「ありがとう」と、「ごめんね」と、それから。

日曜日の朝、文藝部の遠足の日だ。
集合時間の、十五分前に僕は着いた。待ち合わせに指定された、駅前の錆びたブロンズ像の下にひとり先客がいる。八雲雨音が花壇の縁に立って、大きく手を振っていた。
「遥人くーん! おはよーー!」
急に名前を呼ばれて、ドキッとする。昨日までは、水瀬くんと呼んでたじゃないか。
「おはよう、八雲さん。ていうか、朝から元気だね」
僕は欠伸した口元を手で隠す。
「楽しみすぎて、朝の四時から起きてるからね! 朝ごはんもおかわりしてきたよ」
病院で点滴につながれていた姿が嘘みたいだ。花壇から、ぴょんと飛び降りると、白いワンピースがふわりと広がる。
「ねぇ見て、遠足っぽくない? これ。ちゃんとリュックも背負ってきたの。お弁当も入ってるよ?」
「気合い入りすぎだって」
対照的な僕は、ちょっと近所のコンビニに行く、くらいの軽装備で来てしまった。そんな僕を雨音は足先からチェックしていく。
「んーー、遥人くんは遭難したら生き残れないね」
白いワンピースも、サバイバルには不利に見えるが。
「いや、まず遭難しないから。どこに行くつもり?」
「じゃあ、無人島にひとつだけ持っていくとしたら?」
「……紙とペン」
会話になってるのか? と、呆れながらも、僕の頬は自然と緩んでいた。
「さすが、部長! でもふたつは持って行けませーーん」
そこへ、息を切らせた美優が駆け込んでくる。
「はぁ、はぁ……ごめん、待った?」
「美優ちゃーん! 今日もかわいいね! あ、でもゼーゼーしてる」
「雨音のせいだからね!? 角のコンビニで、お昼買ってこ! って、雨音がメールしたくせに来ないんだもん。あ、部長さん、おはよう」
雨音はナチュラルな天然なのかもしれない。こめかみを人差し指で抑えながら、首を傾げている。
「わたし、そんなメールしたかなぁ?」
「したかなぁ? って可愛こぶっても無駄! 証拠は揃ってるからね! あとでカフェラテ奢りで」
「ショートサイズで許して!」
「仕方ない……で、あいつは?」
美優が周囲を見渡す。遅刻常習犯らしい彼は、案の定どこにもいない。


‪僕はふと思い出していた。あれは、金曜日の放課後だ。
帰り支度をしていた僕の背中に、慎也が声を落とした。
「……なぁ、水瀬」
振り向くと、慎也はいつになく真面目な顔をしている。男気ある彼には似合わない、やけに弱気な目だ。
「……なに? ちょっと怖いんだけど」
「ちょっと、時間くれよ」
慎也は窓の外に視線を逸らしたまま、言葉を探すように唇を噛んだ。
部室で話せばいいのに、わざわざ真逆の体育館の裏に連れてこられた。けど、もう十分くらい沈黙が続いている。ペットボトルのお茶も半分飲んでしまった。
「それで、話って⋯⋯?」
僕は痺れを切らして、口を開く。
「水瀬、その、なんだ、最近どうだ?」
あの陽キャの慎也が急に挙動不審になっている。相変わらず目は泳いでいるし。僕も教室でクラスメイトとコミニュケーションを取らないといけない時にそうなるから、緊張が手を取るようにわかる。
「最近? まぁ、普通だけど」
「そうか! そうだよな! 普通が一番いいぞ」
「えっと、慎也くんどうしたの?」
理解に苦しんだ。慎也が、こんな風になってしまう話題ってなんだ?
「……水瀬、お前、最近、仲良いよな」
慎也が口を開いて話す言葉は、まるで壊れたロボットみたいだ。途切れ途切れに単語を話す彼が、なんだか面白くなってきた。口角が上がりそうな顔を必死にこらえて、僕はAI並のスピードで情報を処理していく。
「八雲さん……のこと?」
「そ、そうだ」
「水瀬、お前、その、す、すき、なんか? 雨音のこと」
僕は飲みかけた麦茶を吹き出しそうになった。どこをどう見てそう思ったんだろうか。慎也と八雲さんと佐伯さんは幼なじみだって言ってたし、あー……まさかそういうことか!? でも、慎也の好きな人って。
「ただの部員だよ」
僕は手短に否定した。勘違いされてもあとが困る。はっきりと関係を証明しなければ、ややこしいことに巻き込まれてしまいそう。文藝部という僕の平穏は、すでに波風が立ってしまってるのに、もうこれ以上の荒波は御免だ。こんな大波に巻き込まれたら僕みたいな小さい船は沈んでしまう。
「へー……そっか」
「慎也くんって、その、もしかして──」
僕の言葉を遮るように、慎也は次の言葉を吐いた。
「水瀬、美優の事は……その、どう、思ってんだ?」
「どうって……? 文藝部の仮部員としか」
気にしたこともなかった。雨音に連れられて、文藝部に顔を出すようになった人、くらいにしか思ってない。
「そうか! そうかぁ!」
高槻くんは空に向かってはぁーーと大きく息を吐いた。それから、赤くなった顔をパタパタと手で扇いでいる。ちょっと待ってくれ。何も僕の疑問の解決になっていない。万が一に僕を恋敵と見ていたとしても、クラスメイトの女子たちは十中八九、慎也を選ぶに違いない。そんな事は分かっているが、わざわざ僕を呼び出して、勝手に納得してスッキリして帰られても、僕は後味が悪い。
「八雲さんのこと、好きなの?」
ゲホゲホと咳き込みながら、慎也は首を横に振る。露骨に嫌な顔をしたから、これは本当っぽい。やっぱり僕が予想してる通りだろう。
慎也は、ほんの少しだけ勇気を振り絞るように、僕を正面から見た。
「俺さ、美優のことが好きなんだ」
運動音痴の僕が、ボールを蹴るよりもぎこちない告白だった。
突拍子のないことを言われた時、漫画みたいに、ブッと息を吹き出すのかと思ったが、僕は冷静だった。慎也の告白は、ずっと真っ直ぐな言葉だったから。からかう余地なんて一ミリもない。
「僕じゃなくて、本人にちゃんと言えば?」
かろうじて、そう返す。
「水瀬! お前、もう少しデリカシーってのはないのかよ」
「ごめん、この手の話は初めてだから慣れてない」
「まぁ、いいや。ちょっと落ち着かせてくれ」
慎也は、水筒からスポーツドリンクをなみなみとコップに注いで、一気に飲み干した。見事なまでの飲みっぷりで、見ていて気持ちがいい。男らしく口元を太い腕で拭うと、ぐっと目に力を込めた。
「水瀬、頼みがあるんだ」
この状況に困惑している僕に、慎也は深く頭を下げた。
「俺は文藝部の遠足がチャンスだと思ってる。手紙も書いたんだ。だから、俺に協力してくれーー」
断る理由もないからとりあえず承諾する。頷いてはみたけど、ろくに恋愛経験もない僕が彼に助言することなんて何一つないって。とりあえず、慎也の意図を聞くことにした。
「その、協力って? 僕、何をすれば……?」
「どことなく、美優とふたりきりになれるシチュエーションを……雨音を引き離してくれたらいいから」
「恥ずかしい話、恋愛経験のない僕でも役に立てる?」
「もちろんだ!頼りにしてるぜ」
慎也は僕の前に拳を突き出した。僕が、ん? と不思議そうな顔をしたから、彼は軽快に笑った。
「ほら、グータッチ! 水瀬も拳出して」
僕たちはコツンと拳を合わせる。
「これで俺たちも友達だな!」

僕に青春なんてものは、縁遠いと思っていた。それは目も当てられないくらいに眩しくて、透明で、手の届かないものだったから。僕はいつも目を背けて、手を伸ばすのを諦めていた。だけど⋯⋯少し伸ばした拳の先に、友達だと言って笑ってくれる相手がいて、その背中越しの夕景が、僕の冷たい心の雪を溶かすように暖かくて。ゆっくり、ゆっくりと何かが僕の中で生まれて変わっていく、そんな気がしたんだ。


その瞬間、ホーム側から派手な転倒音が聞こえた。
「うおっ!?」
三人で振り向くと、改札の前でスポーツバッグを抱えた慎也が、見事につまずいていた。
「いってぇ……!」
「もー、なにしてんの慎也くん!」
雨音が駆け寄り、ポンポンと彼の背中を叩く。慎也は情けない顔で立ち上がった。
「ご、ごめん! ちゃんと目覚まし五個かけたのに、全部止めてた……!」
「ギリギリ間に合ってるからセーフ。でも皆に、カフェラテ奢りね」
「なんでだよ!」
朝からマイナスポイント稼いでどうする……なんて顔をした僕に向かって、慎也はちょっとだけ舌を出してバツの悪そうな顔をした。
ローカル線がホームに滑り込む。
「電車きた! 早く行こーー!」
行き先は、青島神社と、幸せの黄色いポスト。
車内は、日曜の朝にしてはそこそこ混んでいた。家族連れ、カップル、カメラを首から下げた観光客。そんな人たちに紛れて、僕らはボックス席を陣取った。窓側は、もちろん雨音が占領する。ガラスにぴったり顔を寄せて、子どもみたいにはしゃいでいる。僕は美優と慎也が隣になるように、雨音の隣に座った。
「わぁ! 海が見えてきた」
僕は、窓の外と彼女の横顔を交互に眺めていた。
「ねぇ、水瀬くん」
「なに!?」
「ごめんね、苦手だよね、こーゆーの」
「……今さら言う?」
笑いながら、彼女は指先で窓をなぞった。細い指だ。
「八雲さんは……無理、してない?」
思わず口から出た言葉に、雨音は一瞬だけ目を丸くした。それから、少しだけ真面目な顔になる。
「してるかも。でも、今は大丈夫」
「今は?」
「んふふ。深刻なやつじゃないよ? たぶん。お医者さんも『しばらく様子見ましょう』って言ってたし。ね、美優ちゃん」
逆サイドの席から、美優がじろりと雨音を睨む。医者ってなんのことだろう。
「その『たぶん』が信用ならないの。……でも、倒れそうになったら、即撤収ね」
「了解! じゃあ倒れる前に全力で遊ぶ」
「そういう極端な思考回路、どうにかならないの……」
美優は呆れながらも、どこか安心したように笑った。慎也はというと、窓の外を見ながらそわそわしている。
「なぁ……青島って、ほんとにそんな、恋愛成就みたいな場所なのか?」
「恋が叶うって噂だよ。黄色いポストがあるだけで、恋愛の聖地みたいにされがちだけど」
「へぇ……」
慎也はちらっと美優の横顔を盗み見て、すぐに視線を逸らした。その様子があまりに分かりやすくて、僕はつい笑いそうになるのを堪える。

青島駅に着くと、改札は小さな人の波で賑わっていた。駅舎の外に出ると、もうそこは観光パンフレットで見た景色そのものだ。象の足みたいな幹の、フェニックスヤシが並んでいる。
「わぁ、すごい。ほんとに南国って感じ!」
僕らの住む町もそこそこ海には近いけれど、この辺りはさらに明るくて、観光客向けに磨き上げられている。土産物屋の並ぶ通りを抜け、僕らは青島神社へ続く弥生橋のたもとに立った。
「うみーー!」
雨音が両手を広げて、潮風を全力で受け止める。髪がふわっと持ち上がり、白いワンピースの裾が揺れた。
「走るなってば!」
美優が腕を掴む。
「大丈夫だって。ほら、魚ーー!」
雨音は手すりに手を置いて、きらきら光る海面を覗き込んだ。磯の香りと、波の音。僕はまた、彼女が落ちてしまうんじゃないかと心配になる。
「……海、怖くないの?」
思わず零した僕の言葉に、雨音が首をかしげる。
「夜の海は、ちょっと怖かったけど。今日は、きれい」
「溺れそうになったのに?」
彼女は少しだけ考えるように口を結んでから、僕を見上げた。
「君が一緒に見てくれてるから、怖くないかな」
その一言に、僕の心臓が変な音を立てた。
「カフェラテじゃなくて、アイス食おうぜーー?」
すかさず慎也の声が響く。空気を読んだのか、読んでないのか分からないタイミングで。彼は売店のメニューを指さした。
「さっきの約束、ちゃんと覚えてるからな、雨音」
親指を突き立てて、ドヤ顔を決めている。
「わーい! じゃあチョコミント!」
「俺はバニラにしよーっと。美優は?」
「え、じゃあチョコ」
「水瀬は?」
「……僕も、チョコミントで」
そうして四つのアイスを手に、僕らは橋を渡った。苦手なはずのチョコミントの味なんて覚えてなんかない。無意識に同じものを選んだのは、理屈じゃなくて。文字にしようとしても、知らない言葉で。だだ、舌に乗る冷たさと甘さだけを感じていた。遠足って、こんなに騒がしくて、こんなに幸せなものだったっけ。


恋愛成就の絵馬には、見知らぬ誰かの願いがびっしりと吊るされている。祈りの小道と呼ばれる、絵馬のトンネルを抜けた先に、本宮がある。

【どうか、彼と同じ大学に受かりますように】
【ずっと一緒にいられますように】
【もう二度と、大切な人を失いませんように】

誰かの必死な文字を見ていると、僕の中で、別の文字たちが蠢き始める。頭の中にある、僕の小説の断片たちだ。
「みんなの願い、叶うといいね」
ふと隣を見ると、雨音が絵馬を見上げたまま呟いていた。その横顔は、いつもの無邪気さとは少し違う。どこか遠くのものを見ているような、切ない眼差しだ。
「雨音は、なにお願いしたいの?」
美優が尋ねると、彼女はにっこり笑って首を振った。
「秘密だよ。叶えたいことがある時はね、言わない方がいいんだって」
また、秘密だ。彼女には秘密が多すぎる。僕は気になって仕方ないのに、美優は慣れた様子で気にしてない。
「あー、そういうの、ちょっと分かるなぁ」
美優は肩をすくめた。
「私も、言葉にしちゃうと、逃げちゃいそうなことあるし」
慎也は二人のやり取りを聞きながら、誰にも見えない角度でしっかりと手を合わせていた。一方的に聞かされた立場ではあるが、僕は少し気まずかった。


昼過ぎ、少し遅めのお弁当を海沿いのベンチで広げた。美優の作ってきたおにぎりと、雨音のお母さん特製の唐揚げ。それから、慎也が途中のコンビニで買ったポテト。僕だけ何も用意してなくて、気まずくなって売店で、人数分の肉巻きおにぎりを買った。
「この唐揚げ、めっちゃうまい!」
「でしょー? 自慢のお母さん味!」
「雨音、自分で作ったんじゃないのかよ」
「味見係は私だから! ちゃんと手伝ったから」
そんなくだらないやり取りをしながら、僕らは笑った。
食べ終わると、美優と慎也が「ちょっと売店見てくる」と席を立った。二人の背中が少しずつ遠ざかる。何もアシストできてないけど、その距離が、わざとらしいくらいゆっくり縮まっていく。僕は心で慎也に「がんばれ」とエールを送った。残されたのは、僕と雨音だけ。
「作戦成功、かな」
雨音が意味ありげに笑う。
「作戦って?」
「幼なじみ恋愛成就大作戦!……まぁ、それは置いといて」
彼女はベンチから立ち上がり、海の方へ数歩進む。僕もその隣に並んだ。目の前には、どこまでも広がる海。青島をぐるりと囲む鬼の洗濯板が、波を柔らかく砕いている。
「ここ、好きなんだーー」
風に髪を揺らしながら、雨音が言う。
「ほら、見える? 幸せの黄色いポスト」
「思ったより小さいんだな」
「可愛いでしょ?」
「うん……まぁ、ね」
彼女は僕の方を見ずに言う。その視線はずっと海の向こうを捉えている。
「水瀬くんに、返したいものがあるんだ」
そう言って、リュックの中から何かを取り出した。見覚えのある、表紙。端が少し波打った、僕の小説ノートだ。
「それ……って?」
「ごめん、勝手に持ってた! 中学生の時、捨ててくれって頼まれたのに」
「なんで?」
「先に謝る! 勝手に読んでごめん! でも、私ね、この小説が大好きで」
彼女は少し照れくさそうに笑いながら、ノートを僕に差し出した。両手で、大事な宝物を持つみたいに。
「そうか……僕の小説、君には届いたんだね」
「うん! とても」
じんと目頭が熱くなる。
「捨てないでいてくれて、ありがとう」
「私も、水瀬くんがまだ小説を書いててくれて嬉しいよ。だって私は君のファン第一号だから」
「そんな大袈裟な」
「だから、ファンレター書いてきた」
意味の分からない返しに、僕は瞬きをする。雨音は小さく息を吸い込み、今度は鞄の奥をごそごそと探った。しばらくして、真っ白い封筒が姿を見せる。赤い封蝋に見覚えがある。あの日、最初に空から落ちてきた封筒だ。
彼女は封筒をぎゅっと握りしめてから、そっと僕の手のひらの上に乗せた。宛名のところには、小さな字で僕の名前が書いてあった。
『水瀬遥人くんへ』
「これは……?」
「手紙。……ありがとう、の手紙だよ」
雨音は、いつになく真剣な声で言った。
「昨日助けてくれたことも、文藝部に入れてくれたことも、今日一緒に来てくれたことも。全部、ちゃんと全部、言葉にしたかったの」
心臓が、一回、大きく跳ねた。
「今、読んでもいい?」
「だめ!!」
即答だった。彼女は首を横に振る。
「今読まれたら、たぶん私、恥ずかしすぎて海にダイブするよ」
「また僕が助けるのか?」
「君を困らせたくないから。だからね、いつか。いつか、読みたくなったときに読んで。捨ててもいいけど、できれば……捨てないでくれたらうれしいな」
封筒を持つ指先に、彼女の体温が移ってくる。僕はそれを落とさないように、そっと握りしめた。
「捨てないよ。絶対」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。雨音が、目を丸くして、それからふわりと笑う。
「そっか。よかったーー」
彼女のその笑顔は、どこか泣き出しそうにも見えた。風が少し強くなって、二人の間をすり抜けていく。波の音が一段と大きく聞こえた。
「ねぇ、水瀬くん」
「なに?」
「言葉ってさ、届くと思う?」
不意に問われて、僕は視線を海から彼女に移した。薄い琥珀色の瞳の中に、僕が映る。
「ちゃんと届くよ。だって、君に届いたんだから」
「君の新しい小説も、きっと届くよ。まだ読んでないけど、なんとなく分かる」
「なにを根拠に」
「そういうのはね、根拠じゃなくて、願いって言うんだよ。ファン第一号の切実な願い」
僕は返す言葉を見つけられなくて、代わりに小さく笑った
僕はポケットに手を入れ、封筒の端をそっと撫でた。薄い紙の向こう側に、彼女の「ありがとう」が詰まっている。その言葉がいつか、僕の中の何かを変えてしまうような気がした。
「行こっか、水瀬くん」
雨音が手を差し出す。握るか迷って、結局、僕はほんの少しだけ指先を触れさせるにとどめた。それでも、伝わる体温は十分すぎるくらいだった。

幸せの黄色いポストにそれぞれ投函した。
僕たち四人の言葉を乗せた小さな封筒たちが、これからどんな未来へ届くのか。
でも今はただ、潮風を胸いっぱいに吸い込んで、彼女と並んで歩く。この瞬間だけは、確かに僕のものだと思えた。