秋になり、学校は文化祭の話題で持ち切りだった。僕は、高校二年生にして、青春の端っこをようやく齧ったようだ。すっかり、その騒がしいイベントに巻き込まれている。
「──でさ、文藝部はどうすんの?」
古びた机に肘をつきながら、慎也が張り切った声をあげる。
「どう、って……いつも通り、部誌をだすくらいしか」
僕がそう答えると、向かい側に座っていた美優が、ぺらりと去年の部誌をめくった。
「部誌ってこれだよね。……内容はいいんだけど、ちょっと地味だよねぇ。クラスの出し物に負けちゃうっていうか」
この部に、派手さを求められても困るんだけど。
美優は、パンッ、と部誌の表紙を叩いた。
「どうせやるなら、目立ちたいよ。派手に! ね、部長?」
いきなり話を振られて、小説を書いていたペンの先端がノートの上で止まる。部長、という呼び名にはまだ慣れない。雑に押しつけられた役職のくせに、こういう時だけ妙に肩に乗っかってくる。
「派手に、ね……」
曖昧に返すと、僕の斜め隣から、勢いよく手が挙がった。
「はーい!!」
雨音が、椅子から半分飛び出しながら、ぴょんと手を伸ばしていた。
「はい。……八雲さん。授業じゃないから、そんなに元気よく挙手しなくても」
「ノリは大事だよ、ノリは!」
雨音は、くるっと僕の方へ身体を向ける。
「アイデアがあります!」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
「今年の部誌の主役は、水瀬くんの新作小説!」
「却下!!」
反射的に言ってしまったが、即答されたのがよほどショックだったのか、雨音は「ひどっ」と胸を押さえている。
「なんで!? 新作小説ちゃんと書くって言ってたじゃん!」
「書くとは言ったけど、部誌に載せるとは言ってない」
「ちっちゃい男だなぁ、水瀬……」
慎也まで便乗するとは思わなかった。
「じゃぁ、何を載せるつもりだったんだよ?」
「歴代の……先輩の、傑作選的な」
慎也は昔の部誌をペラペラと捲って、苦い顔をする。
「これか? 文字で真っ黒じゃん。古文書みたいだな」
「ぜんぜん映えないしーー」
「それなら、俺も水瀬の書いた新作の方がいいぞ」
「私もそう思う」
文藝部にいるなら、ちょっとは先輩を敬えよ。素晴らしい作品ばかりなのに。ほんと、こういう時だけ慎也と美優の結束力は強い。
「いや、だって……ほら。僕のなんかより、せっかく文藝部に入ったんだから、みんなも何か書いてみようよ。四人それぞれの短編とか……」
「それはそれとして、だよ!」
雨音は、僕の言葉を遮って、ずいっと顔を近づけてくる。
近い。僕は思わず椅子を引いた。
「文化祭って、普段この教室に来ない人もたくさん来るでしょ? 文藝部の部誌を手に取ってもらうならさ、今、ここにしかないものが必要だと思うんだよね」
「ここにしかないもの?」
「文藝部長の新作。水瀬くんの小説って、部誌でしか読めないじゃん。ネットに上げてるわけでもないし」
「それは……まぁ」
やばい、雨音の目が漫画のヒロインみたいに輝き出してる。止まらなくなるぞ。
「“文藝部部長・水瀬遥人書き下ろし”って帯に書いたらさ、ちょっとカッコよくない?」
「帯なんてつけるの!?」
「それめっちゃいい! つけようよ! それっぽくなるし!」
雨音に煽られているうちに、美優までも頷き出した。雨音は人を惹きつけるカリスマ性がある。本当に根っからのヒロインタイプだ。
「でしょ!? ポスターにも書けるし。今年だけの特別小説収録! みたいな。ねぇ慎也くん、そういうの、男子は惹かれない?」
「お、おう。なんか、限定ってつくと、つい手出したくなるよな。ガチャとか」
慎也の例えは、あんまりよくないけど。でも、確かに限定とか、今だけ、とかいう言葉は人を動かす。
「だったら、決まりだね!」
雨音はパチンと手を叩いて、一方的に議題を締めた。
「ちょっと待って。僕の意見は?」
「えーっと、賛成が三人! 過半数で採用済みです!」
笑顔と一緒に、強引な一言が飛んでくる。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「いや、でも……」
言い訳の言葉を探していると、雨音が少しだけ真面目な顔になった。さっきまでの悪戯っぽさが、すっと沈む。
「私、水瀬くんの小説、好きだよ」
不意に直球を投げ込まれて、視線が泳ぐ。その不意打ちは反則だ。
「私、あのノートの小説、何回も読んでた。勇気を貰ったんだ。……だから、私だけじゃなくて、もっといろんな人に読んでほしいなって思うの」
そう言われてしまうと、もう逃げ場がない。僕は、手の中のシャープペンを握りなおす。
「……分かったよ。書く。ちゃんと」
「やったーー!」
雨音は、椅子の上で小さくガッツポーズをした。
釣られて美優もパチパチと手を叩く。
「沢山宣伝しなきゃね! 水瀬部長の新作書き下ろし!」
「やめてくれ……プレッシャーで書けなくなる気がしてきた」
「大丈夫大丈夫! プレッシャーは才能の燃料だよ」
どこのポジティブ思考本の言葉だ?
雨音は、もう一つ思い出したように、手を挙げた。
「はい!! もうひとつ、やりたい企画があるんだけど」
「まだ増やすの?」
「うん。わたし達の文藝部らしさを出すためにね……生徒からの手紙を募集して、部誌に掲載するってどう?」
「手紙か……」
確かに僕らの文藝部は手紙からスタートした。アイデアとしては面白いかも。
「そう! 恋愛相談でも、友達への感謝でも、家族への愚痴でも、なんでもいいの。手書きの手紙を募集してさ、文藝部でいくつか選んで掲載するの。匿名でも、ペンネームでも、なんでもあり!」
美優が、珍しく身を乗り出した。
「それ、面白そう。読んでるだけで、めっちゃエモそうじゃない?」
「だよね。文化祭ってさ、なんとなく、特別な日って感じがするから。そういう日に勇気出して書いた手紙って、その人にとって一生モノになるかもしれないし」
雨音の目が、きらきらしている。彼女は、きっと青春の真ん中を全力で走ってきた人なんだろう。ただの面白がりで言ってるんじゃなくて、本気でそう信じている人の目だ。
「……でも、その手紙って、相手に届かないよね」
僕が、ふと現実的なことを言ってしまうと、雨音は「んー」と首を傾げた。
「それは、そうだけどさ。言葉ってさ、届き方がひとつじゃないと思うんだよね」
「どういうこと?」
「直接届かなくてもさ。誰かに読まれるってだけで、ちょっと救われたりすることもあると思う。ほら、手紙って、出す前に自分で読み返すでしょ? そのときに、ちょっと気持ちが整理されたりするじゃん」
妙に納得してしまう。さっきから、何度も無意識に頷いてるし。
「だから、文藝部は、そんな届かないかもしれない手紙の行き先になってもいいんじゃないかなって」
「じゃあ……部誌のテーマは、“手紙”ってことか?」
僕が確認すると、雨音は嬉しそうに頷いた。
「うん! あっ、水瀬くんの新作も、手紙が関係する話にしたらどう?」
「さらっとハードルを上げないでくれる?」
とは言いつつも、内心、助かったとも思っている。
「無茶ぶりすぎた?」と舌を出す彼女に「……いいよ。テーマが手紙なら、書きやすいかもしれない」と伝える。本当はモチーフに悩んで筆が止まってたなんて言えないけど。
「やった!」
雨音は、また手をぱちんと合わせた。
「美優も慎也くんも書くんだからね? 小説書けない組は手紙で参加します」
美優が、腕を組んで考え込む。
「また手紙か……。じゃあ、私は、未来の自分宛てにしようかな」
「俺、どうしよう……」
慎也は、天井を見上げながら唸った。
「ラブレター書いちまえば? 実在の相手に」
僕が軽口で返すと、彼は「やめろ」と耳まで赤くした。分かりやすいな。そういえば、あの遠足の日、海で告白できなかったと聞いている。
「私はねーー、美優ちゃんに書こうかな!?」
「おかわりは要らないよ。この前ので充分伝わりました」
「ふふっ。まだまだ、私の愛は地球より重いよ?」
そうやって笑い合っているうちに、部室の空気が少しずつ温度を上げていく。
文化祭の準備か……縁がなかったイベントに、どこか浮き足立つものがあるな。
それから数日、放課後の部室はすっかり編集部になった。
「このフォント、なんか芋っぽくない?」
「芋ってなに。フォントに芋っぽいとかあるの」
「あるよーー。なんか真面目すぎるっていうか……市役所の配布物感がすごいんだもん」
プリントアウトした試し刷りを前に、美優が唇を尖らせる。
部誌のタイトルロゴをどうするかで、もう三十分は揉めていた。
「美優ちゃん、こっちの、ちょっと丸いやつは? かわいいよ?」
雨音が、別パターンのフォントを指差す。
丸みを帯びたシンプルな字。たしかに、さっきのより柔らかい。
「あ、可愛い !部長はどう思う?」
「丸いほうが、確かにしっくりくるかも。堅すぎると、国語の教科書みたいになりそうだし」
「それは嫌だ!」
三人の意見が珍しく揃った。
「じゃあ、フォントはこれで決定。水瀬くん、新作のタイトル、決まりそう?」
雨音にそう聞かれて、僕はノートのページをめくった。白紙の多さが胃に悪い。
「仮タイトルなら、“星屑のポストに手紙を出す”ってやつがあるけど……」
「なにそれ、気になるタイトル! いいよ!!」
雨音が、僕のノートを覗き込む。勢いのあまり、テーブルに身体をぶつけて、ペンが一本、転がり落ちる。
「本当に?」
「うん。星屑ポストって、なに? どこにあるの? って、そこでまずワクワクするし」
「俺もそれ好きだな。なんかエモそう、だよな美優」
慎也が、さっきからよく分かってないくせに、ノリだけで同意する。
「じゃあ、その方向で書いてみる。内容がタイトル負けしないように、頑張るよ」
「部長なら大丈夫だよ。だって部長だもん」
美優からも理屈になってない励ましをもらいつつ、僕はシャープペンを握り直した。
「じゃ、私はポスター係を進めちゃうね」
雨音は、机の上に色とりどりのマーカーを広げる。
「“恋文大歓迎”って、書いていいかな? 友情・家族愛・片思い・失恋オールジャンルOK! っどう?」
「なんかカオスだな……ほどほどにしろよ?」
雨音は、くすくす笑いながら、ポスターの端っこに小さな封筒のイラストを描きはじめた。
宛名のところには、“だれか”って書いてある。
「部長、キャッチコピー案出して」
雨音と一緒に作業していた美優からの無茶ぶりだ。
「僕、執筆で忙しいんだけど。いきなり高度なことを要求してこないで」
「だって文字のプロでしょ?」
「プロじゃない。ただの高校生です」
そう突っ込みながらも、頭の中で言葉を探す。
──届かないから、書ける言葉がある。
──言えないから、紙に落とす想いがある。
ノートの隅に、いくつかフレーズを書き出してみる。
雨音が言ってたことも良かったな──。
隣から、じっと覗き込む視線がした。
「うわ、なにこれ。どれもいい」
やっぱり雨音だった。薄琥珀色の目を輝かせる。
「えっとね、私的には――、これだ!」
彼女はペン先で、ひとつのフレーズをちょん、と指した。
『言えなかった言葉、文藝部で預かります』
「これ、好きーー!」
「雨音さんが言ってただろ? 文藝部は言葉の行き着く先だって。だから預かるだけ。勝手に届けたりはしない」
「じゃあ、そのコピー、ポスターに使おうかな」
雨音は、ポスターの中央に大きく、カラーペンでその言葉を書き込んでいく。字は丸くて、少し幼い。けれど不思議と引き込まれる文字だ。
僕はその横で、ノートの白紙を埋めることに集中した。
シャープペンが走る音と、窓の外の部活の掛け声。時々、雨音の鼻歌。それら全部が、混ざり合っていく。
「ねぇ、遥斗くん 」
ふと、不意に名前を呼ばれた。
「えっ?」
「このポスター、もうちょっとだけエモさ増してもいい?」
「……エモさって、どれくらいの単位で測るの?」
彼女は得意のあざとい顔で、顎に指を添えて考える。
「そうだなーー。胸がきゅんってする量で!」
「そんな定量化しづらい単位、聞いたことないよ」
「あるよ? 私の中ではちゃんとあるんだもん」
そう言いながら、雨音はポスターの余白に、小さく一文を書き足した。
僕には予想できなかった。雨音と美優のいう、エモさ増し増しの募集ポスターを掲示してから数日で、想像以上の反応があったらしい。
「見て!!」
部室の扉を開けるなり、雨音は持ってきた段ボール箱を机の上にドン、と置いた。中身がざりざりと音を立てる。
「おい、雑に扱うなよ」
「大丈夫、壊れ物じゃないから」
いや、みんなの大切な思いなんじゃないのかよ! と、心の中で軽快につっこむ。
箱の中には、色とりどりの封筒がぎっしり詰まっていた。
白に、ピンクに、便箋をそのまま折りたたんだやつ。
シンプルなコピー用紙に、シールでデコレーションされた凝った封筒まで。
「こんなに来たの?」
美優が目を丸くする。
「うん。職員室の前の投函ボックス、もう一箱分あるよ。さっき顧問の先生に早く取りに来てくれって怒られて」
「怒られたのかよ……」
慎也が苦笑いした。
「だってさ、こんなに集まると思わなかったんだもん」
雨音は、うれしそうに肩をすくめる。
「見て、“宛先:未来の自分へ”とか、“宛先:今は言えないあなたへ”とか。“宛先:お父さん、お母さん”とか」
封筒の表面を見て回るだけでも、胸の奥がざわざわする。くすぐったい様な。どれも僕には知らない誰かの日常で、けれど、どこかで見たことがあるような言葉たちだ。
「これ、全部読んで選ぶの?」
「うん。文化祭までに、これは載せたいってやつをいくつか選ぼう! 名前が書いてあるやつは、ちゃんと許可もらってから」
美優が、ひとつの封筒を手に取った。
「“宛先:親友”……。あ、裏に“掲載可”って書いてある」
「大切な手紙も混ざってるから、そこは慎重に扱わないと」
さっき、ダンボールを雑に置いたのに!? と、言いたかったけど我慢した。
雨音は、いつになく真剣な顔で、封筒を並べ替えていく。
保留、要許可、掲載不可、掲載候補……色付きの付箋で、分類のラベルを貼っていく。
「こういうの、段取り良すぎない?」
僕の呟きに、彼女はちょっと得意げに胸を張った。
「こう見えても、私、文藝部編集長だからね!」
「いつから編集長になったの?」
「今。一番やる気あるから、自動的に」
適当な役職が、またひとつ増えた。
「水瀬先生はとりあえず、自分の新作進めて。締切、来週中だよ?」
「……編集長、締切の圧がすごいです」
「文藝部編集長をなめるな!!」
そんなわけの分からない会話を交わしながらも、雨音の指先は、一通一通、封筒の端を丁寧に撫でるように動いていた。
手紙の選考作業は、想像以上に体力を使った。
「……しんど」
三通目を読み終えたあたりで、僕は椅子の背にもたれた。語彙力のない感想しか出てこない。
「水瀬、お前部長だろ。語彙、どこ置いてきた?」
「今、さっき読んだ人に全部持っていかれた気がする」
「俺もだ……」
慎也と肩を並べて話している横で、美優も、一枚目の途中でもう泣いていた。
「これ……ずるくない? 高校生でこんな手紙書く!?」
「いや、高校生だから、かもよ。大人になると、こういうの、恥ずかしくて書けなくなるから」
雨音編集長も、ティッシュ箱を真ん中に置きながら、淡々と選考作業を続けている。彼女の目も少し赤い。
「雨音は、平気?」
「平気じゃないけど、平気なふりは得意」
「泣くよねーー?」
「でも、なんか……うれしいよね」
封筒の束の上にそっと手を置きながら、雨音が呟いた。
「こんなにたくさんの言葉が、この学校のどこかで眠ってたんだなーって。それが今日、ここに届いたんだよ? すごくない?」
「言い方が編集長だな」
「……あれ?」
彼女は、自分の手の甲をじっと見つめる。
「さっき、どこかにペン置いた気がするんだけど……。あれ、どこだっけ?」
「ペン? いつの話?」
「さっき仕分けしてる時、メモするのにキャップ外して……。あれ? でも、そのあとちゃんとキャップ閉めた気もするし……メモってどれだっけ?」
眉間に皺が寄る。彼女の顔に、見慣れない困惑が浮かぶ。
「よくあるでしょ、それくらい」
僕は軽く笑ってみせた。
「僕だって、さっきノートどこ置いたか忘れて焦ったし」
「そっか。……そうだよね」
雨音は、自分で自分を納得させるように、小さく頷いた。
その仕草が、どこかぎこちない。
「それ、違う? 落ちてるやつ。ピンク色の」
彼女がいつも使っているペンが床に転がっている。
「……これ、だっけ」
ペンを拾おうとした雨音の指先が、ほんの少しだけ震えているのが見えた気がした。だけど彼女は、すぐにいつもの笑顔を貼り付けた。
「よーし、みんな! 続き頑張りますか!」
その声だけ聞いていれば、何も変わっていないように思える。だから僕も、深く聞かないことにした。
きっと彼女も疲れてるんだろうな。
そういうことにしておいた。
文化祭一週間前。
部誌の本文データも出揃って、あとは印刷と製本を残すのみ、というタイミングだった。
「ちょっと、事件です」
雨音が、プリントアウトされた原稿を抱えて部室に飛び込んできた。
「なに、その物騒な入りは」
「いや、事件じゃなくて……嬉しい悲鳴? でも事件!」
「どっちだよ」
「ページが足りない!」
机の上にばさっと原稿が広げられる。
部誌に掲載することになった手紙たちと、僕の新作。予定していたページ数を既に超えている。
「あー……確かに。予定より増えてるね」
美優が、ページ番号を確認しながら唸った。
「これじゃ、予算足りないかも。印刷費が……」
現実的な問題が首をもたげる。
「どうする? 削る?」
「削りたくない……」
雨音が、即座に首を振る。
「だって、真剣に選んで決めた手紙たちだよ。どれか削るって、すごく難しくない?」
その気持ちは分かる。
一通一通、僕らは、誰かの届かない言葉を預かることにしたのだから。
「じゃあ、ページ数を増やすか、部数を減らすか、だね」
「水瀬くん、どっちが現実的?」
「うーん……」
電卓アプリを開いて、慎也が計算を始めた。
「ページ増やして、部数もこのままいくと……予算オーバーどころか、赤字だな」
「部数減らすのは?」
「それなら、ギリいけそうだけど……」
慎也は電卓に並んだ数字を見せてくる。
「文化祭当日、即売り切れちゃうかもしれないぜ?」
「それはそれで、ちょっと嬉しいけど……」
雨音は困ったように笑う。
「でも、手紙を預かった以上、部誌を手に取れなかった人がいたら、ちょっと申し訳ないかも」
「じゃあ、やっぱりページ削るしか……」
雨音は、ふるふると首を振った。
「だめ! 部誌の形は変えないで……展示もやろう」
「展示? 今から?」
「うん。選考から漏れちゃった手紙も一緒に、教室に展示しようよ。壁に貼ったり、紐に吊るしたりして。文化祭の日限定で、“手紙の回廊”みたいにするの」
「それ、めっちゃいいじゃん!!」
美優が、ぱっと顔を明るくする。
「部誌に載るのはごく一部だけど、ここに来てくれた人はもっと読める、みたいな」
「そうそう。で、部誌を買ってくれた人には、封筒一通プレゼント、とか。その場で書いて、回廊に吊るしてもいい」
「告白に使うやつもいたりして」
慎也が笑う。
「みんな。ただでさえ疲れてるのに、作業増やして平気?」
たまには部長らしい発言もしておかないと。雨音も美優も目の下にしっかりクマを作っているから。慎也だけは平常運転。さすがだ。
「大丈夫、仕分けはきちっとしてあるし、掲載可の手紙だけだから、そんなに大変じゃないよ」
そこまで考えた上での提案だったらしい。さすが、自称編集長だ。
「じゃあ、印刷する手紙は減らして、展示で補う。いい?」
僕がそうまとめると、雨音はほっと息を吐いた。
「ありがと。削る、って選択肢、あんまり好きじゃなくて」
「知ってる。だって、なんでも全部盛りにしたがるから。もしかしてラーメンも?」
「もちろん、大盛りで! 全部、大事なんだもん」
雨音には、きっと大事なものが多すぎて、手放すのが苦手なんじゃないか、と思う。
「……じゃあ、展示のレイアウト考える係、編集長に任せるけど、いい?」
「任された!」
彼女は、早速スケッチブックを取り出した。
部室の平面図を描いて、どこに紐を張るか、どこに吊るすか。小さな封筒たちが、部屋の中をひらひらと舞う様子を想像しながら、空中でペンを振るう。
その横顔に、僕はしばらく見蕩れていた。
出来上がった僕らの部誌を見て、やっぱり彼女の目は星屑を散りばめたように輝いている。
「ちゃんと、本になってる」
「当たり前だよ」
そう返しながらも、僕の胸も少し熱くなる。去年は先輩がいたから、僕はおんぶにだっこだった。
今年は思い入れが違う。
白黒の活字が並んだページ。
見慣れた自分の文字が、印刷インクに変わっている。
テキストファイルの画面で見ていたそれとは、まるで別物みたいだった。
「水瀬くんの“星屑ポスト”も、ちゃんと載ってるよ」
雨音は、僕の小説が載ったページを開いてみせる。
タイトルの上に、ちょっとだけ誇らしげな特別収録の文字。
「うわ……変な感じ」
「嬉しい、の変な感じでしょ?」
「まぁ、そうかも」
「ねぇ、読んでいい?」
恥ずかしくて、つい頭を搔く。
「校了済みだし、今さら直せないし、いいよ」
「そういうこと聞いてないんだけど」
「いや、編集長相手だし」
彼女の視線が、僕の返事を催促する。
「僕のファン第一号なんだろ……最初にどうぞ」
許可すると、雨音はその場で立ち読みし始めた。
一人だけ違う世界にいるみたいな顔で行間を追っている。
ページをめくる音だけが、やけに大きく聞こえる。
僕は、落ち着かなくて、不備がないか確認する作業に没頭した、ふりをした。
気になって仕方ない。
しばらくして「……ふふっ」と、小さく笑う声がした。
「なにがおかしいの? 笑うとこあった?」
「いや、おかしくない。……なんか、好きだなぁって」
顔を上げると、雨音は本当に嬉しそうに笑っていた。いや、笑いながら、涙を溜めているようにも見える。
「“星屑のポスト”ってさ、やっぱりちょっと空に近いとこにあるんだね」
物語の内容を思い返して、僕も少し笑う。
「うん、そういうイメージで書いたからね」
「届かない手紙を受け取ってくれる場所っていうのがさ。……ほんと、私たちの文化祭にぴったり」
「狙って書いたから」
「あ、ちゃんと自覚あるんだ」
「うん。そこは否定しない」
雨音は、もう一度ページを閉じて、表紙を撫でた。
「この部誌さ。誰がどの手紙を書いたか分かんなくてもいいけど……。ちゃんと誰かが受け取ったってことだけは、書いた人に届けばいいな」
その言葉が、どこか自分自身に向けた祈りにも聞こえた。
「届くよ、きっと」
僕は思わず、そう返していた。本心だった。
「だってほら。僕の書いたものだって、誰かひとりに届けばいいと思って書いてたけど。勝手に拾って、勝手に読んで、勝手に好きだって言ってくれる人がいたりするじゃん」
「それ、ディスってる?」
「誉めてる。たぶん」
「たぶんってなに!?」
雨音はぷくっと頬を膨らませたけど、すぐに笑い顔に変わった。
焼きそばソースの匂いと、遠くで鳴る吹奏楽のチューニングの音、それから、楽しそうな生徒の声。ごちゃごちゃと混ざり合った音と匂いの中を、僕は段ボール箱を抱えて歩いていた。
文藝部の部誌がぎっしり詰まった箱は、想像していたよりずっと重い。
でも、その重さは嫌いじゃなかった。印刷屋から受け取った瞬間、インクの匂いと一緒に、「本当に本になったんだ」という実感がどさっと肩に乗っかった気がしたから。
三階の端っこ。僕らの部室がある棟の、いつもは通り静かなはずの廊下に、今日は人の気配があった。
文藝部の部室の前に、小さな列ができている。制服だけじゃなくて、クラスTシャツや私服の人も混ざっていて、ちょっとした縁日の入口みたいだ。
「いらっしゃいませ! 文藝部の展示こっちでーーす!」
その列の先で、ひときわ大きな声が響いた。声の主は、もちろん八雲雨音。
今日は白いニットに、紺のチェックのスカート。制服より少しラフなのに、ちゃんと「特別な日」の服装に見える。いつもより高い位置で結んだポニーテールが、呼び込みのたびに、ぴょんと跳ねた。
胸元には、手作りの名札がぶら下がっている。【文藝部編集長】と、マジックで大きく書いてあった。
彼女を中心に、廊下の空気は、外の太陽より明るくなっている気がした。
「……張り切ってるな」
前に並んでいた一年生らしき女子達が、文藝部のポスターを指さしている。
「このポスター、誰が描いたのかな? 可愛いよね」
「描いたのは、あそこにいる変な編集長だよ」
僕がこっそり教えると、女の子は「編集長……!」と小さく感嘆の声を漏らした。雨音の肩書きが、勝手に校内で独り歩きしているのが目に浮かぶ。
僕が段ボールを抱えたまま近づいていくと、雨音がぱっと顔を上げた。
「あっ、水瀬先生だ!」
「……先生はやめて! ほら、変な目で見られてる」
人ごみの中でも、真っ先に僕を見つける。
呼び込みでかすれかけていた声が、僕の名前を呼ぶときだけ、ほんの少し柔らかくなるのが分かる。
「じゃあ、部長! ご出勤おそいですよ? 編集長は朝イチからフル稼働なんですけど?」
「印刷屋に寄ってたんだよ。これ、最後の部誌」
段ボールを持ち上げて見せると、雨音は親指を突き立てる。
「はーい! あ、みなさん、ちょっとだけ入口あけてくださーーい! 文藝部の部長が通ります!」
不規則な謎の拍手に包まれながら、僕はなんとか段ボールを教室の中へ運び込んだ。
文藝部の部室の隣。空き教室の天井から、細い麻紐が何本も渡されている。その紐から、色とりどりの封筒が吊るされていた。白に、クリーム色。桜みたいな淡いピンクと、水色。大小さまざまな封筒が、風もないのに、わずかに揺れている。
窓から光が差し込むと、光を受けた封筒の影が、床の上にやわらかく落ちる。歩くと、自分の足音よりも先に、その影だけがふわりと揺れた。まるで、教室ごと大きな水槽になったみたいだった。手紙たちが、水の中のクラゲみたいに、ゆっくりと漂っている。
「……やるじゃん、編集長!」
僕の口から思わず本音が漏れる。すごいな。僕の想像していた「手紙の展示」とは、全然違うものがそこにあった。もっと地味で、もっと文字だらけな空間をイメージしていた。これは、誰が見ても思わず立ち止まってしまうやつだ。
「でしょ?」
背後から声がして振り向くと、雨音が得意げに胸を張っていた。さっきまで廊下で呼び込みをしていたはずなのに、もう戻ってきている。瞬間移動でもしたのか。
「夢の中みたいな空間でしょ?」
「よくこの短期間でここまでやったな……」
「美優ちゃんと慎也くんが、遅くまで手伝ってくれて。新幹線みたいなスピードで」
新幹線の例えはどうかと思うけど、事実、二人にはだいぶ無理をさせた記憶がある。
「僕は小説に集中させてもらってたから……」
ひとつ、手近な封筒を手に取る。
雨音も、目の前の封筒の端を、指先でそっとつまむ。
その仕草が、驚くほど丁寧だった。いつも雑なくらい元気な人なのに、誰かの言葉に触れるときだけは、呼吸まで静かになる。
「星屑のポスト……その先の、たどり着く郵便局……。みたいなイメージなんだよ!」
「……じゃあ、空にいちばん近い郵便局だから手紙かふわふわ浮いてるのかな?」
自分でも、よく分からない比喩が口から出た。
雨音は、ぱちんと瞬きをしてから、ふふっと笑う。
「知ってるの? 急に変な事言うから」
「えっ……僕、変なこと言った?」
「ううん。別に。ただ、ロマンチックだなぁ……って」
さっきから、僕の視線は封筒と雨音の横顔を行ったり来たりしていた。眼球の動きだけで忙しい。
白いニットの袖から少し覗く手首は、細いのに、封筒を触る指先は不思議と頼もしく見えた。笑うたびに、頬のあたりの影が柔らかく揺れる。ポニーテールの毛先が、封筒に軽く触れて、楽しそうに跳ねる。その、なんでもない一連の動作の全部に、いちいち心臓が反応してしまう。うるさいくらいに、ドキドキと。
文化祭なんて、きっとずっと縁のないイベントだと思っていた。クラスTシャツを着て騒ぐタイプでもないし、ステージに立つ度胸もない。せいぜい、教室の隅で空気みたいになってやり過ごすのがお似合いだと。
なのに今、僕はこの教室の真ん中に立っている。
部誌の表紙には自分の名前が印刷されていて、その本を嬉しそうに撫でてくれる誰かがいる。
手の届かないと思っていた青春のど真ん中に、もう、片足くらいは踏み込んでしまっている気がした。
それは、全部。ぜんぶ、目の前の彼女のせいだ。
ひとつの手紙が揺れる。
【宛先:これ以上、大切な人を失いたくないわたしへ】
裏には、小さく「掲載可」とだけ書かれている。
もちろん、誰が書いたかは分からない。
それでも、その一文だけで、書いた人の胸の重さが伝わってくるようだった。
「それ、気になるの?」
隣に立った雨音が、同じ封筒を覗き込む。
「……少しね」
「私も。ね、これ、後でゆっくり読もうよ」
雨音は、貼り付けている洗濯バサミをそっとつまむと、封筒が落ちないギリギリのところまで揺らした。
「この失いたくないって気持ち。わかるんだ」
「過去に大失恋でもしたの?」
「んーー、近い! ……遥人くんは?」
「え?」
突然向けられた質問に、動揺が隠せない。ひとつ間違えば、取り返しのつかないことになりそうな緊張感。
「これ以上、大切な人を失いたくないって、思ったことある?」
あるよ。それも、現在進行形で。でも、それをどこまで言葉にしていいのか、分からない。
「……さあね」
曖昧に濁すと、雨音は「ふーん」とだけ呟いた。追及してこないところが、ありがたいけど、少し寂しい。
「じゃあさ」
雨音は、くるっと僕の前に回り込むと、少しだけ背伸びをした。
「私がいつかそう思わせてみせるね。これ以上、私を失いたくないって」
「はっ? なんで!?」
冗談めかした調子なのに、その言い方はやけに真っ直ぐだった。
「なに、その宣言」
「どう? ちょっとかっこよかった?」
「いや、怖いんだけど」
「ひどーーい」
わざとらしく肩を落としたあと、雨音はすぐにいつもの笑みを取り戻した。
「……でも、そうなれたらいいなって、わたし、ちょっと本気で思ってるよ」
そう言って笑う顔が、冗談には見えなかったから、僕はうまく視線を合わせられなくなる。
──ほんと、ずるいな。
文化祭の喧噪と、封筒の揺れる音と、その全部の真ん中で。 彼女だけが、僕の瞳に映る。
さっきの言葉だって、胸の奥の一番痛いところだけを、狙い撃ちされている気がしたんだ。
「いらっしゃいませー! 手紙の回廊、こっちでーす!」
廊下に、雨音の声が高く跳ねた。
呼び込みのたびに、ポニーテールが揺れる。
その揺れだけで、胸が勝手に反応するのが腹立たしい。
僕は段ボールから部誌を取り出して、机の上に並べた。
ダンボールの角が指に当たって、少しだけ痛い。その痛みが、今の僕の思考にはちょうどよかった。甘いことばかり考えそうになるのを、雑に止めてくれるから。
「部誌、こっちでーす。限定、早い者勝ちだよー!」
声の端が、少し擦れていた。ゴホゴホッと咳こむ。ほんの一回。笑い声の海の中に落ちた、小石みたいに。僕の耳は、しっかり拾う。
「……だいじょうぶ?」
雨音は何事もなかったみたいに、口角を上げる。喉元をさりげなく撫でて、もう一度、声を張る。……無理をしている、ってほどじゃないのか。
「雨音……」
名前を呼びかけた瞬間、横から別の手が伸びた。
「ほら、飲んで……」
美優だった。短い言葉で何かを差し出す。ペットボトルのキャップが、もう開いている。雨音も、受け取るのが自然すぎた。ありがとうも、いらないも挟まずに。ただ、ごくりと喉を鳴らして飲み込む。違和感は、そこじゃない。美優のもう片方の手が、ポーチに仕舞ったのは白いシート。それが一瞬だけ見えた。なにかの薬。僕の視線の先で、美優の指がそれを隠した。
最初からだ。美優は雨音を過剰に心配する。高校生に向けたそれじゃなく、幼い子を心配するように。美優は何かを知ってる。僕の胸の奥が、冷える。冷えたのに、鼓動は速くなる。脳が「やめろ」って言ってるのに、目だけが勝手に追ってしまう。
雨音が、僕の視線に気づいたのか、ほんの少しだけ瞬きをした。笑顔が、ひと呼吸ぶん、遅れて貼りつく。
「なに?」
言い方は、いつも通り。目だけが、いつもと違う。水面の下で足をばたつかせている人の目だ。
僕は、言葉を探した。だけど、他に思いつかない。
「……それ。体、どっか悪いの? 風邪……とか?」
少し、後ろめたさも感じる。影にあるものを、明るい文化祭の真ん中に引きずり出すみたいで。
「遥斗くん」
呼び名だけで、距離を詰めてくる。その一音で、僕の胸が簡単に折れそうになるのが悔しい。
「今はさ……」
小声だった。
僕だけに届く音量で、彼女は小さく笑う。
「今だけ、何も聞かないでこのままでいさせて、ね?」
ずるい。
頼み方まで、ずるい。
雨音は僕の返事を聞く前に、くるっと踵を返した。
「はーい! 次の方どうぞー! 封筒、触ってもいいけど、優しくねー!」
声はいつも通り弾んでいる。
けれど、その背中が、さっきより少しだけ小さく見えた。
──あの時の違和感は間違ってなかったんだ。
彼女の抱える秘密の、その病名なんて、まだ何も知らない。
「部長、私からもお願い。今日は雨音のわがまま聞いてあげてよ」
全部知ってるはずの美優が、悲しい笑顔を僕に向ける。雨音は何を隠してるんだ? って聞きそうになる気持ちを抑える。さっきの二人のやり取りは、知られてはいけないっていう、形をしていた。
そして次の瞬間。
教室にいる雨音の声が、途切れた。
ぱちん、と。
糸が切れるみたいに。
「……誰か! 部長さん!!」
誰かが名前を呼んだ。
部長? たぶん僕だ。
振り返る。
人の波が、一瞬だけ引いて、白いニットの肩が、ゆっくり沈むのが見えた。
それを「倒れた」と認識するより先に、僕の身体が動いていた。
机から部誌が崩れ落ちる。
封筒が一斉に揺れた。クラゲの群れみたいに、ゆらゆらと、逃げ場なく。
彼女の名前を呼ぼうとしても、喉が詰まる。
人の波が割れて、真ん中で彼女は横たわっている。
あまりにも綺麗に、静かに、そこにいるから。まるで、眠っているみたいで。
「八雲さん!?」
僕は、雨音のそばに膝をついた。
ポニーテールの毛先が床に触れている。
いつも跳ねていたはずの毛先が、今はただ、動かない。
「八雲さん……!」
肩に触れようとして、手が止まった。
触れたら壊れそうで。でも、触れないともっと壊れそうで。
指先が宙で迷った、その一瞬。雨音の睫毛が、ふる、と震えた。ゆっくりと目が開く。半分だけ。焦点が合わないまま、僕の方を探して、僕の顔の手前で止まる。
「……だい、じょうぶ、だから」
声は、途中でほどけた。「だいじょうぶ」の形になりそこねた言葉が、息のまま落ちる。違う。これは、大丈夫じゃない声だ。
「しゃべらなくていいから……」
僕は彼女の手を優しく握る。彼女も、力の入らない手で、ゆっくりと握り返す。
その瞬間に、美優が横から入り込んだ。
「雨音、頭、打ってない?」
「……佐伯さん」
名前を呼んでも、美優は僕を見ないまま、雨音の頬に触れて、すぐ引っ込めた。涙が出そうな顔をしているのに、声だけは冷たいくらい落ち着いている。
「慎也、保健室。走って!」
「お、おう!」
慎也は「通して!」と大声を出して、廊下の方へ走る。慎也の真剣な顔で、ただ事じゃないんだと理解した。
「……ごめんね」と、雨音が口を動かす。謝るために倒れたわけじゃないのに。謝る必要なんてないのに。
「謝らないでよ」
言い切った自分の声が、少し震えていた。
雨音は、笑おうとしたみたいだった。
口角が少し動いたけど、途中で止まって、代わりに小さな咳が出た。
ごほっ、ごほっ……。
美優が、僕の袖を掴んだ。強くないのに、痛い。
「……部長、顔、見ないであげて。あんまり見ると……外に」
言われて、初めて気づく。
教室の入口に集まった生徒の視線と、声。
「倒れた」「大丈夫?」「救急車よぶ?」
その全部が、雨音を見世物にしようとする。
僕は、身体を少しだけ斜めにして、雨音の顔が見えないように隠した。こんなことしかしてあげれない僕に、苛立ちが募った。
ベッドの上で、白いシーツに埋もれるみたいに、細い身体が沈んでいる。
「……少し、横になってて。落ち着いたら、声かけるから」
保健の先生がそう言って、しゃっとカーテンを閉める。足音が遠ざかって、扉が閉まる音がした。
ふたりきりだ。
放心状態の僕を置いて、美優と慎也は文藝部の展示に戻ってくれた。
「……ごめんね、文化祭、台無しにしちゃった、ね」
先に口を開いたのは、雨音だった。
天井を見たまま、いつもよりずっと小さい声で。さっきよりも、言葉に力は戻っている。
「……さっきも言った。気にしなくていいよ」
「うん。でも、これは……ちゃんとした、ごめんねだから」
僕は、ベッドの横の丸椅子に腰を下ろした。
「何が、ごめんねなの?」
聞いてしまった瞬間に、後悔した。
雨音は、ゆっくりと視線をこっちに向ける。その目は、さっきまでの編集長の顔じゃなくて。ただの、十七歳の女の子の目だった。
「……私ね」
雨音は一度、ゆっくりと息を吸う。
「たぶん、ずっと前から、こうなるって分かってたの」
「……えっ?」
「今日みたいなこと、起きるんじゃないかって」
僕は何も言えずに、次の言葉を待った。
「忘れっぽいとか、疲れやすいとか。最初は、よくあることだって思ってた。でも、だんだんさ……」
雨音は、シーツの端をつまんだ。
「……自分の言ったことを、自分で信じられなくなるの。忘れちゃうから。覚えてるはずなのに、不安で。合ってるか不安だから、何回も確かめたくなって」
あぁ、と、胸の奥で何かが繋がる。
ペンを探していた時の顔の答えがわかった。
「何か、隠してたの?」
「うん。ちょっとだけ、厄介な病気」
その言い方が、あまりにも軽くて。だから余計に、僕には重いよ。
「……なんで。なんで、言わなかったの?」
責めるつもりじゃなかったのに。声は、勝手に低くなっていた。雨音は、すぐに答えなかった。天井を見つめたまま、しばらく黙ってから、やっぱり笑った。
「言ったらさーー」
「……っ」
「遥斗くん、優しいから。変に気を遣うでしょ。無理させないように、とか。忘れてもいいよ、とか。……それって、すごく、やさしいけどさ……」
琥珀色の瞳から、涙があふれる。
「それ以上に、怖いの。今までと、同じでいられなくなるのがね」
胸が、ぎゅっと締まる。
「だから、言えなくて、ごめんね」
この「ごめんね」は、文化祭を台無しにしたことへの謝罪じゃない。さっき倒れたことでも、僕に心配をかけたことでもない。もっと深くて、悲しい色をした言葉だった。
僕は、息を吸う。ゆっくり、吐く。どうにかして、気持ちを落ち着かせようと焦っている。
「……雨音さん」
僕が名前を呼ぶと、彼女は少しだけ目を伏せた。
「さっきさ……手紙の回廊で、僕に聞いたよね。大切な人を失いたくないって思ったことあるか? って」
「あれは……」
言葉が、喉の奥で一度つっかえる。そのまま、飲み込むこともできる。だけど、ここで濁したら、きっと一生後悔すると思った。
「もう手遅れだよ」
雨音が、ゆっくり僕を見た。
「失いたくない人がいるんだ」
はっきり言葉にした瞬間、目頭が熱くなる。胸は痛いのに、不思議と心は軽かった。
「僕は、きみのことが好きだ」
逃げなかった。真っ直ぐに、彼女に伝えたかった。
「忘れるかもしれないとか、病気とか、不安とか……全部僕が──」
雨音の唇が、小さく震える。
「……ずるいよ」
掠れた声で。
「そんな言い方されたら……」
「それでも言うよ」
僕は被せるように、続けた。
「きみが、好きにならないでって思ってても。俺は、勝手に好きになる」
彼女は黙ったまま。カチカチと、時計の音だけが、響いている。僕の心臓と共鳴してうるさい。
「馬鹿だな……」
涙をこぼしながら、彼女は小さく笑う。
「私、好きになってほしかったのに。君に好きにならないでほしくて……ごめんね、遥斗くん」
それから、雨音は大好きな玩具を取り上げられた子供みたいに泣きじゃくった。
僕は壊れてしまいそうな君を、抱きしめることも、支えてあげることもできずに、その場に立ち尽くすことしか、できなかったんだ。
手紙の回廊の一番端。
真っ白い封筒に、涙の色みたいな青い封蝋。
【水瀬遥斗くんへ】
僕はそっとクリップから外して、ポケットにしまう。
君の気持ちを、ちゃんと受け止めたかったんだ。
「──でさ、文藝部はどうすんの?」
古びた机に肘をつきながら、慎也が張り切った声をあげる。
「どう、って……いつも通り、部誌をだすくらいしか」
僕がそう答えると、向かい側に座っていた美優が、ぺらりと去年の部誌をめくった。
「部誌ってこれだよね。……内容はいいんだけど、ちょっと地味だよねぇ。クラスの出し物に負けちゃうっていうか」
この部に、派手さを求められても困るんだけど。
美優は、パンッ、と部誌の表紙を叩いた。
「どうせやるなら、目立ちたいよ。派手に! ね、部長?」
いきなり話を振られて、小説を書いていたペンの先端がノートの上で止まる。部長、という呼び名にはまだ慣れない。雑に押しつけられた役職のくせに、こういう時だけ妙に肩に乗っかってくる。
「派手に、ね……」
曖昧に返すと、僕の斜め隣から、勢いよく手が挙がった。
「はーい!!」
雨音が、椅子から半分飛び出しながら、ぴょんと手を伸ばしていた。
「はい。……八雲さん。授業じゃないから、そんなに元気よく挙手しなくても」
「ノリは大事だよ、ノリは!」
雨音は、くるっと僕の方へ身体を向ける。
「アイデアがあります!」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
「今年の部誌の主役は、水瀬くんの新作小説!」
「却下!!」
反射的に言ってしまったが、即答されたのがよほどショックだったのか、雨音は「ひどっ」と胸を押さえている。
「なんで!? 新作小説ちゃんと書くって言ってたじゃん!」
「書くとは言ったけど、部誌に載せるとは言ってない」
「ちっちゃい男だなぁ、水瀬……」
慎也まで便乗するとは思わなかった。
「じゃぁ、何を載せるつもりだったんだよ?」
「歴代の……先輩の、傑作選的な」
慎也は昔の部誌をペラペラと捲って、苦い顔をする。
「これか? 文字で真っ黒じゃん。古文書みたいだな」
「ぜんぜん映えないしーー」
「それなら、俺も水瀬の書いた新作の方がいいぞ」
「私もそう思う」
文藝部にいるなら、ちょっとは先輩を敬えよ。素晴らしい作品ばかりなのに。ほんと、こういう時だけ慎也と美優の結束力は強い。
「いや、だって……ほら。僕のなんかより、せっかく文藝部に入ったんだから、みんなも何か書いてみようよ。四人それぞれの短編とか……」
「それはそれとして、だよ!」
雨音は、僕の言葉を遮って、ずいっと顔を近づけてくる。
近い。僕は思わず椅子を引いた。
「文化祭って、普段この教室に来ない人もたくさん来るでしょ? 文藝部の部誌を手に取ってもらうならさ、今、ここにしかないものが必要だと思うんだよね」
「ここにしかないもの?」
「文藝部長の新作。水瀬くんの小説って、部誌でしか読めないじゃん。ネットに上げてるわけでもないし」
「それは……まぁ」
やばい、雨音の目が漫画のヒロインみたいに輝き出してる。止まらなくなるぞ。
「“文藝部部長・水瀬遥人書き下ろし”って帯に書いたらさ、ちょっとカッコよくない?」
「帯なんてつけるの!?」
「それめっちゃいい! つけようよ! それっぽくなるし!」
雨音に煽られているうちに、美優までも頷き出した。雨音は人を惹きつけるカリスマ性がある。本当に根っからのヒロインタイプだ。
「でしょ!? ポスターにも書けるし。今年だけの特別小説収録! みたいな。ねぇ慎也くん、そういうの、男子は惹かれない?」
「お、おう。なんか、限定ってつくと、つい手出したくなるよな。ガチャとか」
慎也の例えは、あんまりよくないけど。でも、確かに限定とか、今だけ、とかいう言葉は人を動かす。
「だったら、決まりだね!」
雨音はパチンと手を叩いて、一方的に議題を締めた。
「ちょっと待って。僕の意見は?」
「えーっと、賛成が三人! 過半数で採用済みです!」
笑顔と一緒に、強引な一言が飛んでくる。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「いや、でも……」
言い訳の言葉を探していると、雨音が少しだけ真面目な顔になった。さっきまでの悪戯っぽさが、すっと沈む。
「私、水瀬くんの小説、好きだよ」
不意に直球を投げ込まれて、視線が泳ぐ。その不意打ちは反則だ。
「私、あのノートの小説、何回も読んでた。勇気を貰ったんだ。……だから、私だけじゃなくて、もっといろんな人に読んでほしいなって思うの」
そう言われてしまうと、もう逃げ場がない。僕は、手の中のシャープペンを握りなおす。
「……分かったよ。書く。ちゃんと」
「やったーー!」
雨音は、椅子の上で小さくガッツポーズをした。
釣られて美優もパチパチと手を叩く。
「沢山宣伝しなきゃね! 水瀬部長の新作書き下ろし!」
「やめてくれ……プレッシャーで書けなくなる気がしてきた」
「大丈夫大丈夫! プレッシャーは才能の燃料だよ」
どこのポジティブ思考本の言葉だ?
雨音は、もう一つ思い出したように、手を挙げた。
「はい!! もうひとつ、やりたい企画があるんだけど」
「まだ増やすの?」
「うん。わたし達の文藝部らしさを出すためにね……生徒からの手紙を募集して、部誌に掲載するってどう?」
「手紙か……」
確かに僕らの文藝部は手紙からスタートした。アイデアとしては面白いかも。
「そう! 恋愛相談でも、友達への感謝でも、家族への愚痴でも、なんでもいいの。手書きの手紙を募集してさ、文藝部でいくつか選んで掲載するの。匿名でも、ペンネームでも、なんでもあり!」
美優が、珍しく身を乗り出した。
「それ、面白そう。読んでるだけで、めっちゃエモそうじゃない?」
「だよね。文化祭ってさ、なんとなく、特別な日って感じがするから。そういう日に勇気出して書いた手紙って、その人にとって一生モノになるかもしれないし」
雨音の目が、きらきらしている。彼女は、きっと青春の真ん中を全力で走ってきた人なんだろう。ただの面白がりで言ってるんじゃなくて、本気でそう信じている人の目だ。
「……でも、その手紙って、相手に届かないよね」
僕が、ふと現実的なことを言ってしまうと、雨音は「んー」と首を傾げた。
「それは、そうだけどさ。言葉ってさ、届き方がひとつじゃないと思うんだよね」
「どういうこと?」
「直接届かなくてもさ。誰かに読まれるってだけで、ちょっと救われたりすることもあると思う。ほら、手紙って、出す前に自分で読み返すでしょ? そのときに、ちょっと気持ちが整理されたりするじゃん」
妙に納得してしまう。さっきから、何度も無意識に頷いてるし。
「だから、文藝部は、そんな届かないかもしれない手紙の行き先になってもいいんじゃないかなって」
「じゃあ……部誌のテーマは、“手紙”ってことか?」
僕が確認すると、雨音は嬉しそうに頷いた。
「うん! あっ、水瀬くんの新作も、手紙が関係する話にしたらどう?」
「さらっとハードルを上げないでくれる?」
とは言いつつも、内心、助かったとも思っている。
「無茶ぶりすぎた?」と舌を出す彼女に「……いいよ。テーマが手紙なら、書きやすいかもしれない」と伝える。本当はモチーフに悩んで筆が止まってたなんて言えないけど。
「やった!」
雨音は、また手をぱちんと合わせた。
「美優も慎也くんも書くんだからね? 小説書けない組は手紙で参加します」
美優が、腕を組んで考え込む。
「また手紙か……。じゃあ、私は、未来の自分宛てにしようかな」
「俺、どうしよう……」
慎也は、天井を見上げながら唸った。
「ラブレター書いちまえば? 実在の相手に」
僕が軽口で返すと、彼は「やめろ」と耳まで赤くした。分かりやすいな。そういえば、あの遠足の日、海で告白できなかったと聞いている。
「私はねーー、美優ちゃんに書こうかな!?」
「おかわりは要らないよ。この前ので充分伝わりました」
「ふふっ。まだまだ、私の愛は地球より重いよ?」
そうやって笑い合っているうちに、部室の空気が少しずつ温度を上げていく。
文化祭の準備か……縁がなかったイベントに、どこか浮き足立つものがあるな。
それから数日、放課後の部室はすっかり編集部になった。
「このフォント、なんか芋っぽくない?」
「芋ってなに。フォントに芋っぽいとかあるの」
「あるよーー。なんか真面目すぎるっていうか……市役所の配布物感がすごいんだもん」
プリントアウトした試し刷りを前に、美優が唇を尖らせる。
部誌のタイトルロゴをどうするかで、もう三十分は揉めていた。
「美優ちゃん、こっちの、ちょっと丸いやつは? かわいいよ?」
雨音が、別パターンのフォントを指差す。
丸みを帯びたシンプルな字。たしかに、さっきのより柔らかい。
「あ、可愛い !部長はどう思う?」
「丸いほうが、確かにしっくりくるかも。堅すぎると、国語の教科書みたいになりそうだし」
「それは嫌だ!」
三人の意見が珍しく揃った。
「じゃあ、フォントはこれで決定。水瀬くん、新作のタイトル、決まりそう?」
雨音にそう聞かれて、僕はノートのページをめくった。白紙の多さが胃に悪い。
「仮タイトルなら、“星屑のポストに手紙を出す”ってやつがあるけど……」
「なにそれ、気になるタイトル! いいよ!!」
雨音が、僕のノートを覗き込む。勢いのあまり、テーブルに身体をぶつけて、ペンが一本、転がり落ちる。
「本当に?」
「うん。星屑ポストって、なに? どこにあるの? って、そこでまずワクワクするし」
「俺もそれ好きだな。なんかエモそう、だよな美優」
慎也が、さっきからよく分かってないくせに、ノリだけで同意する。
「じゃあ、その方向で書いてみる。内容がタイトル負けしないように、頑張るよ」
「部長なら大丈夫だよ。だって部長だもん」
美優からも理屈になってない励ましをもらいつつ、僕はシャープペンを握り直した。
「じゃ、私はポスター係を進めちゃうね」
雨音は、机の上に色とりどりのマーカーを広げる。
「“恋文大歓迎”って、書いていいかな? 友情・家族愛・片思い・失恋オールジャンルOK! っどう?」
「なんかカオスだな……ほどほどにしろよ?」
雨音は、くすくす笑いながら、ポスターの端っこに小さな封筒のイラストを描きはじめた。
宛名のところには、“だれか”って書いてある。
「部長、キャッチコピー案出して」
雨音と一緒に作業していた美優からの無茶ぶりだ。
「僕、執筆で忙しいんだけど。いきなり高度なことを要求してこないで」
「だって文字のプロでしょ?」
「プロじゃない。ただの高校生です」
そう突っ込みながらも、頭の中で言葉を探す。
──届かないから、書ける言葉がある。
──言えないから、紙に落とす想いがある。
ノートの隅に、いくつかフレーズを書き出してみる。
雨音が言ってたことも良かったな──。
隣から、じっと覗き込む視線がした。
「うわ、なにこれ。どれもいい」
やっぱり雨音だった。薄琥珀色の目を輝かせる。
「えっとね、私的には――、これだ!」
彼女はペン先で、ひとつのフレーズをちょん、と指した。
『言えなかった言葉、文藝部で預かります』
「これ、好きーー!」
「雨音さんが言ってただろ? 文藝部は言葉の行き着く先だって。だから預かるだけ。勝手に届けたりはしない」
「じゃあ、そのコピー、ポスターに使おうかな」
雨音は、ポスターの中央に大きく、カラーペンでその言葉を書き込んでいく。字は丸くて、少し幼い。けれど不思議と引き込まれる文字だ。
僕はその横で、ノートの白紙を埋めることに集中した。
シャープペンが走る音と、窓の外の部活の掛け声。時々、雨音の鼻歌。それら全部が、混ざり合っていく。
「ねぇ、遥斗くん 」
ふと、不意に名前を呼ばれた。
「えっ?」
「このポスター、もうちょっとだけエモさ増してもいい?」
「……エモさって、どれくらいの単位で測るの?」
彼女は得意のあざとい顔で、顎に指を添えて考える。
「そうだなーー。胸がきゅんってする量で!」
「そんな定量化しづらい単位、聞いたことないよ」
「あるよ? 私の中ではちゃんとあるんだもん」
そう言いながら、雨音はポスターの余白に、小さく一文を書き足した。
僕には予想できなかった。雨音と美優のいう、エモさ増し増しの募集ポスターを掲示してから数日で、想像以上の反応があったらしい。
「見て!!」
部室の扉を開けるなり、雨音は持ってきた段ボール箱を机の上にドン、と置いた。中身がざりざりと音を立てる。
「おい、雑に扱うなよ」
「大丈夫、壊れ物じゃないから」
いや、みんなの大切な思いなんじゃないのかよ! と、心の中で軽快につっこむ。
箱の中には、色とりどりの封筒がぎっしり詰まっていた。
白に、ピンクに、便箋をそのまま折りたたんだやつ。
シンプルなコピー用紙に、シールでデコレーションされた凝った封筒まで。
「こんなに来たの?」
美優が目を丸くする。
「うん。職員室の前の投函ボックス、もう一箱分あるよ。さっき顧問の先生に早く取りに来てくれって怒られて」
「怒られたのかよ……」
慎也が苦笑いした。
「だってさ、こんなに集まると思わなかったんだもん」
雨音は、うれしそうに肩をすくめる。
「見て、“宛先:未来の自分へ”とか、“宛先:今は言えないあなたへ”とか。“宛先:お父さん、お母さん”とか」
封筒の表面を見て回るだけでも、胸の奥がざわざわする。くすぐったい様な。どれも僕には知らない誰かの日常で、けれど、どこかで見たことがあるような言葉たちだ。
「これ、全部読んで選ぶの?」
「うん。文化祭までに、これは載せたいってやつをいくつか選ぼう! 名前が書いてあるやつは、ちゃんと許可もらってから」
美優が、ひとつの封筒を手に取った。
「“宛先:親友”……。あ、裏に“掲載可”って書いてある」
「大切な手紙も混ざってるから、そこは慎重に扱わないと」
さっき、ダンボールを雑に置いたのに!? と、言いたかったけど我慢した。
雨音は、いつになく真剣な顔で、封筒を並べ替えていく。
保留、要許可、掲載不可、掲載候補……色付きの付箋で、分類のラベルを貼っていく。
「こういうの、段取り良すぎない?」
僕の呟きに、彼女はちょっと得意げに胸を張った。
「こう見えても、私、文藝部編集長だからね!」
「いつから編集長になったの?」
「今。一番やる気あるから、自動的に」
適当な役職が、またひとつ増えた。
「水瀬先生はとりあえず、自分の新作進めて。締切、来週中だよ?」
「……編集長、締切の圧がすごいです」
「文藝部編集長をなめるな!!」
そんなわけの分からない会話を交わしながらも、雨音の指先は、一通一通、封筒の端を丁寧に撫でるように動いていた。
手紙の選考作業は、想像以上に体力を使った。
「……しんど」
三通目を読み終えたあたりで、僕は椅子の背にもたれた。語彙力のない感想しか出てこない。
「水瀬、お前部長だろ。語彙、どこ置いてきた?」
「今、さっき読んだ人に全部持っていかれた気がする」
「俺もだ……」
慎也と肩を並べて話している横で、美優も、一枚目の途中でもう泣いていた。
「これ……ずるくない? 高校生でこんな手紙書く!?」
「いや、高校生だから、かもよ。大人になると、こういうの、恥ずかしくて書けなくなるから」
雨音編集長も、ティッシュ箱を真ん中に置きながら、淡々と選考作業を続けている。彼女の目も少し赤い。
「雨音は、平気?」
「平気じゃないけど、平気なふりは得意」
「泣くよねーー?」
「でも、なんか……うれしいよね」
封筒の束の上にそっと手を置きながら、雨音が呟いた。
「こんなにたくさんの言葉が、この学校のどこかで眠ってたんだなーって。それが今日、ここに届いたんだよ? すごくない?」
「言い方が編集長だな」
「……あれ?」
彼女は、自分の手の甲をじっと見つめる。
「さっき、どこかにペン置いた気がするんだけど……。あれ、どこだっけ?」
「ペン? いつの話?」
「さっき仕分けしてる時、メモするのにキャップ外して……。あれ? でも、そのあとちゃんとキャップ閉めた気もするし……メモってどれだっけ?」
眉間に皺が寄る。彼女の顔に、見慣れない困惑が浮かぶ。
「よくあるでしょ、それくらい」
僕は軽く笑ってみせた。
「僕だって、さっきノートどこ置いたか忘れて焦ったし」
「そっか。……そうだよね」
雨音は、自分で自分を納得させるように、小さく頷いた。
その仕草が、どこかぎこちない。
「それ、違う? 落ちてるやつ。ピンク色の」
彼女がいつも使っているペンが床に転がっている。
「……これ、だっけ」
ペンを拾おうとした雨音の指先が、ほんの少しだけ震えているのが見えた気がした。だけど彼女は、すぐにいつもの笑顔を貼り付けた。
「よーし、みんな! 続き頑張りますか!」
その声だけ聞いていれば、何も変わっていないように思える。だから僕も、深く聞かないことにした。
きっと彼女も疲れてるんだろうな。
そういうことにしておいた。
文化祭一週間前。
部誌の本文データも出揃って、あとは印刷と製本を残すのみ、というタイミングだった。
「ちょっと、事件です」
雨音が、プリントアウトされた原稿を抱えて部室に飛び込んできた。
「なに、その物騒な入りは」
「いや、事件じゃなくて……嬉しい悲鳴? でも事件!」
「どっちだよ」
「ページが足りない!」
机の上にばさっと原稿が広げられる。
部誌に掲載することになった手紙たちと、僕の新作。予定していたページ数を既に超えている。
「あー……確かに。予定より増えてるね」
美優が、ページ番号を確認しながら唸った。
「これじゃ、予算足りないかも。印刷費が……」
現実的な問題が首をもたげる。
「どうする? 削る?」
「削りたくない……」
雨音が、即座に首を振る。
「だって、真剣に選んで決めた手紙たちだよ。どれか削るって、すごく難しくない?」
その気持ちは分かる。
一通一通、僕らは、誰かの届かない言葉を預かることにしたのだから。
「じゃあ、ページ数を増やすか、部数を減らすか、だね」
「水瀬くん、どっちが現実的?」
「うーん……」
電卓アプリを開いて、慎也が計算を始めた。
「ページ増やして、部数もこのままいくと……予算オーバーどころか、赤字だな」
「部数減らすのは?」
「それなら、ギリいけそうだけど……」
慎也は電卓に並んだ数字を見せてくる。
「文化祭当日、即売り切れちゃうかもしれないぜ?」
「それはそれで、ちょっと嬉しいけど……」
雨音は困ったように笑う。
「でも、手紙を預かった以上、部誌を手に取れなかった人がいたら、ちょっと申し訳ないかも」
「じゃあ、やっぱりページ削るしか……」
雨音は、ふるふると首を振った。
「だめ! 部誌の形は変えないで……展示もやろう」
「展示? 今から?」
「うん。選考から漏れちゃった手紙も一緒に、教室に展示しようよ。壁に貼ったり、紐に吊るしたりして。文化祭の日限定で、“手紙の回廊”みたいにするの」
「それ、めっちゃいいじゃん!!」
美優が、ぱっと顔を明るくする。
「部誌に載るのはごく一部だけど、ここに来てくれた人はもっと読める、みたいな」
「そうそう。で、部誌を買ってくれた人には、封筒一通プレゼント、とか。その場で書いて、回廊に吊るしてもいい」
「告白に使うやつもいたりして」
慎也が笑う。
「みんな。ただでさえ疲れてるのに、作業増やして平気?」
たまには部長らしい発言もしておかないと。雨音も美優も目の下にしっかりクマを作っているから。慎也だけは平常運転。さすがだ。
「大丈夫、仕分けはきちっとしてあるし、掲載可の手紙だけだから、そんなに大変じゃないよ」
そこまで考えた上での提案だったらしい。さすが、自称編集長だ。
「じゃあ、印刷する手紙は減らして、展示で補う。いい?」
僕がそうまとめると、雨音はほっと息を吐いた。
「ありがと。削る、って選択肢、あんまり好きじゃなくて」
「知ってる。だって、なんでも全部盛りにしたがるから。もしかしてラーメンも?」
「もちろん、大盛りで! 全部、大事なんだもん」
雨音には、きっと大事なものが多すぎて、手放すのが苦手なんじゃないか、と思う。
「……じゃあ、展示のレイアウト考える係、編集長に任せるけど、いい?」
「任された!」
彼女は、早速スケッチブックを取り出した。
部室の平面図を描いて、どこに紐を張るか、どこに吊るすか。小さな封筒たちが、部屋の中をひらひらと舞う様子を想像しながら、空中でペンを振るう。
その横顔に、僕はしばらく見蕩れていた。
出来上がった僕らの部誌を見て、やっぱり彼女の目は星屑を散りばめたように輝いている。
「ちゃんと、本になってる」
「当たり前だよ」
そう返しながらも、僕の胸も少し熱くなる。去年は先輩がいたから、僕はおんぶにだっこだった。
今年は思い入れが違う。
白黒の活字が並んだページ。
見慣れた自分の文字が、印刷インクに変わっている。
テキストファイルの画面で見ていたそれとは、まるで別物みたいだった。
「水瀬くんの“星屑ポスト”も、ちゃんと載ってるよ」
雨音は、僕の小説が載ったページを開いてみせる。
タイトルの上に、ちょっとだけ誇らしげな特別収録の文字。
「うわ……変な感じ」
「嬉しい、の変な感じでしょ?」
「まぁ、そうかも」
「ねぇ、読んでいい?」
恥ずかしくて、つい頭を搔く。
「校了済みだし、今さら直せないし、いいよ」
「そういうこと聞いてないんだけど」
「いや、編集長相手だし」
彼女の視線が、僕の返事を催促する。
「僕のファン第一号なんだろ……最初にどうぞ」
許可すると、雨音はその場で立ち読みし始めた。
一人だけ違う世界にいるみたいな顔で行間を追っている。
ページをめくる音だけが、やけに大きく聞こえる。
僕は、落ち着かなくて、不備がないか確認する作業に没頭した、ふりをした。
気になって仕方ない。
しばらくして「……ふふっ」と、小さく笑う声がした。
「なにがおかしいの? 笑うとこあった?」
「いや、おかしくない。……なんか、好きだなぁって」
顔を上げると、雨音は本当に嬉しそうに笑っていた。いや、笑いながら、涙を溜めているようにも見える。
「“星屑のポスト”ってさ、やっぱりちょっと空に近いとこにあるんだね」
物語の内容を思い返して、僕も少し笑う。
「うん、そういうイメージで書いたからね」
「届かない手紙を受け取ってくれる場所っていうのがさ。……ほんと、私たちの文化祭にぴったり」
「狙って書いたから」
「あ、ちゃんと自覚あるんだ」
「うん。そこは否定しない」
雨音は、もう一度ページを閉じて、表紙を撫でた。
「この部誌さ。誰がどの手紙を書いたか分かんなくてもいいけど……。ちゃんと誰かが受け取ったってことだけは、書いた人に届けばいいな」
その言葉が、どこか自分自身に向けた祈りにも聞こえた。
「届くよ、きっと」
僕は思わず、そう返していた。本心だった。
「だってほら。僕の書いたものだって、誰かひとりに届けばいいと思って書いてたけど。勝手に拾って、勝手に読んで、勝手に好きだって言ってくれる人がいたりするじゃん」
「それ、ディスってる?」
「誉めてる。たぶん」
「たぶんってなに!?」
雨音はぷくっと頬を膨らませたけど、すぐに笑い顔に変わった。
焼きそばソースの匂いと、遠くで鳴る吹奏楽のチューニングの音、それから、楽しそうな生徒の声。ごちゃごちゃと混ざり合った音と匂いの中を、僕は段ボール箱を抱えて歩いていた。
文藝部の部誌がぎっしり詰まった箱は、想像していたよりずっと重い。
でも、その重さは嫌いじゃなかった。印刷屋から受け取った瞬間、インクの匂いと一緒に、「本当に本になったんだ」という実感がどさっと肩に乗っかった気がしたから。
三階の端っこ。僕らの部室がある棟の、いつもは通り静かなはずの廊下に、今日は人の気配があった。
文藝部の部室の前に、小さな列ができている。制服だけじゃなくて、クラスTシャツや私服の人も混ざっていて、ちょっとした縁日の入口みたいだ。
「いらっしゃいませ! 文藝部の展示こっちでーーす!」
その列の先で、ひときわ大きな声が響いた。声の主は、もちろん八雲雨音。
今日は白いニットに、紺のチェックのスカート。制服より少しラフなのに、ちゃんと「特別な日」の服装に見える。いつもより高い位置で結んだポニーテールが、呼び込みのたびに、ぴょんと跳ねた。
胸元には、手作りの名札がぶら下がっている。【文藝部編集長】と、マジックで大きく書いてあった。
彼女を中心に、廊下の空気は、外の太陽より明るくなっている気がした。
「……張り切ってるな」
前に並んでいた一年生らしき女子達が、文藝部のポスターを指さしている。
「このポスター、誰が描いたのかな? 可愛いよね」
「描いたのは、あそこにいる変な編集長だよ」
僕がこっそり教えると、女の子は「編集長……!」と小さく感嘆の声を漏らした。雨音の肩書きが、勝手に校内で独り歩きしているのが目に浮かぶ。
僕が段ボールを抱えたまま近づいていくと、雨音がぱっと顔を上げた。
「あっ、水瀬先生だ!」
「……先生はやめて! ほら、変な目で見られてる」
人ごみの中でも、真っ先に僕を見つける。
呼び込みでかすれかけていた声が、僕の名前を呼ぶときだけ、ほんの少し柔らかくなるのが分かる。
「じゃあ、部長! ご出勤おそいですよ? 編集長は朝イチからフル稼働なんですけど?」
「印刷屋に寄ってたんだよ。これ、最後の部誌」
段ボールを持ち上げて見せると、雨音は親指を突き立てる。
「はーい! あ、みなさん、ちょっとだけ入口あけてくださーーい! 文藝部の部長が通ります!」
不規則な謎の拍手に包まれながら、僕はなんとか段ボールを教室の中へ運び込んだ。
文藝部の部室の隣。空き教室の天井から、細い麻紐が何本も渡されている。その紐から、色とりどりの封筒が吊るされていた。白に、クリーム色。桜みたいな淡いピンクと、水色。大小さまざまな封筒が、風もないのに、わずかに揺れている。
窓から光が差し込むと、光を受けた封筒の影が、床の上にやわらかく落ちる。歩くと、自分の足音よりも先に、その影だけがふわりと揺れた。まるで、教室ごと大きな水槽になったみたいだった。手紙たちが、水の中のクラゲみたいに、ゆっくりと漂っている。
「……やるじゃん、編集長!」
僕の口から思わず本音が漏れる。すごいな。僕の想像していた「手紙の展示」とは、全然違うものがそこにあった。もっと地味で、もっと文字だらけな空間をイメージしていた。これは、誰が見ても思わず立ち止まってしまうやつだ。
「でしょ?」
背後から声がして振り向くと、雨音が得意げに胸を張っていた。さっきまで廊下で呼び込みをしていたはずなのに、もう戻ってきている。瞬間移動でもしたのか。
「夢の中みたいな空間でしょ?」
「よくこの短期間でここまでやったな……」
「美優ちゃんと慎也くんが、遅くまで手伝ってくれて。新幹線みたいなスピードで」
新幹線の例えはどうかと思うけど、事実、二人にはだいぶ無理をさせた記憶がある。
「僕は小説に集中させてもらってたから……」
ひとつ、手近な封筒を手に取る。
雨音も、目の前の封筒の端を、指先でそっとつまむ。
その仕草が、驚くほど丁寧だった。いつも雑なくらい元気な人なのに、誰かの言葉に触れるときだけは、呼吸まで静かになる。
「星屑のポスト……その先の、たどり着く郵便局……。みたいなイメージなんだよ!」
「……じゃあ、空にいちばん近い郵便局だから手紙かふわふわ浮いてるのかな?」
自分でも、よく分からない比喩が口から出た。
雨音は、ぱちんと瞬きをしてから、ふふっと笑う。
「知ってるの? 急に変な事言うから」
「えっ……僕、変なこと言った?」
「ううん。別に。ただ、ロマンチックだなぁ……って」
さっきから、僕の視線は封筒と雨音の横顔を行ったり来たりしていた。眼球の動きだけで忙しい。
白いニットの袖から少し覗く手首は、細いのに、封筒を触る指先は不思議と頼もしく見えた。笑うたびに、頬のあたりの影が柔らかく揺れる。ポニーテールの毛先が、封筒に軽く触れて、楽しそうに跳ねる。その、なんでもない一連の動作の全部に、いちいち心臓が反応してしまう。うるさいくらいに、ドキドキと。
文化祭なんて、きっとずっと縁のないイベントだと思っていた。クラスTシャツを着て騒ぐタイプでもないし、ステージに立つ度胸もない。せいぜい、教室の隅で空気みたいになってやり過ごすのがお似合いだと。
なのに今、僕はこの教室の真ん中に立っている。
部誌の表紙には自分の名前が印刷されていて、その本を嬉しそうに撫でてくれる誰かがいる。
手の届かないと思っていた青春のど真ん中に、もう、片足くらいは踏み込んでしまっている気がした。
それは、全部。ぜんぶ、目の前の彼女のせいだ。
ひとつの手紙が揺れる。
【宛先:これ以上、大切な人を失いたくないわたしへ】
裏には、小さく「掲載可」とだけ書かれている。
もちろん、誰が書いたかは分からない。
それでも、その一文だけで、書いた人の胸の重さが伝わってくるようだった。
「それ、気になるの?」
隣に立った雨音が、同じ封筒を覗き込む。
「……少しね」
「私も。ね、これ、後でゆっくり読もうよ」
雨音は、貼り付けている洗濯バサミをそっとつまむと、封筒が落ちないギリギリのところまで揺らした。
「この失いたくないって気持ち。わかるんだ」
「過去に大失恋でもしたの?」
「んーー、近い! ……遥人くんは?」
「え?」
突然向けられた質問に、動揺が隠せない。ひとつ間違えば、取り返しのつかないことになりそうな緊張感。
「これ以上、大切な人を失いたくないって、思ったことある?」
あるよ。それも、現在進行形で。でも、それをどこまで言葉にしていいのか、分からない。
「……さあね」
曖昧に濁すと、雨音は「ふーん」とだけ呟いた。追及してこないところが、ありがたいけど、少し寂しい。
「じゃあさ」
雨音は、くるっと僕の前に回り込むと、少しだけ背伸びをした。
「私がいつかそう思わせてみせるね。これ以上、私を失いたくないって」
「はっ? なんで!?」
冗談めかした調子なのに、その言い方はやけに真っ直ぐだった。
「なに、その宣言」
「どう? ちょっとかっこよかった?」
「いや、怖いんだけど」
「ひどーーい」
わざとらしく肩を落としたあと、雨音はすぐにいつもの笑みを取り戻した。
「……でも、そうなれたらいいなって、わたし、ちょっと本気で思ってるよ」
そう言って笑う顔が、冗談には見えなかったから、僕はうまく視線を合わせられなくなる。
──ほんと、ずるいな。
文化祭の喧噪と、封筒の揺れる音と、その全部の真ん中で。 彼女だけが、僕の瞳に映る。
さっきの言葉だって、胸の奥の一番痛いところだけを、狙い撃ちされている気がしたんだ。
「いらっしゃいませー! 手紙の回廊、こっちでーす!」
廊下に、雨音の声が高く跳ねた。
呼び込みのたびに、ポニーテールが揺れる。
その揺れだけで、胸が勝手に反応するのが腹立たしい。
僕は段ボールから部誌を取り出して、机の上に並べた。
ダンボールの角が指に当たって、少しだけ痛い。その痛みが、今の僕の思考にはちょうどよかった。甘いことばかり考えそうになるのを、雑に止めてくれるから。
「部誌、こっちでーす。限定、早い者勝ちだよー!」
声の端が、少し擦れていた。ゴホゴホッと咳こむ。ほんの一回。笑い声の海の中に落ちた、小石みたいに。僕の耳は、しっかり拾う。
「……だいじょうぶ?」
雨音は何事もなかったみたいに、口角を上げる。喉元をさりげなく撫でて、もう一度、声を張る。……無理をしている、ってほどじゃないのか。
「雨音……」
名前を呼びかけた瞬間、横から別の手が伸びた。
「ほら、飲んで……」
美優だった。短い言葉で何かを差し出す。ペットボトルのキャップが、もう開いている。雨音も、受け取るのが自然すぎた。ありがとうも、いらないも挟まずに。ただ、ごくりと喉を鳴らして飲み込む。違和感は、そこじゃない。美優のもう片方の手が、ポーチに仕舞ったのは白いシート。それが一瞬だけ見えた。なにかの薬。僕の視線の先で、美優の指がそれを隠した。
最初からだ。美優は雨音を過剰に心配する。高校生に向けたそれじゃなく、幼い子を心配するように。美優は何かを知ってる。僕の胸の奥が、冷える。冷えたのに、鼓動は速くなる。脳が「やめろ」って言ってるのに、目だけが勝手に追ってしまう。
雨音が、僕の視線に気づいたのか、ほんの少しだけ瞬きをした。笑顔が、ひと呼吸ぶん、遅れて貼りつく。
「なに?」
言い方は、いつも通り。目だけが、いつもと違う。水面の下で足をばたつかせている人の目だ。
僕は、言葉を探した。だけど、他に思いつかない。
「……それ。体、どっか悪いの? 風邪……とか?」
少し、後ろめたさも感じる。影にあるものを、明るい文化祭の真ん中に引きずり出すみたいで。
「遥斗くん」
呼び名だけで、距離を詰めてくる。その一音で、僕の胸が簡単に折れそうになるのが悔しい。
「今はさ……」
小声だった。
僕だけに届く音量で、彼女は小さく笑う。
「今だけ、何も聞かないでこのままでいさせて、ね?」
ずるい。
頼み方まで、ずるい。
雨音は僕の返事を聞く前に、くるっと踵を返した。
「はーい! 次の方どうぞー! 封筒、触ってもいいけど、優しくねー!」
声はいつも通り弾んでいる。
けれど、その背中が、さっきより少しだけ小さく見えた。
──あの時の違和感は間違ってなかったんだ。
彼女の抱える秘密の、その病名なんて、まだ何も知らない。
「部長、私からもお願い。今日は雨音のわがまま聞いてあげてよ」
全部知ってるはずの美優が、悲しい笑顔を僕に向ける。雨音は何を隠してるんだ? って聞きそうになる気持ちを抑える。さっきの二人のやり取りは、知られてはいけないっていう、形をしていた。
そして次の瞬間。
教室にいる雨音の声が、途切れた。
ぱちん、と。
糸が切れるみたいに。
「……誰か! 部長さん!!」
誰かが名前を呼んだ。
部長? たぶん僕だ。
振り返る。
人の波が、一瞬だけ引いて、白いニットの肩が、ゆっくり沈むのが見えた。
それを「倒れた」と認識するより先に、僕の身体が動いていた。
机から部誌が崩れ落ちる。
封筒が一斉に揺れた。クラゲの群れみたいに、ゆらゆらと、逃げ場なく。
彼女の名前を呼ぼうとしても、喉が詰まる。
人の波が割れて、真ん中で彼女は横たわっている。
あまりにも綺麗に、静かに、そこにいるから。まるで、眠っているみたいで。
「八雲さん!?」
僕は、雨音のそばに膝をついた。
ポニーテールの毛先が床に触れている。
いつも跳ねていたはずの毛先が、今はただ、動かない。
「八雲さん……!」
肩に触れようとして、手が止まった。
触れたら壊れそうで。でも、触れないともっと壊れそうで。
指先が宙で迷った、その一瞬。雨音の睫毛が、ふる、と震えた。ゆっくりと目が開く。半分だけ。焦点が合わないまま、僕の方を探して、僕の顔の手前で止まる。
「……だい、じょうぶ、だから」
声は、途中でほどけた。「だいじょうぶ」の形になりそこねた言葉が、息のまま落ちる。違う。これは、大丈夫じゃない声だ。
「しゃべらなくていいから……」
僕は彼女の手を優しく握る。彼女も、力の入らない手で、ゆっくりと握り返す。
その瞬間に、美優が横から入り込んだ。
「雨音、頭、打ってない?」
「……佐伯さん」
名前を呼んでも、美優は僕を見ないまま、雨音の頬に触れて、すぐ引っ込めた。涙が出そうな顔をしているのに、声だけは冷たいくらい落ち着いている。
「慎也、保健室。走って!」
「お、おう!」
慎也は「通して!」と大声を出して、廊下の方へ走る。慎也の真剣な顔で、ただ事じゃないんだと理解した。
「……ごめんね」と、雨音が口を動かす。謝るために倒れたわけじゃないのに。謝る必要なんてないのに。
「謝らないでよ」
言い切った自分の声が、少し震えていた。
雨音は、笑おうとしたみたいだった。
口角が少し動いたけど、途中で止まって、代わりに小さな咳が出た。
ごほっ、ごほっ……。
美優が、僕の袖を掴んだ。強くないのに、痛い。
「……部長、顔、見ないであげて。あんまり見ると……外に」
言われて、初めて気づく。
教室の入口に集まった生徒の視線と、声。
「倒れた」「大丈夫?」「救急車よぶ?」
その全部が、雨音を見世物にしようとする。
僕は、身体を少しだけ斜めにして、雨音の顔が見えないように隠した。こんなことしかしてあげれない僕に、苛立ちが募った。
ベッドの上で、白いシーツに埋もれるみたいに、細い身体が沈んでいる。
「……少し、横になってて。落ち着いたら、声かけるから」
保健の先生がそう言って、しゃっとカーテンを閉める。足音が遠ざかって、扉が閉まる音がした。
ふたりきりだ。
放心状態の僕を置いて、美優と慎也は文藝部の展示に戻ってくれた。
「……ごめんね、文化祭、台無しにしちゃった、ね」
先に口を開いたのは、雨音だった。
天井を見たまま、いつもよりずっと小さい声で。さっきよりも、言葉に力は戻っている。
「……さっきも言った。気にしなくていいよ」
「うん。でも、これは……ちゃんとした、ごめんねだから」
僕は、ベッドの横の丸椅子に腰を下ろした。
「何が、ごめんねなの?」
聞いてしまった瞬間に、後悔した。
雨音は、ゆっくりと視線をこっちに向ける。その目は、さっきまでの編集長の顔じゃなくて。ただの、十七歳の女の子の目だった。
「……私ね」
雨音は一度、ゆっくりと息を吸う。
「たぶん、ずっと前から、こうなるって分かってたの」
「……えっ?」
「今日みたいなこと、起きるんじゃないかって」
僕は何も言えずに、次の言葉を待った。
「忘れっぽいとか、疲れやすいとか。最初は、よくあることだって思ってた。でも、だんだんさ……」
雨音は、シーツの端をつまんだ。
「……自分の言ったことを、自分で信じられなくなるの。忘れちゃうから。覚えてるはずなのに、不安で。合ってるか不安だから、何回も確かめたくなって」
あぁ、と、胸の奥で何かが繋がる。
ペンを探していた時の顔の答えがわかった。
「何か、隠してたの?」
「うん。ちょっとだけ、厄介な病気」
その言い方が、あまりにも軽くて。だから余計に、僕には重いよ。
「……なんで。なんで、言わなかったの?」
責めるつもりじゃなかったのに。声は、勝手に低くなっていた。雨音は、すぐに答えなかった。天井を見つめたまま、しばらく黙ってから、やっぱり笑った。
「言ったらさーー」
「……っ」
「遥斗くん、優しいから。変に気を遣うでしょ。無理させないように、とか。忘れてもいいよ、とか。……それって、すごく、やさしいけどさ……」
琥珀色の瞳から、涙があふれる。
「それ以上に、怖いの。今までと、同じでいられなくなるのがね」
胸が、ぎゅっと締まる。
「だから、言えなくて、ごめんね」
この「ごめんね」は、文化祭を台無しにしたことへの謝罪じゃない。さっき倒れたことでも、僕に心配をかけたことでもない。もっと深くて、悲しい色をした言葉だった。
僕は、息を吸う。ゆっくり、吐く。どうにかして、気持ちを落ち着かせようと焦っている。
「……雨音さん」
僕が名前を呼ぶと、彼女は少しだけ目を伏せた。
「さっきさ……手紙の回廊で、僕に聞いたよね。大切な人を失いたくないって思ったことあるか? って」
「あれは……」
言葉が、喉の奥で一度つっかえる。そのまま、飲み込むこともできる。だけど、ここで濁したら、きっと一生後悔すると思った。
「もう手遅れだよ」
雨音が、ゆっくり僕を見た。
「失いたくない人がいるんだ」
はっきり言葉にした瞬間、目頭が熱くなる。胸は痛いのに、不思議と心は軽かった。
「僕は、きみのことが好きだ」
逃げなかった。真っ直ぐに、彼女に伝えたかった。
「忘れるかもしれないとか、病気とか、不安とか……全部僕が──」
雨音の唇が、小さく震える。
「……ずるいよ」
掠れた声で。
「そんな言い方されたら……」
「それでも言うよ」
僕は被せるように、続けた。
「きみが、好きにならないでって思ってても。俺は、勝手に好きになる」
彼女は黙ったまま。カチカチと、時計の音だけが、響いている。僕の心臓と共鳴してうるさい。
「馬鹿だな……」
涙をこぼしながら、彼女は小さく笑う。
「私、好きになってほしかったのに。君に好きにならないでほしくて……ごめんね、遥斗くん」
それから、雨音は大好きな玩具を取り上げられた子供みたいに泣きじゃくった。
僕は壊れてしまいそうな君を、抱きしめることも、支えてあげることもできずに、その場に立ち尽くすことしか、できなかったんだ。
手紙の回廊の一番端。
真っ白い封筒に、涙の色みたいな青い封蝋。
【水瀬遥斗くんへ】
僕はそっとクリップから外して、ポケットにしまう。
君の気持ちを、ちゃんと受け止めたかったんだ。



