「ありがとう」と、「ごめんね」と、それから。

 目を開けた瞬間、世界が一瞬だけぐにゃりと歪んだ。
 さっきまで、潮風の匂いがしていた気がする。青くて、まぶしくて、大好きな青島の海が目の前にあったはず。遥人くんの横顔と、足に触れた白いワンピースの裾の感覚。チョコミントの、ちょっとツンとくる甘さ。記憶の隅っこに、ちゃんとある。
 「遥人くんっ……」
 なのに、鼻先をくすぐるのはインクと紙の匂いだった。

 「おかえりーー、八雲雨音さん」

 頭のすぐ上で、声がする。
 私は、机に突っ伏して眠っていたようだ。
 反射的に上を見上げる。くるくる回るシーリングファンと、アンティークランプがぶら下がっていた。木目調のテーブルの上には、封筒が二通。
 「……戻ってきたんだ」
 自分の声が、少し掠れている。
 さっきまでいたはずの海の気配は、どこにもなかった。かわりに、見渡すかぎり封筒の詰まった棚。宛先も差出人も、年代もバラバラな手紙たちが、ふわふわと棚と棚のあいだを漂っている。水槽の中を泳ぐクラゲみたいに、ゆっくりと。

 テーブルの向かい側には、少年が座っていた。蝶ネクタイに、少し大きめのベスト。今日はシャツの袖を、肘までくしゃっとまくっている。
 年齢だけ見れば、小学校高学年くらい。なのに、その目だけは全てを理解した大人みたいだ。
 「海に落ちて登場するから、ボクも焦ったよ。危険なことは控えてくださいね? 神様に怒られちゃうから。それよりも、遠足、楽しそうだったね」
 少年はマグカップを両手で包んで、にこっと笑った。危険なことは控えろ? だってドアを開けたら空に浮いていて、雲を飛び石みたいに歩けって、無理! 足を踏み外してそのまま墜ちて、怖かった。
 「……覗き見、趣味悪くない?」
 私は、きちんと椅子に座り直しながら、わざとそっけなく言う。少年は小さく肩をすくめた。
 「仕事なんだもん。だってボク、郵便局員だよ? 手紙がちゃんと届いたか見届けないと」
 「……届いたのかな?」
 「ちゃんと自分で渡したでしょ?」
 そう言って、少年は床に届いてない足を、ぶらぶらさせた。
 「で、どうだった?」
 「どうって……?」
 「水瀬遥人さんだよ。ちゃーーんと! 会いたい人に、会えたでしょ?」
 あぁ……、と私は小さく息を吐いた。
 目の前の封筒が、現実を突きつける。あと二回だけだ。遥人に伝えられるのは。
 「……楽しかったよ」
 素直にそう言うと、少年は「ふーん」と、なんだか意味ありげに目を細めた。
 「えっ、感想はそれだけーー?」
 「それだけ、ってなに? 充分でしょ?」
 「普通、ほんとに過去に戻れた! なんで? どうして? ってみんな騒ぐのに。それにさ、嬉しい。ってだけじゃない顔してるけどなぁ、雨音さん」
 彼は、カウンターの上にあったスタンプ台を手繰り寄せて、適当な封筒に、ぽんっ、と試し押しした。
 紙の上に、〈AIR MAIL〉の赤い文字と、小さな天使の羽根のようなマークが浮かぶ。その上から、もうひとつ別のスタンプを重ねる。今度は、肉眼では読めないくらい細かい時計のマーク。
 「雨音さんさ、何がいちばん胸にひっかかってるの?」
 「えっ……?」
 問いかけられて、言葉に詰まる。遥人に会えた。本当に過去に戻れた。美優にも、慎也にも会えた。ふたりはあの後、どうなったっけ? 私と遥人は、どうなったんだっけ? あれ、おかしいな、思い出せない。病気の症状のせいだろうか? 遥人にちゃんと伝えてないな……。頬を暖かい雫が流れる。
 「……ひとつに、選べない」
 私が正直に言うと、少年は「それはそれで、雨音さんらしいね」と笑った。
 「……ねぇ」
 「あれ、きみから質問くるの珍しいね」
 「『ありがとう』の手紙、本当に届いたのかな。夢じゃないよね。私、病気のせいで夢を見てる気がして……」
 少年は、少しだけ得意げな顔をした。
 「当たり前でしょ。ボクが君を過去に配達したんだよ! 失敗するはずないでしょ」
 「自分で言うんだ、それ」
 「だってさ、ここの配達員、ずっとボクが任されてるんだもん!」
 ちょっとだけ胸を張る姿が、妙に可笑しくて、少し笑ってしまう。
 「でもね」
 少年は、スタンプ台の蓋をぱたりと閉じてから、少しだけ真面目な顔になった。
 「届いたのは、手紙だけじゃないよ」
 「……どういう意味?」
 「きみの『ありがとう』が届いた分だけ、向こう側から、ひとつ分、君のなにかが薄くなる」
 きた、この話だ。最初に聞いたルール。分かっていたはずなのに、あのときは夢だと思って聞いていたから、ちゃんと実感していなかった。
 「なにかって、……なに?」
 あえて、ストレートに聞いてみる。答えを知りたくないときに限って、私の口は勝手に動いてしまう。
 少年は、空中をふわふわ漂っていた封筒に指先を伸ばした。
 ひとつ摘まんで、光にかざす。封筒の向こう側の景色が、少しだけ透けて見える。
 「記憶、とか。感情、とか。たとえば、誰かとのちいさな約束。思い出とか。いろいろ」
 「雑だなぁ」
 「世界ってね、けっこう雑にできてるんだよ。雨音さんが思っているより、ずっと」
 冗談みたいに言うけれど、その目は笑っていなかった。
 「なにか、変だなって思うこと、なかった?」
 「うーん……」
 言われてみれば──と、私は今日の朝のことを思い出す。

 家を出る前、玄関のホワイトボードを見た。
 「日曜 文藝部遠足!」って、私が書いた大きな字の下。たぶん、お母さんが書いていてくれた病院の予約時間のメモが、薄く消えかかっていた気がする。消した覚えはないのに、白いボードに灰色の跡がうすーく残っているだけだった。
 駅前で、美優と落ち合ったときもだ。
 待ち合わせの話をしたであろう、チャットのログは綺麗に消えていた。……いや、それはきっと、気のせい。たまたまアプリの不具合が。でも……胸の奥を、ひゅっと冷たい指でつままれたような感覚がした。
 「……ちょっとだけ、たぶん勘違いだけど」
 「一回目だから、まだこのくらいで済んだ。きみの存在が薄くなるって、そういうことだよ」
 「二回目は?」
 「んーもっと酷いことに……しまった、言葉選びミスった?」
 血の気が引いた私の顔を見て、少年はぺろっと舌を出しながら、冗談めかしてみせる。
 「正確に言えば、雨音さんという人の輪郭が、少しずつぼやける。きみが世界を忘れていくんじゃなくて、世界のほうがきみを忘れていく感じ」
 「……やだよ」
 正直に口から漏れていた。だって、怖いんだもん。
 せっかく、やっと手に入れた居場所だったのに。文藝部の部室で、三人とわちゃわちゃ笑っている時間。真剣な顔で小説を書いている遥人くんの、横顔を盗み見ていた時間。あの場所から、私が消えていくなんて。
 少年は、私の顔をじっと見つめた。
 「でも、勘違いしないでね、雨音さん」
 「なに」
 「それは、ボクのせいだけじゃないんだ」
 「……どういう意味?」
 少年は、カウンターの引き出しから、小さな砂時計を取り出した。中の砂は、普通の砂よりずっと明るくて、光が当たるたびに星屑みたいにきらきらする。
 「これは、雨音さんの中の記憶。綺麗だよね。でもね、こぼれやすい形をしてる」
 「……」
 胸が、きゅっと掴まれた。見ないようにしてた。
 「お医者さんが言ってたでしょ? むずかしい横文字で、なんて言ったっけな……」
 「やめて。それ、聞きたくない」
 思わず、言葉が鋭くなってしまう。
 少年は「あ、ごめん」と小さく肩をすくめる。
 「病名そのものを言うつもりはないよ。ボク、医者じゃないしね。ただ、きみの記憶は、最初からちょっとだけ特別だってこと」
 「特別って、便利な言葉だね」
 「んね。あんまり好きじゃない?」
 「うん。病気に限っては、あたり」
 即答すると、少年は口元をゆるめた。
 「でも、ほんとのことだ。きみは、なにもしてなくても、これから少しずつ、いろんなものを忘れていく運命なんだ。人の名前とか、今日食べたものとか。さっきまで読んでた本の内容とか。最後は、雨音さん自身のことも、たぶん」
 それは、知っている。
 お母さんが、いつもより小さな声で電話をしていた夜。
 「まだ十七歳なのに……」って、誰かと涙声で話していたこと。検査室の白い天井。丁寧に説明してくれた先生の口元。看護師さんの優しそうな目と、どうしようもなく悲しい現実。全部、夢じゃないと知っている。現実だった。私は、起きなければということさえ、忘れて眠り続けている。僅かばかりの人間の本能だけで、かろうじて息をしながら。
 「だからこそ、だよ」
 少年は、砂時計をくるりとひっくり返した。星屑みたいな砂が、上から下へ流れ始める。
 「きみは選ばれた。特別にね。今辞めれば、世界から忘れられることはない。だけど、もう彼に会うこともできないよ」
 「その特別は、私が好きだと思った?」
 「それは、否定しないかな」
 思わず苦笑いしてしまう。
 見透かされすぎて、馬鹿馬鹿しい。でも、嘘はついてないのだろう。少年の目が、それだけは誤魔化さないと言っている。
 「でさ……」
 少年は、くるっと椅子を回転させて、私のほうに正面から向き合った。足をぶらんぶらんさせながら、蝶ネクタイを指でつまんで整える。
 「また手紙を書くでしょ?」
 「……っ」
 来るだろうな、と思っていた質問だった。
 「だってさっきも、きみは誰かに『ごめんね』って言いかけてた」
 ドキッとした。心臓の奥にそっとしまっておいた言葉を、勝手にのぞかれたみたいで、思わず胸を手で隠す。
 「あれは、誰に向けた……ごめんね?」
 少年は、軽い調子のまま問いかけてくる。
 頭の中に浮かぶのは、いろんな顔だ。お母さん。お父さん。
 いつも心配してくれる美優。いつも私を笑わせてくれる、慎也。それから──。
 「……遥人くん」
 小さく名前を呼んだだけで、胸の奥がじん、と痛くなる。
 夜の海で、手を伸ばしてくれた人。
 文藝部に入れてくれた人。
 小説を書いてくれた人。
 大切な言葉をくれた人。
 「ありがとうって言いながら、心のどこかで、ずっと謝ってたんだと思う」
 声に出してみると、自分でも驚くくらい、するっと言葉が出てきた。
 「ごめんね、って。私、たぶん、彼のこと巻き込んでる。病気のことも、本当の意味でちゃんと話せてないし。それなのに、私のこと、好きになってくれてたらいいなって、卑怯なこと願ってる」
 少年は、なにも言わずに聞いていた。すぐ、からかうのくせに。不思議なくらい、静かに聞いている。
 「怖いんだよね」
 自分の膝を見つめながら、ぽつりと言う。
 「このまま全部忘れていくのも。なにも言わずに、いきなりいなくなるのも。どっちも、すごく嫌で。だから、ちゃんとごめんねって言っておきたいのに。彼を目の前にすると、笑ってごまかしちゃう」
 「……それで?」
 少年が、そっと促す。
 「誰に『ごめんね』の手紙を送りたいの?」
 私は、小さく頷いた。
 「うん。二通目も……遥人くんに向けた『ごめんね』になると思う」
 少年は、しばらく黙って私のことを見つめていた。
 その目の奥で、なにかを計算しているみたいに。
 やがて、小さく息を吐いた。
 少年は、カウンターの上に広げたカレンダーみたいな紙の上を、ペン先でなぞった。普通のカレンダーと違うのは、日付けがないこと。縦横に走る線が、ところどころ滲んだり、交差していたりすることだ。空白の一角に、ぽん、と丸い印をつける。
 「遠足のあとがいい? それとも君の病気が……」
 「……それは、手紙を書きながら考える」
 「了解。じゃあ、そこは後回し」
 少年はペンをくるりと回して指にはさんだ。
 「それから。さっきも言ったけど、手紙を出すたびに、きみのまわりの人たちは、きみのことをすこしずつ忘れていく。今回は前よりもうちょっとだけ、強くね」
 「わかってるよ」
 「『ありがとう』は、わりとやわらかい手紙だからさ。今回の『ごめんね』は、ちょっとばかり重い。重い言葉ほど、世界からの代償も大きいんだ」
 聞いてから、聞かなきゃよかったと、ほんの少し後悔する。
 でも、知らないふりをして踏み出すには、私はもう、あまりにも知ってしまっている。
 「それでも、書く?」
 少年は、わざと軽い口調で尋ねてくる。
 私は、深く息を吸った。
 胸の奥に溜まっていた海の匂いが、すこしだけ蘇る。
 「……言わないほうが、もっと怖いから。『ありがとう』を伝えないまま終わるのも嫌だけど。『ごめんね』を言わないで終わるのは、たぶん、もっと嫌」
 「ふーん」
 少年は、少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
 「雨音さん、だいぶ覚悟きまってきたね」
 「そんな立派なもんじゃないよ。ただの、わがままだよ。私は我儘だから」
 「わがままって、便利な言葉だねーー」
 さっきの私の台詞をさらりと返されて、思わず笑ってしまう。少年もつられて笑ってから、椅子をすべるように下りた。小さな靴音が、郵便局の床にコツコツ響く。
 「じゃあさ、雨音さん。書こうか、『ごめんね』の手紙」

 インクの線が、静かな郵便局の空気の中に、少しずつ溶けていく。
 外は見えない。でも、ここが「空にいちばん近い郵便局」だということだけは、不思議と信じられた。
 この手紙が、ちゃんと彼のもとへ届くことを願いながら。
 私は終わりに向かう準備をしているのかもしれない。
 それでも──書きたいと思ってしまった自分のことを、少しだけ好きになりたいと思いながら。