「ありがとう」と、「ごめんね」と、それから。

 放課後のチャイムが鳴ってから、教室のざわめきがすっかり薄まるまで、十分くらいかかった。僕は例によって、読みかけの文庫本を鞄にしまい、誰にも声をかけられないように、廊下の人波の切れ目を見計らって席を立つ。ここまではいつも通りだ。僕の日常。だけど、あの日以来、すっかり変わってしまった。
 「水瀬ーー! サッカー部休みだから、今日はそっちに顔出すぞ!」
 慎也は僕に絡んでくるようになった。クラスメイトが不思議な目で見ても、全然気にしてない様子だ。それが慎也の長所なのかもしれない。一度仲間になったら裏切らないぜ! って男気を感じる。
 「……うん」
 「なんだよ、暗いぞ! 昼飯ちゃんと食べたのか?」
 「食べたよ」
 「水瀬はもっと筋肉つけた方がいいぞ?」
 慎也は僕の腕を叩きながら言う。大丈夫、小説家に筋肉はいらないから。

 文藝部の部室。きしむドアノブに手をかけると、先客の気配がした。扉の隙間から漏れる声が、いつもより一段高く弾んでいる。
 「いらっしゃいませーー! 文藝部・本日のメインイベント会場はこちらでーす!」
 扉を開けた瞬間、雨音の声が飛んできた。
 「……なにそのテンション」
 思わず眉をひそめると、彼女はきらきらした目で僕を指さした。
 「本日の主役その二、到着です!」
 「二、ってことは一も三もいるんだろうな……」
 視線を部屋の中に滑らせると、窓際の机に腰かけた美優が、ぐったりした顔でこっちを向く。
 「はぁーーい。一です。ねぇ部長さん、止めてよこの人」
 「ひどい! まだ何もしてないのに!」
 雨音は頬をぷくっと膨らませる。いや、十分してるけどな、騒音的な意味で、他の部からクレームが来ないかひやひやしている。
 「ほら、主役その三も入って、入って!」
 三は慎也のことらしい。
 僕は、自分の定位置である一番奥の長机の左端に鞄を置いた。机の上には、便箋と封筒、それからペン立てから総動員させられたらしいボールペンや万年筆が、きれいに並べられている。この前、結局できなかったことをするらしい。僕はまだ、彼女の行動には半信半疑だ。
 「……今日は、ちゃんと活動するんだな?」
 僕がそう呟くと、雨音は胸を張った。
 「もちろん! 口だけ文藝部じゃ終わらせません! 今日は『はじめての手紙記念日』です!」
 「タイトルまでつけたのね……」
 美優がため息をつく。
 「ねぇ水瀬くん。こういうときって、掛け声とかあるの?」
 不意に振られて、僕はペンをいじりながら考える。
 「掛け声?」
 「ほら、陸上部の『位置について、よーい、ドン!』みたいなやつ」
 「あるわけないだろ……勝手に書いて、勝手に終わり」
 「それじゃーー、つまんない。『筆をとって、よーい、どん!』これ、私たちのルールにしよ」
 そう言って、雨音はふふっと笑う。さらりとそういうこと言うから、この子は油断ならない。
 「やだよ。断固として拒否する。部長権限で」
 「じゃあさ」
 慎也が、背もたれに寄りかかりながら言った。
 「手紙だろ? 最初にさ、誰に書くかだけ宣言してから始めるってのは? 変にモヤモヤしないように」
 「お、慎也くん! ナイスアイデア!」
 雨音がすぐに乗っかる。
 「じゃあ、先に言っとくね。私のは、美優ちゃん宛て!」
 美優が机に突っ伏したまま答える。
 「知ってまーーす。こないだも言ってたじゃん。練習台の第一号は私、って……」
 「練習台って言い方やめて!? 第一号は、記念すべき一枚目ってことだよ? ラブレターの予行演習でもあり、本番でもあるの!」
 「意味わかんないよ……私に告白でもするの?」
 顔を覆いながらも、美優の耳は赤かった。こういうとこ、ほんと正直だ。
 「じゃあ俺は……」
 慎也は、わざとらしいくらい視線を窓の外に逃がす。
 「その……文藝部のみなさまへ、ってことで」
 「へぇ?」
 雨音の口元がにやりと曲がる。慎也が可哀想に思えてくる。僕は、雨音には秘密を握られないようにしようと心に誓った。
 「みなさま……ねぇ?」
 「べ、別に深い意味はねーよ」
 「美優ちゃんだけ、敬称変える、とかでもいいのに?」
 「雨音!!??」
 ドン、と机が鳴った。美優が素早く身を起こして、雨音の口に手を伸ばす。雨音は器用にそれをかわして、けらけらと笑った。
 その騒がしさを見ながら、僕は自分の便箋に目を落とす。
 「で、……水瀬は?」
 慎也が、わざと何でもないふうを装って聞いてくる。
 「えっ?」
 「誰宛てに書くか。決めてんの?」
 僕は、ほんの一瞬だけ迷ってから、口を開いた。
 「まだ、決めてないよ」
 「えーー!? そういうのが一番書きにくいやつだよ!」
 雨音が身を乗り出す。
 「ラブレターに限らなくていいんだよ? ありがとうでも、ごめんねでも、さようならでも。誰か、ひとり思い浮かばない?」
 ありがとう、ごめんね、さよなら……か。
 「……強いて言うなら」
 僕は、ごくりと喉を鳴らす。
 「まだ、誰にも届いてない自分の小説、かな」
 「え?」
 三人分の視線が、一斉に刺さる。注目されることに慣れない僕は、顔をゆがめた。みんな僕の顔を鏡に映したような顔をしている。
 「みんな、なんだよ、その顔。変なこと言った?」
 「いや、ちょっと意外だっただけ。てっきり、誰か実在する人に書くのかなって」
 美優が首をかしげる。
 「それも考えたけどさ。なんか……今の僕が、いちばんちゃんと向き合わなきゃいけない相手って、自分の言葉なんじゃないかって」
 馬鹿みたいなことを言ってる自覚はある。けれど、一度口に出してしまうと、不思議と戻したいとは思わなかった。堰を切ったように溢れかえる。
 「小説の公募に落ちてさ。誰にも届かなかったって、勝手に拗ねてた。でも、そのくせ、諦められなくて。自分じゃノートを捨てられなくて、人に捨ててもらったこともある。中学のときに書いてたやつ。好きな作品だったんだけど」
 部室に静けさが漂う。さっきまでの空気が次第に冷えていくのを肌で感じる。
 「ごめん! つまり、それってさ、届かなかったんじゃなくて。僕が、ちゃんと出してやらなかっただけなんじゃないか、って最近思ったんだ。だから、その、気持ちを手紙に」
 「……そっか」
 雨音が、ゆっくりと瞬きをする。
 「だから、僕の作品達に。結果出してやれなくてごめん、って。僕に書いてもらってよかったって思わせてやる、って。約束するんだ。僕らしく、文字を綴って」
 言ってから、ものすごくこそばゆくなる。小説の主人公の台詞じゃあるまいし。僕は視線を逸らした。
 「いいじゃん! 水瀬、かっこいいよ」
 パチパチと手を叩きながら、慎也が笑った。
 「水瀬、熱いやつだったんだな。それ。なんか、そういうの……俺は好きだよ」
 「……ありがと」
 ほんの少しだけ救われたような気がして、僕は便箋の上にペン先を置いた。
 「で、美優ちゃんは?」
 雨音が、すかさず話題を振る。
 僕は雨音の言葉を期待していたから、少しだけ寂しさが残った。
 「美優ちゃんは誰に書く?」
 「えっ……とね」
 美優は一瞬、僕と慎也の顔を交互に見た。自分がこんな空気にしてしまって、申し訳ない。
 目線がぶれた先で、喉がぎゅっとつまったみたいに、口を真一文字に結んでいる。
 「別に無理に言わなくてもいいぞ」
 とっさにそう口を挟んだのは、意外にも慎也だった。
 「言えないやつだって、あるだろ。ラブレターってのはよ」
 「な、なにドヤ顔してんの」
 美優はそう言って、肩をすくめる。
 「……じゃあ、言わない。秘密ってことで」
 「ずるいー! けちー!」
 雨音は唇を尖らせている。
 「雨音だって、内容まで全部暴露しないだろ?」
 たまらず、慎也が助け舟を出す。
 「私はいつでもオープンハートだけど?」
 「その割に、肝心なところは秘密にするくせに」
 美優がぼそっと言うと、雨音は一瞬だけ目を泳がせた。
 「それは……ほら、ミステリアスってやつ? ヒロインの必須スキルだからです」
 「お前、いっつも都合いいいよなーー」
 三人のやり取りに、僕は思わず笑ってしまう。


 ──君の抱える秘密が、僕らの運命に関わるものだなんて、僕はまだ知らなかったんだ。


  雨音は、すぐに調子を取り戻したふりで、手を叩いた。
 「はい! じゃあそろそろ、実際に書き始めよっか」
 「仕切るのは部長さんでしょ?」
 それぞれが、自分の席に腰をおろす。椅子が床を引きずる音が、いつもより大きく響いた。
 「じゃあ、……筆をとって、よーい、どん!」
 僕の渾身のボケに、プッと込み上げた笑いを雨音が手で押さえた。部室に、ゆっくりと静寂が降りてくる。
 聞こえるのは、時計の秒針と、紙の上を滑るペン先の細い音だけ。
 僕は便箋の一行目に「拝啓」と書こうとして、やめた。小説を相手に書くのに、敬称はいらないだろう。僕は少し考えてから、ペン先を走らせる。

 『君へ』

 ありきたりな呼びかけだけれど、今の僕には、それしか浮かばなかった。

 『君へ。
 たぶん、僕がいちばん長い時間を一緒に過ごしてきたのは、君だと思う。』

 紙の上に落ちる文字を見つめながら、胸の奥に、変なむず痒さが溜まっていく。ノートの。投稿サイトの。読み返す度に、穴があったら埋めたい気持ちになる、まだ幼稚で拙い文章たち。でも、何よりも愛おしい言葉たち。

 『眠れない夜に書き殴ったページも、人に笑われて、消したくなった文も、全部、僕の一部だと思う。』

 息を吐くたび、胸にひっかかっていた棘が、少しずつ形を変えていく。

 『ごめん。 僕は僕のこと、何度も「才能ない」って決めつけた。読んでくれる人なんていないって、勝手に諦めた。』

 ペン先が止まる。
 頭の隅で、父の声がよみがえった。
 言い返せなかった僕の気持ちが高ぶる。

 『本当はね。僕の方が、君を信じてあげられなかっただけなのかもしれない。
 僕が信じなくて、誰が信じれる? 僕が一番の愛読者でなきゃ、誰が読んでくれる? 僕は、誰かに届けたい。誰かの心で、誰かの人生で、僕の言葉がきっかけになって欲しいんだ 。』

 紙は静かだ。けれど、そこに綴られた文字は、僕自身よりも正直だった。
 ちらりと視線を上げると、雨音はすでに一枚目の半分くらいまで書き進めていた。ペンを走らせる横顔は、いつもの無邪気さとは少し違う。眉間に、ほんのり皺が寄っている。髪を耳に掻きあげ、長いまつ毛が凛と映える。
 美優は、最初の一行で止まっているらしく、ペン先をくるくる回しながら便箋を睨んでいた。慎也は、挨拶の文だけ書いて、その先に迷っているようだった。
 この狭い部屋の中で、それぞれが、それぞれの『誰か』に向かって、黙って言葉を探している。なんだろう、この感じ。少しだけ、不安で。少しだけ、心地いい。僕は視線を戻し、再びペンを握り直した。

 「……できた!」
 一番に顔を上げたのは、案の定、雨音だった。
 「はやっ」
 美優が呆れる。
 「ちゃんと考えて書いたの? WWWとか使ってないよね?」
 「あっ……」
 「そこ否定するとこなんだけどっ!」
 雨音は椅子から立ち上がり、便箋を大事そうに両手で包むように持つ。
 「ねぇ、読みたい? 読もうか?」
 「やめて。ここで朗読とかされ始めたら、死ぬ」
 「そうそう、手紙ってさ、読む側にも心の準備が必要なんだよ」
 慎也がそう言って、腕を組んだ。
 「そうだね」
 雨音は頷いて、便箋を封筒に収めた。封をするのに、少しだけ躊躇ったあと、机の上のスティック糊を手に取る。ぴたり、と封が貼られる音がして、彼女は満足げに微笑んだ。
 「これはね、ちゃんとしたルートで渡したいの」
 「ちゃんとしたルート?」
 僕は彼女が何を言い出すんだと、息を飲む。
 「ほら、幸せの黄色いポスト」
 その言葉に、美優が顔をあげる。
 「え、ポストに出すの? だって、私宛てだよね? ここいるのに? 今貰うよ」
 美優は長い手を雨音に伸ばす。
 「だめーー! 雨音便、青島経由でお届けします」
 「なに、その怪しいルート」
 「幸せを呼ぶ黄色いポストだからね。文藝部の記念すべき一通目は、そこから出したいの」
 僕は不思議に思ったんだ。彼女の目は、その場にいない何かを見つめているみたいに、ずっと遠くを見ていた。
 「……じゃあさ」
 と、美優がぽつりと呟いた。
 「やっぱり、私も書いていい? 雨音に宛てて」
 雨音の目が、ぱっと丸くなる。
 「美優ちゃんが? 私に書いてくれるの?」
 「うん。なんか、さっきからずっと考えてたんだけど……」
 美優は自分の便箋を見下ろす。そこにはまだ、ぎこちない宛名と、一行目の途中までしか書かれていなかった。
 「私、誰かにちゃんと手紙書いたこと、ほとんどないなって。子どもの頃に交換日記とかしてたけど、あれって半分お絵描き帳みたいなものでさ」
 「え、でも前、修学旅行のときにさ――」
 「わーー! 黒歴史掘り返すのやめて!」
 美優が慌てて雨音の口を塞ぐ。
 「……だから、ちゃんと書きたい。練習とかじゃなくて。私が雨音に言えてなかったこと、いっぱいあるから」
 言いながら、彼女は少しだけうつむいた。
 「何それ。泣いちゃうじゃん」
 雨音は、照れ隠しみたいに笑う。
 「いいよ、じゃあ皆でお手紙出しに行こう! 遠足、決定ね! いい? 水瀬部長」
 「嫌って言っても、強制だろ?」
 「うん!」

 彼女はどこか憎めない。
 平穏な僕の日常に、突然やってきた台風みたいに。僕を巻き込んで、ずっと遠くの知らない場所へ連れてくような。僕はそんな運命に、身を委ねてみようと思ったんだ。