目を開けた瞬間、世界が一瞬だけぐにゃりと歪んだ。
さっきまで、潮風の匂いがしていた気がする。青くて、まぶしくて、大好きな青島の海が目の前にあったはず。遥人くんの横顔と、足に触れた白いワンピースの裾の感覚。チョコミントの、ちょっとツンとくる甘さ。記憶の隅っこに、ちゃんとある。なのに、鼻先をくすぐるのはインクと紙の匂いだった。
「おかえり、八雲雨音さん」
頭のすぐ上で、声がする。
私は、机に突っ伏して眠っていたようだ。
反射的に上を見上げる。くるくる回るシーリングファンと、アンティークランプがぶら下がっていた。木目調のテーブルの上には、封筒が二通。
「……戻ってきたんだ」
自分の声が、少し掠れている。
さっきまでいたはずの海の気配は、どこにもなかった。かわりに、見渡すかぎり封筒の詰まった棚。宛先も差出人も、年代もバラバラな手紙たちが、ふわふわと棚と棚のあいだを漂っている。水槽の中を泳ぐクラゲみたいに、ゆっくりと。
テーブルの向かい側には、少年が座っていた。蝶ネクタイに、少し大きめのベスト。今日はシャツの袖を、肘までくしゃっとまくっている。
年齢だけ見れば、小学校高学年くらい。なのに、その目だけは全てを理解した大人みたいだ。
「海に落ちて登場するから、ボクも焦ったよ。危険なことは控えてくださいね? 神様に怒られちゃうから。それよりも、遠足、楽しそうだったね」
少年はマグカップを両手で包んで、にこっと笑った。
「……覗き見、趣味悪くない?」
私は、きちんと椅子に座り直しながら、わざとそっけなく言う。少年は小さく肩をすくめた。
「仕事なんだもん。だってボク、郵便局員だよ? 手紙がちゃんと届いたか見届けないと」
「……届いたかな?」
「ちゃんと自分で渡したでしょ?」
そう言って、少年は床に届いてない足を、ぶらぶらさせた。
「で、どうだった?」
「どうって……?」
「水瀬遥斗さんだよ。会いたい人に、会えたでしょ?」
あぁ……、と私は小さく息を吐いた。
目の前の封筒が、現実を突きつける。あと二回だけだ。遥斗に伝えられるのは。
「……楽しかったよ」
素直にそう言うと、少年は「ふーん」と、なんだか意味ありげに目を細めた。
「えっ、感想はそれだけーー?」
「それだけ、ってなに? 充分でしょ?」
「普通、ほんとに過去に戻れた! なんで? どうして? ってみんな騒ぐのに。それにさ、嬉しい。ってだけじゃない顔してるけどなぁ、雨音さん」
彼は、カウンターの上にあったスタンプ台を手繰り寄せて、適当な封筒に、ぽんっ、と試し押しした。
紙の上に、〈AIR MAIL〉の赤い文字と、小さな天使の羽根のようなマークが浮かぶ。その上から、もうひとつ別のスタンプを重ねる。今度は、肉眼では読めないくらい細かい時計のマーク。
「雨音さんさ、何がいちばん胸にひっかかってるの?」
「えっ……?」
問いかけられて、言葉に詰まる。遥斗に会えた。本当に過去に戻れた。美優にも、慎也にも会えた。ふたりはあの後、どうなったっけ? 私と遥斗は、どうなったんだっけ? あれ、おかしいな、思い出せない。病気の症状のせいだろうか? 遥斗にちゃんと伝えてないな……。頬を暖かい雫が流れる。
「……ひとつに、選べない」
私が正直に言うと、少年は「それはそれで、雨音さんらしいね」と笑った。
「……ねぇ」
「あれ、きみから質問くるの珍しいね」
「『ありがとう』の手紙、ちゃんと届いたのかな。夢じゃないよね。私、病気のせいで夢を見てる気がして……」
少年は、少しだけ得意げな顔をした。
「当たり前でしょ。ボクが君を過去に配達したんだよ! 失敗するはずないでしょ」
「自分で言うんだ、それ」
「だってさ、ここの配達員、ずっとボクが任されてるんだもん!」
ちょっとだけ胸を張る姿が、妙に可笑しくて、少し笑ってしまう。
「でもね」
少年は、スタンプ台の蓋をぱたりと閉じてから、少しだけ真面目な顔になった。
「届いたのは、手紙だけじゃないよ」
「……どういう意味?」
「きみの『ありがとう』が届いた分だけ、向こう側から、ひとつ分、君のなにかが薄くなる」
きた、この話だ。最初に聞いたルール。分かっていたはずなのに、あのときは夢だと思って聞いていたから、ちゃんと実感していなかった。
「なにかって、……なに?」
あえて、ストレートに聞いてみる。答えを知りたくないときに限って、私の口は勝手に動いてしまう。
少年は、空中をふわふわ漂っていた封筒に指先を伸ばした。
ひとつ摘まんで、光にかざす。封筒の向こう側の景色が、少しだけ透けて見える。
「記憶、とか。感情、とか。たとえば、誰かとのちいさな約束。思い出とか。いろいろ」
「雑だなぁ」
「世界ってね、けっこう雑にできてるんだよ。雨音さんが思っているより、ずっと」
冗談みたいに言うけれど、その目は笑っていなかった。
「なにか、変だなって思うこと、なかった?」
「うーん……」
言われてみれば──と、私は今日の朝のことを思い出す。
家を出る前、玄関のホワイトボードを見た。
「日曜 文藝部遠足!」って、私が書いた大きな字の下。たぶん、お母さんが書いていてくれた病院の予約時間のメモが、薄く消えかかっていた気がする。消した覚えはないのに、白いボードに灰色の跡がうすーく残っているだけだった。
駅前で、美優ちゃんと落ち合ったときもだ。
待ち合わせの話をしたであろう、チャットのログは綺麗に消えていた。……いや、それはきっと、気のせい。たまたまアプリの不具合が。でも……胸の奥を、ひゅっと冷たい指でつままれたような感覚がした。
「……ちょっとだけ、たぶん勘違いだけど」
「一回目だから、まだこのくらいで済んだ。きみの存在が薄くなるって、そういうことだよ」
「二回目は?」
「んーもっと酷いことに……しまった、言葉選びミスった?」
血の気が引いた私の顔を見て、少年はぺろっと舌を出しながら、冗談めかしてみせる。
「正確に言えば、雨音さんという人の輪郭が、少しずつぼやける。きみが世界を忘れていくんじゃなくて、世界のほうがきみを忘れていく感じ」
「……やだよ」
正直に口から漏れていた。だって、怖いんだもん。
せっかく、やっと手に入れた居場所だったのに。文藝部の部室で、三人とわちゃわちゃ笑っている時間。真剣な顔で小説を書いている遥人くんの、横顔を盗み見ていた時間。あの場所から、私が消えていくなんて。
少年は、私の顔をじっと見つめた。
「でも、勘違いしないでね、雨音さん」
「なに」
「それは、ボクのせいだけじゃないんだ」
「……どういう意味?」
少年は、カウンターの引き出しから、小さな砂時計を取り出した。中の砂は、普通の砂よりずっと明るくて、光が当たるたびに星屑みたいにきらきらする。
「これは、雨音さんの中の記憶。綺麗だよね。でもね、こぼれやすい形をしてる」
「……」
胸が、きゅっと掴まれた。見ないようにしてた。
「お医者さんが言ってたでしょ? むずかしい横文字で、なんて言ったっけな……」
「やめて。それ、聞きたくない」
思わず、言葉が鋭くなってしまう。
少年は「あ、ごめん」と小さく肩をすくめる。
「病名そのものを言うつもりはないよ。ボク、医者じゃないしね。ただ、きみの記憶は、最初からちょっとだけ特別だってこと」
「特別って、便利な言葉だね」
「んね。あんまり好きじゃない?」
「うん。病気に限っては、あたり」
即答すると、少年は口元をゆるめた。
「でも、ほんとのことだ。きみは、なにもしてなくても、これから少しずつ、いろんなものを忘れていく運命なんだ。人の名前とか、今日食べたものとか。さっきまで読んでた本の内容とか。最後は、雨音さん自身のことも、たぶん」
それは、知っている。
お母さんが、いつもより小さな声で電話をしていた夜。
「まだ十七歳なのに……」って、誰かと涙声で話していたこと。検査室の白い天井。丁寧に説明してくれた先生の口元。看護師さんの優しそうな目と、どうしようもなく悲しい現実。全部、夢じゃないと知っている。現実だった。
「だからこそ、だよ」
少年は、砂時計をくるりとひっくり返した。星屑みたいな砂が、上から下へ流れ始める。
「きみは選ばれた。特別にね。今辞めれば、世界から忘れられることはない。だけど、もう彼に会うこともできないよ」
「その特別は、私が好きだと思った?」
「それは、否定しないかな」
思わず苦笑いしてしまう。
見透かされすぎて、馬鹿馬鹿しい。でも、嘘はついてないのだろう。少年の目が、それだけは誤魔化さないと言っている。
「でさ……」
少年は、くるっと椅子を回転させて、私のほうに正面から向き合った。足をぶらんぶらんさせながら、蝶ネクタイを指でつまんで整える。
「また手紙を書くでしょ?」
「……っ」
来るだろうな、と思っていた質問だった。
「だってさっきも、きみは誰かに『ごめんね』って言いかけてた」
ドキッとした。心臓の奥にそっとしまっておいた言葉を、勝手にのぞかれたみたいで、思わず胸を手で隠す。
「あれは、誰に向けた……ごめんね?」
少年は、軽い調子のまま問いかけてくる。
頭の中に浮かぶのは、いろんな顔だ。お母さん。お父さん。
いつも心配してくれる美優。いつも私を笑わせてくれる、慎也。それから──。
「……遥人くん」
小さく名前を呼んだだけで、胸の奥がじん、と痛くなる。
夜の海で、手を伸ばしてくれた人。
文藝部に入れてくれた人。
小説を書いてくれた人。
大切な言葉をくれた人。
「ありがとうって言いながら、心のどこかで、ずっと謝ってたんだと思う」
声に出してみると、自分でも驚くくらい、するっと言葉が出てきた。
「ごめんね、って。私、たぶん、彼のこと巻き込んでる。病気のことも、本当の意味でちゃんと話せてないし。それなのに、私のこと、好きになってくれてたらいいなって、卑怯なこと願ってる」
少年は、なにも言わずに聞いていた。すぐ、からかうのくせに。不思議なくらい、静かに聞いている。
「怖いんだよね」
自分の膝を見つめながら、ぽつりと言う。
「このまま全部忘れていくのも。なにも言わずに、いきなりいなくなるのも。どっちも、すごく嫌で。だから、ちゃんとごめんねって言っておきたいのに。彼を目の前にすると、笑ってごまかしちゃう」
「……それで?」
少年が、そっと促す。
「誰に『ごめんね』の手紙を送りたいの?」
私は、小さく頷いた。
「うん。二通目も……遥人くんに向けた『ごめんね』になると思う」
少年は、しばらく黙って私のことを見つめていた。
その目の奥で、なにかを計算しているみたいに。
やがて、小さく息を吐いた。
少年は、カウンターの上に広げたカレンダーみたいな紙の上を、ペン先でなぞった。普通のカレンダーと違うのは、日付けがないこと。縦横に走る線が、ところどころ滲んだり、交差していたりすることだ。空白の一角に、ぽん、と丸い印をつける。
「遠足のあとがいい? それとも君の病気が……」
「……それは、手紙を書きながら考える」
「了解。じゃあ、そこは後回し」
少年はペンをくるりと回して指にはさんだ。
「それから。さっきも言ったけど、手紙を出すたびに、きみのまわりの人たちは、きみのことをすこしずつ忘れていく。
今回は前よりもうちょっとだけ、強くね」
「わかってるよ」
「『ありがとう』は、わりとやわらかい手紙だからさ。今回の『ごめんね』は、ちょっとばかり重い。重い言葉ほど、世界からの代償も大きいんだ」
聞いてから、聞かなきゃよかったと、ほんの少し後悔する。
でも、知らないふりをして踏み出すには、私はもう、あまりにも知ってしまっている。
「それでも、書く?」
少年は、わざと軽い口調で尋ねてくる。
私は、深く息を吸った。
胸の奥に溜まっていた海の匂いが、すこしだけ蘇る。
「……言わないほうが、もっと怖いから。『ありがとう』を伝えないまま終わるのも嫌だけど。『ごめんね』を言わないで終わるのは、たぶん、もっと嫌」
「ふーん」
少年は、少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「雨音さん、だいぶ覚悟きまってきたね」
「そんな立派なもんじゃないよ。ただの、わがままだよ。私は我儘だから」
「わがままって、便利な言葉だねーー」
さっきの私の台詞をさらりと返されて、思わず笑ってしまう。少年もつられて笑ってから、椅子をすべるように下りた。小さな靴音が、郵便局の床にコツコツ響く。
「じゃあさ、雨音さん」
「なに」
「書こうか、『ごめんね』の手紙」
インクの線が、静かな郵便局の空気の中に、少しずつ溶けていく。
外は見えない。でも、ここが「空にいちばん近い郵便局」だということだけは、不思議と信じられた。
この手紙が、ちゃんと彼のもとへ届くことを願いながら。
私は終わりに向かう準備をしているのかもしれない。
それでも──書きたいと思ってしまった自分のことを、少しだけ好きになりたいと思いながら。
さっきまで、潮風の匂いがしていた気がする。青くて、まぶしくて、大好きな青島の海が目の前にあったはず。遥人くんの横顔と、足に触れた白いワンピースの裾の感覚。チョコミントの、ちょっとツンとくる甘さ。記憶の隅っこに、ちゃんとある。なのに、鼻先をくすぐるのはインクと紙の匂いだった。
「おかえり、八雲雨音さん」
頭のすぐ上で、声がする。
私は、机に突っ伏して眠っていたようだ。
反射的に上を見上げる。くるくる回るシーリングファンと、アンティークランプがぶら下がっていた。木目調のテーブルの上には、封筒が二通。
「……戻ってきたんだ」
自分の声が、少し掠れている。
さっきまでいたはずの海の気配は、どこにもなかった。かわりに、見渡すかぎり封筒の詰まった棚。宛先も差出人も、年代もバラバラな手紙たちが、ふわふわと棚と棚のあいだを漂っている。水槽の中を泳ぐクラゲみたいに、ゆっくりと。
テーブルの向かい側には、少年が座っていた。蝶ネクタイに、少し大きめのベスト。今日はシャツの袖を、肘までくしゃっとまくっている。
年齢だけ見れば、小学校高学年くらい。なのに、その目だけは全てを理解した大人みたいだ。
「海に落ちて登場するから、ボクも焦ったよ。危険なことは控えてくださいね? 神様に怒られちゃうから。それよりも、遠足、楽しそうだったね」
少年はマグカップを両手で包んで、にこっと笑った。
「……覗き見、趣味悪くない?」
私は、きちんと椅子に座り直しながら、わざとそっけなく言う。少年は小さく肩をすくめた。
「仕事なんだもん。だってボク、郵便局員だよ? 手紙がちゃんと届いたか見届けないと」
「……届いたかな?」
「ちゃんと自分で渡したでしょ?」
そう言って、少年は床に届いてない足を、ぶらぶらさせた。
「で、どうだった?」
「どうって……?」
「水瀬遥斗さんだよ。会いたい人に、会えたでしょ?」
あぁ……、と私は小さく息を吐いた。
目の前の封筒が、現実を突きつける。あと二回だけだ。遥斗に伝えられるのは。
「……楽しかったよ」
素直にそう言うと、少年は「ふーん」と、なんだか意味ありげに目を細めた。
「えっ、感想はそれだけーー?」
「それだけ、ってなに? 充分でしょ?」
「普通、ほんとに過去に戻れた! なんで? どうして? ってみんな騒ぐのに。それにさ、嬉しい。ってだけじゃない顔してるけどなぁ、雨音さん」
彼は、カウンターの上にあったスタンプ台を手繰り寄せて、適当な封筒に、ぽんっ、と試し押しした。
紙の上に、〈AIR MAIL〉の赤い文字と、小さな天使の羽根のようなマークが浮かぶ。その上から、もうひとつ別のスタンプを重ねる。今度は、肉眼では読めないくらい細かい時計のマーク。
「雨音さんさ、何がいちばん胸にひっかかってるの?」
「えっ……?」
問いかけられて、言葉に詰まる。遥斗に会えた。本当に過去に戻れた。美優にも、慎也にも会えた。ふたりはあの後、どうなったっけ? 私と遥斗は、どうなったんだっけ? あれ、おかしいな、思い出せない。病気の症状のせいだろうか? 遥斗にちゃんと伝えてないな……。頬を暖かい雫が流れる。
「……ひとつに、選べない」
私が正直に言うと、少年は「それはそれで、雨音さんらしいね」と笑った。
「……ねぇ」
「あれ、きみから質問くるの珍しいね」
「『ありがとう』の手紙、ちゃんと届いたのかな。夢じゃないよね。私、病気のせいで夢を見てる気がして……」
少年は、少しだけ得意げな顔をした。
「当たり前でしょ。ボクが君を過去に配達したんだよ! 失敗するはずないでしょ」
「自分で言うんだ、それ」
「だってさ、ここの配達員、ずっとボクが任されてるんだもん!」
ちょっとだけ胸を張る姿が、妙に可笑しくて、少し笑ってしまう。
「でもね」
少年は、スタンプ台の蓋をぱたりと閉じてから、少しだけ真面目な顔になった。
「届いたのは、手紙だけじゃないよ」
「……どういう意味?」
「きみの『ありがとう』が届いた分だけ、向こう側から、ひとつ分、君のなにかが薄くなる」
きた、この話だ。最初に聞いたルール。分かっていたはずなのに、あのときは夢だと思って聞いていたから、ちゃんと実感していなかった。
「なにかって、……なに?」
あえて、ストレートに聞いてみる。答えを知りたくないときに限って、私の口は勝手に動いてしまう。
少年は、空中をふわふわ漂っていた封筒に指先を伸ばした。
ひとつ摘まんで、光にかざす。封筒の向こう側の景色が、少しだけ透けて見える。
「記憶、とか。感情、とか。たとえば、誰かとのちいさな約束。思い出とか。いろいろ」
「雑だなぁ」
「世界ってね、けっこう雑にできてるんだよ。雨音さんが思っているより、ずっと」
冗談みたいに言うけれど、その目は笑っていなかった。
「なにか、変だなって思うこと、なかった?」
「うーん……」
言われてみれば──と、私は今日の朝のことを思い出す。
家を出る前、玄関のホワイトボードを見た。
「日曜 文藝部遠足!」って、私が書いた大きな字の下。たぶん、お母さんが書いていてくれた病院の予約時間のメモが、薄く消えかかっていた気がする。消した覚えはないのに、白いボードに灰色の跡がうすーく残っているだけだった。
駅前で、美優ちゃんと落ち合ったときもだ。
待ち合わせの話をしたであろう、チャットのログは綺麗に消えていた。……いや、それはきっと、気のせい。たまたまアプリの不具合が。でも……胸の奥を、ひゅっと冷たい指でつままれたような感覚がした。
「……ちょっとだけ、たぶん勘違いだけど」
「一回目だから、まだこのくらいで済んだ。きみの存在が薄くなるって、そういうことだよ」
「二回目は?」
「んーもっと酷いことに……しまった、言葉選びミスった?」
血の気が引いた私の顔を見て、少年はぺろっと舌を出しながら、冗談めかしてみせる。
「正確に言えば、雨音さんという人の輪郭が、少しずつぼやける。きみが世界を忘れていくんじゃなくて、世界のほうがきみを忘れていく感じ」
「……やだよ」
正直に口から漏れていた。だって、怖いんだもん。
せっかく、やっと手に入れた居場所だったのに。文藝部の部室で、三人とわちゃわちゃ笑っている時間。真剣な顔で小説を書いている遥人くんの、横顔を盗み見ていた時間。あの場所から、私が消えていくなんて。
少年は、私の顔をじっと見つめた。
「でも、勘違いしないでね、雨音さん」
「なに」
「それは、ボクのせいだけじゃないんだ」
「……どういう意味?」
少年は、カウンターの引き出しから、小さな砂時計を取り出した。中の砂は、普通の砂よりずっと明るくて、光が当たるたびに星屑みたいにきらきらする。
「これは、雨音さんの中の記憶。綺麗だよね。でもね、こぼれやすい形をしてる」
「……」
胸が、きゅっと掴まれた。見ないようにしてた。
「お医者さんが言ってたでしょ? むずかしい横文字で、なんて言ったっけな……」
「やめて。それ、聞きたくない」
思わず、言葉が鋭くなってしまう。
少年は「あ、ごめん」と小さく肩をすくめる。
「病名そのものを言うつもりはないよ。ボク、医者じゃないしね。ただ、きみの記憶は、最初からちょっとだけ特別だってこと」
「特別って、便利な言葉だね」
「んね。あんまり好きじゃない?」
「うん。病気に限っては、あたり」
即答すると、少年は口元をゆるめた。
「でも、ほんとのことだ。きみは、なにもしてなくても、これから少しずつ、いろんなものを忘れていく運命なんだ。人の名前とか、今日食べたものとか。さっきまで読んでた本の内容とか。最後は、雨音さん自身のことも、たぶん」
それは、知っている。
お母さんが、いつもより小さな声で電話をしていた夜。
「まだ十七歳なのに……」って、誰かと涙声で話していたこと。検査室の白い天井。丁寧に説明してくれた先生の口元。看護師さんの優しそうな目と、どうしようもなく悲しい現実。全部、夢じゃないと知っている。現実だった。
「だからこそ、だよ」
少年は、砂時計をくるりとひっくり返した。星屑みたいな砂が、上から下へ流れ始める。
「きみは選ばれた。特別にね。今辞めれば、世界から忘れられることはない。だけど、もう彼に会うこともできないよ」
「その特別は、私が好きだと思った?」
「それは、否定しないかな」
思わず苦笑いしてしまう。
見透かされすぎて、馬鹿馬鹿しい。でも、嘘はついてないのだろう。少年の目が、それだけは誤魔化さないと言っている。
「でさ……」
少年は、くるっと椅子を回転させて、私のほうに正面から向き合った。足をぶらんぶらんさせながら、蝶ネクタイを指でつまんで整える。
「また手紙を書くでしょ?」
「……っ」
来るだろうな、と思っていた質問だった。
「だってさっきも、きみは誰かに『ごめんね』って言いかけてた」
ドキッとした。心臓の奥にそっとしまっておいた言葉を、勝手にのぞかれたみたいで、思わず胸を手で隠す。
「あれは、誰に向けた……ごめんね?」
少年は、軽い調子のまま問いかけてくる。
頭の中に浮かぶのは、いろんな顔だ。お母さん。お父さん。
いつも心配してくれる美優。いつも私を笑わせてくれる、慎也。それから──。
「……遥人くん」
小さく名前を呼んだだけで、胸の奥がじん、と痛くなる。
夜の海で、手を伸ばしてくれた人。
文藝部に入れてくれた人。
小説を書いてくれた人。
大切な言葉をくれた人。
「ありがとうって言いながら、心のどこかで、ずっと謝ってたんだと思う」
声に出してみると、自分でも驚くくらい、するっと言葉が出てきた。
「ごめんね、って。私、たぶん、彼のこと巻き込んでる。病気のことも、本当の意味でちゃんと話せてないし。それなのに、私のこと、好きになってくれてたらいいなって、卑怯なこと願ってる」
少年は、なにも言わずに聞いていた。すぐ、からかうのくせに。不思議なくらい、静かに聞いている。
「怖いんだよね」
自分の膝を見つめながら、ぽつりと言う。
「このまま全部忘れていくのも。なにも言わずに、いきなりいなくなるのも。どっちも、すごく嫌で。だから、ちゃんとごめんねって言っておきたいのに。彼を目の前にすると、笑ってごまかしちゃう」
「……それで?」
少年が、そっと促す。
「誰に『ごめんね』の手紙を送りたいの?」
私は、小さく頷いた。
「うん。二通目も……遥人くんに向けた『ごめんね』になると思う」
少年は、しばらく黙って私のことを見つめていた。
その目の奥で、なにかを計算しているみたいに。
やがて、小さく息を吐いた。
少年は、カウンターの上に広げたカレンダーみたいな紙の上を、ペン先でなぞった。普通のカレンダーと違うのは、日付けがないこと。縦横に走る線が、ところどころ滲んだり、交差していたりすることだ。空白の一角に、ぽん、と丸い印をつける。
「遠足のあとがいい? それとも君の病気が……」
「……それは、手紙を書きながら考える」
「了解。じゃあ、そこは後回し」
少年はペンをくるりと回して指にはさんだ。
「それから。さっきも言ったけど、手紙を出すたびに、きみのまわりの人たちは、きみのことをすこしずつ忘れていく。
今回は前よりもうちょっとだけ、強くね」
「わかってるよ」
「『ありがとう』は、わりとやわらかい手紙だからさ。今回の『ごめんね』は、ちょっとばかり重い。重い言葉ほど、世界からの代償も大きいんだ」
聞いてから、聞かなきゃよかったと、ほんの少し後悔する。
でも、知らないふりをして踏み出すには、私はもう、あまりにも知ってしまっている。
「それでも、書く?」
少年は、わざと軽い口調で尋ねてくる。
私は、深く息を吸った。
胸の奥に溜まっていた海の匂いが、すこしだけ蘇る。
「……言わないほうが、もっと怖いから。『ありがとう』を伝えないまま終わるのも嫌だけど。『ごめんね』を言わないで終わるのは、たぶん、もっと嫌」
「ふーん」
少年は、少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「雨音さん、だいぶ覚悟きまってきたね」
「そんな立派なもんじゃないよ。ただの、わがままだよ。私は我儘だから」
「わがままって、便利な言葉だねーー」
さっきの私の台詞をさらりと返されて、思わず笑ってしまう。少年もつられて笑ってから、椅子をすべるように下りた。小さな靴音が、郵便局の床にコツコツ響く。
「じゃあさ、雨音さん」
「なに」
「書こうか、『ごめんね』の手紙」
インクの線が、静かな郵便局の空気の中に、少しずつ溶けていく。
外は見えない。でも、ここが「空にいちばん近い郵便局」だということだけは、不思議と信じられた。
この手紙が、ちゃんと彼のもとへ届くことを願いながら。
私は終わりに向かう準備をしているのかもしれない。
それでも──書きたいと思ってしまった自分のことを、少しだけ好きになりたいと思いながら。



