるくらいまっすぐだった。きっと丁寧な人の手紙だ。
『はじめまして。突然のお手紙を失礼いたします。
私は、八雲雨音の母です。』
雨音。……あまね。
指の間で便箋が、ふっと軽くなる。 軽くなるというより、僕の記憶の靄がどこかに持っていかれる感覚。心の奥に空いた穴が、音もなく風を吸い込むように。
「……水瀬さん?」
編集の声が遠い。 僕は返事ができないまま、文字を追った。
『娘は、高校時代に水瀬さんと同じ文藝部に所属しておりました。
水瀬さんの作品が大好きで、部誌を何度も読み返しては、笑ったり泣いたりしていました。
大学生になってからも、水瀬さんが新人作家としてデビューされたことを知り、本当に喜んでおりました。』
高校。 文藝部に所属。 八雲雨音。先輩にはいない。じゃあ後輩か?
記憶のピースが集まり始めているのに、なにかが足りない。
『不躾ではありますが、お願いがあり、お手紙を差し上げました。
娘の病室の整理をしていたところ、水瀬さんへ宛てた手紙が見つかりました。
娘が大切に持っていたものです。
本来であれば、娘が直接お渡しするべきものですが。
今の娘には、それが叶いません。』
病室? 病気なのか? 文字が少しだけ滲んで見えた。 滲んでいるのは紙じゃない。僕の目のほうだ。どうして?
『娘は現在、入院しております。
難しい病気で記憶を失い、眠ったままの状態が続いております。
医師からは「目覚めたとしても、目覚めたことさえも、忘れてしまう可能性がある」と説明を受けました。
母親として、どうしていいか分かりません。』
息を吸うタイミングを忘れて、胸が苦しい。
「……大丈夫かい?」
内容を知っている担当編集は、心配そうに僕を見る。
「……すみません。はい」
僕の声は、どこか他人の声みたいだった。自分の口から出ているのに、目の前のコーヒーの湯気みたいに、すぐ消える。
便箋の続きを読み進める。
『勝手なお願いだと分かっております。
それでも、娘が大切に抱えていた言葉を、娘の代わりに水瀬さんにお渡ししたいのです。
それが、私にしてやれる、娘の願いだと思うんです。
もしお時間をいただけるようでしたら、一度、病院へお越しいただけませんでしょうか。』
病院名と面会可能な時間帯が書かれている。 住所の最後に、病棟名。病室の番号。無機質な情報のはずなのに、それだけで、胸がしめつけられる。
「……雨音」
知らないはずの名前。 なのに、口の中で転がしただけで、懐かしさが込み上げる。
僕は二枚目に目を移した。
『追伸
娘は、水瀬さんの『星屑の郵便局』を、とても大切にしていました。
空にいちばん近い郵便局があって、水瀬さんの書く世界観のまんまだって。
いつか、私もそこに行って、大切な人に手紙を書くんだって、話していました。』
空にいちばん近い……郵便局。
その瞬間、頭の奥で、回路がショートしたように火花が散った。
「……っ」
僕は無意識に、机の端を掴んでいた。 指先が白くなって、編集が慌てて前に回り込んでくる。
「水瀬さん、大丈夫? 顔色やばい」
「……平気、です。すみません」
「謝るなって。……みず、水持ってくるから」
どうする?
直感で、不安と、それでも行かなければと。ふたつがせめぎ合ってる。
「ほら、水のんで」
担当編集から紙コップを受け取り、一口飲み込む。
「……行くべき、ですよね」
思わず口から出た。 自分でも驚くくらい、迷いのない声だった。担当編集が眉を上げる。
「行くべき、って……水瀬さん、その子のこと、知ってるの?」
「分かりません」
「なら、担当編集として言わせてもらう。いくべきじゃないと思うよ」
ぐっと奥歯に力が入る。
「ファンとは適切な距離を取るべきだ」
「……それでも、行きたいんです」
答えながら、胸の奥が熱くなった。 言葉にした途端、むしろそれが正しい気さえしてくる。正義感と言ってしまえばそうなのかもしれない。ただ本能は、純粋に答えを求めている。
「変な話ですけど。この名前、初めて見たのに……初めてじゃない気がするんです。ずっと、僕の近くにあった気がする」
担当編集は、しばらく黙っていた。僕はじっと彼の目を見ていた。
「……水瀬さん」
担当編集が、ようやく口を開いた。
「この手紙、変なことは書いてない。けど、軽い内容でもない。病院に行くなら、覚悟はいるよ」
「覚悟……?」
「担当編集としての僕は反対だ。でも少しだけ人生の先輩の立場で言わせてもらうと、君は行くべきだ。会ったら、何かを思い出すかもしれないし、何も思い出せないかもしれない。どっちも、しんどいよ。でもね、それが君の人生の糧になる。作家としてもだ」
そう言われて、僕は初めて、自分が怖いと思っていることに気づいた。 怖いのは、知らない誰かのことじゃなく。 僕の中の欠けているものが、欠けているまま確定してしまうこと。便箋の文字は丁寧で、必死で、ある人生の重さだった。
「でも、行かなかったら……たぶん僕、ずっと後悔する」
「今日?」
「はい!」
担当編集は、僕の顔をまじまじと見た。 そして、困ったみたいに笑った。
「作家って、ほんと厄介な生き物だね」
「……編集さんに言われたくないです」
「はは。確かに」
担当編集は立ち上がって、スマホを取り出す。
「じゃ、病院に一報入れとく。面会できるか確認しよう」
「お願いします」
僕は封筒と便箋を、そっと元に戻した。 折り目に沿って丁寧に。まるで、雑に扱ったら泡のように消えてしまいそうだったから。封筒を閉じるとき、ふと、差出人欄の“八雲”が目に入った。
八雲雨音。
やくもあまね。
知らないはずの名前を、心の中で何度も呼んでしまう。
君は、誰なんだい?
僕は何を忘れているの?
「水瀬さん、今日の夕方なら面会できるって」
「……ありがとうございます!」
病院は、思っていたよりも静かだった。
夕方の外来がひと段落した時間帯で、廊下には人影が少ない。白い床に反射した蛍光灯の光が、やけにまぶしく感じた。
「面会の方ですか?」
受付の女性に名前を告げると、カルテを確認してから小さく頷かれた。
「八雲さんの病室ですね。こちらです」
案内されたエレベーターの中で、鏡に映った自分の顔を見る。思っていたより、ずっと緊張していたらしい。唇が乾いている。
──何を言えばいい?
それ以前に、何を思い出せばいい?
エレベーターが止まる。
扉が開いた瞬間、消毒液の匂いが強くなった。
病棟は、時間が止まったみたいだった。
誰かの咳払いと、ナースステーションから聞こえるキーボードを叩く音。
それ以外は、しんと静まり返っている。
「……ここです」
案内の看護師が、病室の前で立ち止まった。
「お母さまは、少し前までいらっしゃいましたが……今はご不在です」
「……はい」
ノックをする手が、思ったより震えていた。
一度、深く息を吸ってから、扉を叩く。
返事はない。
看護師が静かに扉を開けた。
「どうぞ」
窓際のベッドで揺れる白いカーテン。
花瓶には、小さな白い花が活けられている。
そして、ベッドの上に、女の子が眠っていた。
長いまつ毛と、少し痩せた頬。年齢は、たぶん……僕と同じくらいに見える。
──雨音。
「……っ」
名前を呼びかけようとして、声が出なかった。
「水瀬さん?」
看護師が小声で言う。
「お声がけは、しても大丈夫ですよ。反応はないと思いますが……」
「はい」
看護師が部屋を出ていくと、病室に、僕と彼女、ふたりだけが残される。
「えっと……はじめまして」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「……じゃ、ないんだよね」
返事はない。ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろす。
棚の上に、見覚えのあるものがあった。僕の単行本だ。
『星屑の郵便局』
表紙は、少し擦り切れている。
何度も読まれた跡が、はっきりと分かる。
「……本当に、好きだったんだね」
誰に言うでもなく、呟いた。
彼女は、眠ったまま動かない。
胸元が小さく膨らみ、呼吸だけが規則正しく続いている。
「ねえ」
僕は自然と、話しかけていた。
「君はさ……どんな顔で、これを読んでたの?」
笑ってたのかな? 泣いてたのかな?
──ふふっ。……なんか好きだなぁ。
頭の中で無邪気な声が響く。
「君を知ってる気がする。こうしてると……昔から、ここにいた気がするんだ」
返事はない。
それでも、話すのをやめられなかった。
「今日、文藝部のメンバーでね。文化祭に行ったんだ」
僕は意味があるかどうかも分からない話を、続ける。話したいと思ったんだ。
「手紙を吊るしてさ。言えなかった言葉を、預かる企画。手紙の回廊って」
喉が、少しだけ詰まる。
「……あれ、誰が考えたんだっけ? なんて、みんな言っててさ」
「僕は、誰かと、一緒に考えたんじゃないかって、思ってる。君なの?」
雨音の指先が、微かに動いた、ような気がした。
「……」
息を止めて、見つめる。
……気のせいだよな。そう分かっているのに、ドキドキと心臓の音がうるさい。
「ねえ、雨音さん」
初めて、ちゃんと名前を呼んだ。
「僕はさ……君のこと、忘れてるんだと思う。理由はわからないけどさ」
ごめんと、謝るべきなのかも分からない。
「でもね。なにか欠けてる気がしてるんだ」
彼女は、眠ったまま。
それでも、僕は「……ごめん」と、小さく謝った。
そのとき、病室の扉がノックされた。
入ってきたのは、雨音の母親だった。柔らかい雰囲気の人で、目元に翳りが見える。
「あなたが……水瀬さん」
「はい。……こんにちは。勝手に」
椅子から立ち上がると、母親は僕に深く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございます。突然のお願いなのに……」
「いえ。こちらこそ……」
何を言えばいいのか、分からない。社交辞令程度の言葉しか出てこなくて、申し訳なくなる。
母親は、彼女の顔を見てから、そっと微笑んだ。
「……この子、ね。あなたの話をよくしてました」
胸が、どくん、と鳴る。
「水瀬さんの書く文章は、優しくて、勇気をくれるんだって。中学生の時に拾ったノートに書かれていた小説を読んだのがきっかけで、ファン第一号なんだって」
「えっ……?」
でも──。
言われた気がする。
「……この子、昔から、手紙を書くのが好きで」
『星屑の郵便局』の単行本の間から、一通の封筒を母親は取り出した。真っ白い封筒。黒い封蝋。見覚えがある。同じような便箋が机の引き出しに入っている。
「これって……」
「娘が、ずっと大切に持っていたものです」
差し出された封筒を、受け取る。
指先が、少し震えた。
母親は、静かに言った。
「娘が、あなたに渡したかったものだから、受け取ってくれますか?」
たった5グラムの封筒の重さが、急に現実にのしかかる。
「……わかりました」
それしか、言えなかった。
母親は、少しだけ目を伏せてから、続けた。
「この子、目を覚まさないかもしれません。覚めたとしても……あなたのことを、覚えていないかもしれません」
母親は、彼女の手をそっと握った。
「それでも……。それでも、いいんです。あなたに、会えて。この子が、大切にしていた言葉が、ちゃんと届けば」
届く。
──言葉なら、きっと残せるでしょ。消える前に。忘れられる前に。心の中に。
また、無邪気な声が、頭の中で反響する。
「……僕が、読んでいいんですよね?」
封筒を見つめたまま、聞いた。
「はい」
母親は、はっきりと頷いた。
「この子の、最後の手紙ですから」
もう一度、彼女の顔を見る。眠ったまま、何も知らん顔で。
「また、会いに来てもいいですか?」
家に帰ってすぐに、僕は机の引き出しを開けた。使い古したシャーペンとか、定規とか消しゴムとか。その、かき分けた一番下に、封筒が二通。赤と、青の封蝋が見える。
黒い封蝋と同じ印が押されている。
「なんで、持ってるんだ……?」
赤い封蝋をゆっくりと剥がす。
『水瀬遥斗くんへ
君に書く最初の手紙で、少し緊張しています。
何から書こうかな?
そうだ、まず謝らなくちゃね。
灯台に着地しようとして、失敗して海に落ちちゃったから、驚かせちゃったよね。』
海に、落ちた……?
高校生の時、僕は海に落ちて、両親にこっぴどく叱られて。
誰かを助けに、飛び込んで。
僕は棚に並ぶ小説ノートを慌てて開く。
【それは突然のことだった。僕は口を開けたまま、ただ、見つめることしか出来ないでいる。翼の折れた制服の天使が、空から堕ちてきた】と、綴られた小説の書き出し。
僕の字だ。僕は知ってる。
ノートが足元に落ちで、僕の目は手紙の続きを追っていた。
『世界ってさ、こっちの気持ちなんてお構い無しに「やめていいんだよ」って言ってくるでしょ?才能とか、意味とか、結果とか。続ける理由を、どんどん奪っていく。
それでも君は、
誰にも褒められなくても、
誰にも読まれなかったとしても、
ちゃんと文字を書いてた。書き続けてくれた。
それって、すごいことだよ。
君はたぶん、自覚してないけど。
君の書いた言葉は、誰かの、勇気とか希望になる力を持ってる。……少なくともね、私には、なったんだ。
ありがとう。
君が書くことを選び続けた未来を、私は知ってる。
苦しい時も、自分の言葉を信じられなくなる時も、あるけどさ。それでも君は、書くよ。だから大丈夫。』
──そういうのはね、根拠じゃなくて、願いって言うんだよ。ファン第一号の切実な願い。
琥珀色の目が、僕を見つめていた。
そうだ、君は僕を一番近くで。
もう一通、青い封蝋を剥がす。
『ごめんね。
たぶん君は、この手紙を読んで、なんで謝られてるんだろう? って思うよね。
でもね、謝りたかったんだ。
ちゃんと。
あの日、チョコミントを選んだとき、君が一瞬だけ困った顔をしたの、気づいてたよ。苦手なのに、私に合わせてくれたんでしょ?
海を見てたときも、君は、何回も私の足元を確認してた。
私が落ちないか、怖がらないか、ずっと気にしてたよね。
そういうところ、私はちゃんと覚えてるんだ。
それなのに私は、君が差し出してくれた言葉を、全部、受け取らなかったね。
嬉しかったんだよ。
君が小説を書き続けてることも、それを誰かに見せる勇気を持ってることも。私の前で、少しだけ弱い顔を見せてくれたことも。
全部ね、嬉しかった。
でも私は、「ありがとう」だけ言って、一番大事なところで、逃げたんだ。
手紙の回廊の真ん中で、保健室で。
「これ以上、私を失いたくないって思わせるね」
なんて、困らせることも言ったし。
好きって言われるのが怖かったんじゃないよ。
好きになってもらったまま、ちゃんと返せなくなるのが、怖かった。好きになってもらったまま、忘れてしまうのが怖かったの。
君の隣にいた時間が、君の中で、痛い思い出になるのが嫌だったんだ。
だからね。
なにも言わないっていう、一番ずるい選択をしたの。
ごめんなさい。』
封筒が、震えた手からぽとりと落ちた。
手紙は、もう最後まで読み終えている。
「……っ」
胸の奥が、異様に重い。
「……なんだよ、これ」
ありがとうも、ごめんねも。自分の中に、最初からあったはずの感情を、今さら突きつけられたみたいな感覚だった。
思い返そうとすると、頭が鈍く痛む。
記憶の形をしたものが、霧みたいに立ち上がっては、すぐに崩れる。でも──感情だけは、正直で。
「……あまね」
名前を口に出した瞬間、太陽みたいに笑う少女が脳裏に浮かぶ。
「雨音?」
懐かしい。
でも、それだけじゃ足りない。
もっと切実で、もっと取り返しのつかない感覚だ。
忘れていた、というより置き去りにされていた感覚。
「ねぇ、雨音。君は……」
いつも笑っていた気がする。
無茶なことを言って、みんなを困らせて。
それでも、こっちを見て笑っていた。
その笑顔を、なんで忘れてるんだ?
僕の青春の一番真ん中で、嵐みたいに僕を連れ去って。
もう見られないかもしれない。という予感だけが、はっきりと胸に残る。だって、雨音はずっと眠り続けてるって。
「……待ってよ、なんでだよ」
誰に向けた言葉かも分からないまま、僕は叫ぶ。
「なんで、僕はずっと手紙を読まずに……っ」
椅子が、音を立てて倒れる。
立ち上がった理由は、説明できない。
思い出したからじゃない。
理解したからでもない。
ただ、このまま座っていたら、本当に終わってしまう。
その確信だけが、異様なほど、鮮明だった。
階段を駆け下りて、かかとを踏みつけながら乱暴に靴を履く。ドアを開けて、外に飛び出した。
胸の奥で、はっきりとした感情が、形になる。
──雨音に会いたい!
それだけ。それだけが、僕を突き動かしている。
理由なんて、記憶だって、後回しでいい。
空白があっても、僕は雨音の隣にいたはずなんだ。
何やってるんだ、僕。彼女はひとりで戦ってるのに。
今はただ、八雲雨音に、追いつかなきゃいけない。
後悔するなら、後にしろ。まだ間に合うかもしれない、わずかな希望があるなら。
「申し訳ありません。面会時間は、もう過ぎています」
看護師の声は、丁寧で、淡々としていた。その言葉が、胸の奥にそのまま落ちて、跳ねもしない。
「……少しだけでも、だめですか」
自分の声が、情けないほど小さかった。
首を横に振られる。
「どうしても、会わなきゃいけないんです!」
「そう言われましても、規則は規則です。それに、ご家族じゃないですよね?」
奥歯を噛んで睨みつけた廊下の先、あの病室に雨音がいる。
分かっているのに、会えない。
常識外れなことを言ってるのは分かってる。
無理やりに突破して、病室のドアを開けたって警備員に連れ出されるのだって。
僕は仕方なく、待合のベンチに、身体を預ける。
ポケットの中で、封筒の角が指に当たった。
『星屑の郵便局』に挟まっていた、黒い封蝋の手紙だ。雨音の書いた最後の手紙。震える指で、封を剥がす。ぱきっ、と小さな音がして、封蝋が割れた。
便箋を引き出す。
──白紙?
「……え?」
声にならない声が、喉の奥で引っかかる。
裏返してみても、何も書かれていない。
冗談だろ、と思った。
雨音のことだ。どこかにイタズラでも? と、なにか無いかと隅々まで目をこらすけど、白紙。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
言葉がない。という事実が、なにより残酷だった。
「……なんだよ、それ」
ベンチに肘をついて、顔を伏せる。
「何か言ってよ……雨音」
会いたかった。
「忘れてたから、怒ってるの?」
声を聞きたかった。
君の名前を呼びたかった。
気づいたときには、便箋の上に、雫が落ちていた。
ぽとっ。
またひとつ。
それが、自分の涙だと理解するまでに、少し時間がかかった。
もう一滴。
白紙の上に、じわり。涙のしみが広がる。
ゆっくりと、文字が浮かび上がった。
たった一行だけ。
『私ね、遥斗くんが好き。大好きだったよ』
魔法みたいに現れた君の声。
「……っ」
好き。
ずっと聞きたかった。知りたかったはずの言葉が、こんなにも重いなんて。
白紙だったはずの便箋を、両手で握りしめる。
「……僕も」
声が、勝手に零れた。
「君が。雨音が、好きだ」
誰に聞かせるでもない。
返事が返ってくるはずもない。
それでも、言わずにはいられなかった。
涙が次から次に溢れてくる。
次々に文字が浮かび、手紙が完成していく。
その瞬間──
視界が、ふっと歪んだ。
眩しいっ。
病院の香りじゃない……。
目を開けるよりも先に、インクと紙の匂いが、鼻をくすぐった。
「……?」
あれ? どこなんだ? 目の前には、木目のカウンター。ゆらゆらとクラゲみたいに漂う、無数の封筒。天井から下がる、アンティークのランプ。ここって、まさか。
「星屑の郵便局……?」
「あれれーー?」
くるっと椅子が回る。
蝶ネクタイの少年が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「おかしいなぁ?」
足をぶらぶらさせながら、首を傾げる。
それは僕が言いたい。
「遥斗さんが来ちゃった」
少年は、困ったように、でもどこか嬉しそうに笑う。
なんだよその顔は。早く雨音のいる場所に戻らなきゃ。
「まぁ、いっか。ようこそ、空にいちばん近い郵便局へ」
少年の視線が、僕の手元に落ちる。
「ふんふん。その手紙。完成させたんだね」
「……待って。君は誰? ここはどこなんだ? 帰りたいんだけど」
「うん。そう言うと思ったよ!」
少年は、あっさり言った。人差し指を突き立てつ、こほんと咳払いをする。
「ここはね、空に行くはずの人が最後に寄り道をする郵便局さ。僕が管理してるんだよ」
「空に……って僕は、もしかして死ぬの?」
あはは、と少年は腹を抱えて笑った。足なんかもバタバタさせている。笑ってる場合じゃないだろ!
「死なないよ? 君みたいな迷子が来たのは初めて! 雨音さんの涙で書かれた言葉に、君の涙が重なった。だから、扉が開いたんじゃないかなーー?」
「……雨音の涙?」
「そう! それが最後の呼び水になったってわけだね」
何を言ってるのかさっぱり分からない。勝手に納得した少年は立ち上がり、僕を置き去りにして、カウンターの奥へ行く。引き出しをひとつ開けて、封筒らしきものを取り出した。
「世界は本当に、雑だなぁ。ほら、君の分だよ」
少年は、僕に差し出す。
「だから、説明してくれよ!」
「はいはい」
少年はめんどくさそうな顔をした。
「いいですか? ここは本来、人生の最後に想いを綴る場所です。愛情や感謝、後悔や未練。時には怨念も……。人々が、この世界に残したい想いを届ける場所です」
少年は、優しくも厳しくもない声で言った。
「でも、君は運命に抗ってたどり着いた。君がこの世界に残したい想いはありますか?」
たったひとつだけ。失いたくない人がいる。
「あるよ」
僕は、また雨音に会いたいんだ。
「似てるね、君たちは」
少年は、古い万年筆を用意した。空っぽのインクボトルの蓋を外し、僕に向ける。
「じゃあ、君の感情を少し貰うよ」
僕の心臓の辺りから魂が抜けるように。白い靄が吸い込まれていく。
「やめろ……っ!」
少年は、僕の拒絶なんて聞こえてないみたいに、にこにこしている。
「だいじょーーぶ、ちょっとだけ! ちょっとだけだよ。痛くないから」
「そういう問題じゃ……」
小さな星が煌めくような、ブルーアンバーのインクで満たされてゆく。
「でーーきた! はい! 君は、文字を書くの得意でしょ?」
「そんな暇は無い! 早く雨音のいる世界に帰してよ!」
こんな場所に長居は無用だ。夢なら醒めてくれ!
少年は「おお」と目を丸くした。
「その言い方、すごくいい。すごくいいよ」
「ふざけるなよ」
「ふざけてなんかないよ? 僕はいつだって真面目だよ?」
真面目? どこがだ。さっきから僕を小馬鹿にして。こうしている間も、雨音はひとりぼっちだ。雨音はそれが嫌いなのに。
「雨音に、会わせてよ……」
僕が言うと、少年は急に、少しだけ困った顔になった。
「うーん……会わせて、っていうかさ。それ」
指さされた、便箋と万年筆。
「何を書けば許される? 謝罪か? 感謝か?」
「え? それ、聞くの?」
「当たり前だろ」
「だって、君。もう言ったじゃん」
「……なにを?」
少年は、僕の胸のあたりを指差す。
「雨音が好きだ!……って」
言った。
白紙に浮かび上がった一行に、僕は返事をした。
たった一言。
「あれは、ただの返事じゃないよ。この部屋の扉を開けた鍵」
「それって……?」
「君が書きべき言葉。また扉を開く鍵」
「……雨音と、また会えるの?」
問いが、震えた。
少年は、真剣な目で静かに言った。
「全部、君次第だ。でもね」
少年は身を乗り出した。
また、子どもみたいに無邪気な声で。
「君の言葉が届かなかったら、雨音さんはずっと……」
ずっと、届かないままか。
それは、雨音が一番怖がっていたことだ。
「好きになってもらったまま、忘れてしまうのが怖かった」
そう書いてあった。
もう忘れないよ。忘れるもんか。
「君は……卑怯だな」
僕が吐き捨てると、少年は、えへへと笑った。
「世界って、そういうとこあるよね。雑で、卑怯で。でもね、ちゃんと辻褄だけは合わせてくれる」
少年は、それ以上なにも言わなかった。役目を終えたと言わんばかりに、蝶ネクタイを指先でくるりと回して、カウンターの端に腰掛ける。そして、不規則なリズムで封筒にスタンプを押し始める。
「……書けって言うならさ、ちゃんと説明してよ」
声が、思ったより低く出た。
君が何も言わないから、僕はさ、雨音のこと、全部忘れてた。本当に好きだったかどうかも、一緒に何をしたかも、君がどんな顔で笑ってたかも。……忘れてたくせに。
指先が、万年筆に触れた。
「会いたいって、思った」
それだけは、嘘じゃなかった。
万年筆を握る。まだ手が、少しだけ震えている。
「言葉なんてさ……」
喉が詰まる。
「残せばいいってもんじゃないだろ」
残したから、苦しくなることもある。
届いたから、壊れることだってある。
それでも。
「……それでも、君は書くんだろ?」
胸の奥で、ずっと抑えていた感情が、ゆっくりと、形になる。後悔も懺悔も置いてって、それでも消えなかった、たったひとつ。
万年筆をインクに浸す。
僕は、ゆっくりと、君の名前を書いた。



