「ありがとう」と、「ごめんね」と、それから。

「おかえりーー。遅かったね」
その一言だけで、胸の奥に張りつめていた何かが、ぷつりと切れた。夢から覚めたみたいに、喪失感に襲われる。
ぽた、ぽたっ、と音がして、それが自分の涙だと気づくまで、少し時間がかかった。机の上に、小さな水たまりができている。
どうして泣いているのか、ちゃんと分かっている。
分かっているから、余計に止まらない。
涙は、思い出と同じだ。
掴もうとすると、指の隙間からこぼれていく。

少年は、いつもの場所に座っていた。
蝶ネクタイを少し歪ませたまま、
足をぶらぶらさせて、こちらを見ている。
「さっきから……泣きすぎじゃない?」
君の方が私よりも子供なのに。大人ぶった言い方で。
私は、首を横に振ろうとして、できなかった。

星屑のポストの行き着く先は、ここなんじゃないか?
遥斗の書いた小説の文字が、私の頭の中で星座みたいに繋がっていく。棚の中で浮遊する手紙を見て、あの回廊を思いついたんだ。私の頭の中には、まだ鮮明に遥斗の声が響いている。大丈夫だ。ちゃんと覚えている。
「ねぇ」
少年が、少しだけ身体を前に乗り出す。
「雨音さんさ……」
言われたくないことを、言われる予感がした。
「遥斗くんのこと、大好きだったんだね」
「また覗きみたの?」
「だから、ボクは仕事してるだけ。お客さんの手紙がちゃんと届いたか。でも直接渡さないなんて、雨音さんあれはダメですねーー。まぁ、青春恋愛映画でも見せてもらったことにして目を瞑りますけど」
否定できない言葉だった。
好き、という感情は、私の中でずっと暴れていたのに、口から出た瞬間、壊れそうで。
私は、唇を噛む。
「……好きって言ったら、だめなんだよ。病気も、忘れてしまう未来も、全部、彼に渡してしまうみたいで」
少年は、ふうん、と息を吐いた。
「だから、ごめんねなんだ。彼の告白にもちゃんと答えなかった」
そうだよ。私は遥斗の気持ちから逃げたんだ。
「ありがとう、じゃなくて?」
少年は、わざと首を傾ける。
「ありがとう、か。好きになってほしかったよ。こんな私を好きになってくれて、ありがとう。って思う。でも、好きになられたら、困るの。私なんて迷惑じゃん。だけどね、遥斗の隣にいたかった」
言葉が、ばらばらに落ちる。
「……私。全部、欲しがってた」
少年は、少しだけ笑った。
「知ってる。君、そういう子だもん」
軽く言われたのに、胸の奥に重く落ちた。
この少年に、心の隅までぜんぶ見透かされた、という感じがした。
「……ねぇ」
声が、自分でも驚くくらい小さい。
「それ、責めてる?」
少年は、すぐに答えなかった。足をぶらぶらさせるのをやめて、天井を見上げる。
「うーん、責めてるっていうよりさ」
間を置く。その間が、私を試しているようで、やさしくない。
「君、自分の気持ちを 一番後回しにするくせに、一番大事にしてたよね。好きって言えなかったのも、告白に答えなかったのも、ぜんぶ、彼のためって顔して」
少年は、私を見る。
「ほんとは、自分が壊れるのが怖かったんでしょ?」
図星だった。息を吸おうとするけど、うまくできない。
「……だって」 言いかけて、言葉が詰まる。
だって、なんだろう。
病気だから仕方ない?
忘れるから仕方ない?
迷惑だから、嫌われたくない?
どれも本当で、どれも言い訳みたいで。
少年は、声を少しだけ柔らかくする。
「きみはさ、遥斗くんに、嫌われるのが怖かったんじゃないよ」
私は顔を上げる。
「彼に好きになられたまま、置いてけぼりにする自分になるのが、怖かったんだよ」
「……それ、同じじゃないの?」
私が絞り出した声は、震えていた。
少年は、首を振る。逃げ道を、塞がれた気がした。
私は、目を伏せる。机の上の最後の封筒が、私を見ていた。
「ごめんね、ってさ」
私は、ぽつりと呟く。
「便利な言葉だと思うんだ。好きって言えない代わりに、さよならって言えない代わりに」
少年は、ふっと笑った。
「うん。だから厄介なんだよ。本当の気持ちに気づいて欲しくて、わざと用意した二通目だから」
少年は立ち上がって、棚の間を歩く。浮かんでいる手紙のあいだをすり抜けて、一通、指で弾く。その手紙は、ゆらりと揺れた。
「君のごめんねはさ、謝罪じゃなくて、告白に近いね」
私は、思わず顔を上げる。
「……ちがう。告白なんて、そんな」
「じゃあ、なんで?」
少年は振り返らないまま言う。
「好きをどうしても伝えたいって顔してるの?」
言葉が、出てこなかった。代わりに、また涙が落ちる。ぽた、と一雫が封筒の上に滲む。
「ね!」
少年が戻ってくる。
「いいこと考えた! その涙をインクにして最後の手紙を書こうか」
少年は引き出しの中から、古いアンティークの万年筆と瓶を取り出した。
「これは、なんでもインクにしてくれる特別な万年筆さ。涙でも、ため息でも。大切な気持ちを文字に閉じ込めてくれる」
その万年筆を握ったまま、私はしばらく動けなかった。
指先が、少しずつ冷えていく。
少年は、それを待つみたいに、何も言わずに、またぶらぶらと足を揺らしていた。きゅっ、きゅっと、床に靴先が当たる音だけが、静かな郵便局に響く。
「……あっ!」
不意に、少年が口を開く。
「大事なこと、まだ言ってなかったね」
「まだ、あるの?」
「世界がね。もう、雨音さんのこと、忘れ始めてるよ」
万年筆の先が、紙に触れそうになって、止まった。
「……知ってるよ。そういうルールでしょ?」
「さっき君が言った過去は猶予みたいなもの。みんな君を覚えてたでしょ? 君が過ごした時間分の代償が最後の手紙で精算される」
そういうことかと、納得した。文化祭を過ごしている間、違和感を感じなかったから。
少年は、くすっと笑う。
「世界が忘れてくって、思ってるより、進むの早いから」
少年は、独り言みたいに言った。
「次に過去に戻ったらね。もう、遥斗くんは君と過ごした時間を覚えてないと思う」
「……美優は?」
私は、何を期待したんだろう。
「同じだよ」
「慎也は?」
「同じ」
世界が、私の輪郭を、雑に消していくのが分かる。
「じゃあ……」
喉が、ひりっと痛む。
「私は完全に、忘れられる?」
「うーん。完全に、それは難しいかな」
ふわりと机に落ちた封筒に、少年はスタンプを押す。
「奇跡が起きることがある」
「……奇跡って」
私が呟くと、少年は笑った。
「たとえばね」
少年は指を一本立てる。
「忘れられる前に、何かを残すとか。世界のほうが、消すのが惜しいくらいの」
私は、万年筆を見る。瓶の中は、私の涙で満たされている。
「手紙はね……」
少年は、少しだけ真面目な声になる。
「記憶より、しぶといんだ」
「ほんと?」
「だってさ」
少年は、蝶ネクタイを指で直す。
「ボクの職場、そういうのばっか集まってるでしょ?」
確かに。
この郵便局には、忘れられたはずの言葉が、たくさん漂っている。
少年は、言葉を続ける。
「次に戻るとき、君はいない人として戻るよ」
「……」
「きっと話しかけても、初対面だ。笑いかけても、知らない人だと見られるだろうね」
少年は、私を見て言う。
「それでも、君は行くよね?」
私は、封筒を撫でる。
まだ、何も書かれていない白い便箋に、ペン先を落とす。
「行くよ」
迷わず言えた。
少年は、少し驚いた顔をしてから、にやっと笑う。
「ただ……伝えないまま、終わりたくないだけ」
少年は、満足そうに頷いた。
「じゃあ、奇跡に期待しよっか。起きるかどうかは、君の書く言葉次第」

私は、万年筆を握り直す。
涙が、また一滴、落ちた。
ペン先に触れて、ゆっくり吸い込まれていく。
世界が私を忘れても。
この手紙だけは、忘れさせない。
ちゃんと、さよならするんだ。