「ありがとう」と、「ごめんね」と、それから。

夜遅く、僕は彼女より先に、両親に連れられて自宅に戻った。
ひと晩眠った朝。
昨日の出来事が夢のようで、頭はふわふわしている。シーツに触れた左手の甲の擦り傷がヒリヒリと痛む。
そして、すぐに現実を突きつけられた。
リビングに降りると、おはようの声よりも先に、朝食の湯気も、味噌汁の香りも吹き飛ぶ勢いで、母の怒号が飛んでくる。
「遥人……! 無鉄砲にも程があるでしょ! 助かったからいいようなものの、飛び込むなんてもってのほかよ! 夜の海よ? 自殺と変わらんわよ!」
「……でも、僕が助けなきゃ、あの子は死んでたよ」
僕が、絞り出すように言うと、母は一瞬言葉を止めてから、深いため息をついた。
「そうじゃないの。正しいことと、無謀なことの区別くらい、ちゃんとつけなさいって言ってるの!」
父は新聞をめくる手を止めない。けれど、その裏から滲むように、父の声が低く響いた。
「母さん、言いすぎた。しかしだ、遥人……文学だの、小説だのに夢中になってるから。現実が見えてないんじゃないのか?」
胸の奥が、嫌なふうに波打つ。僕の何がわかる?
「……関係ないだろ」
父は新聞をぱたんと閉じ、狩りをする鷹みたいな目でじっと僕を見た。
「あるだろう。進路だって決めてないじゃないか。大学に行くのか、就職するのか、それすら曖昧なまま。作家になりたいなんて夢みたいなことを言って。そんなフラフラした態度だから、危険を危険とも思わないんだ」
母は同意するように何度も頷いている。
「進学校に通わせている意味、わかってる? 遥人には、安定した未来を手にしてもらいたいのよ。それなのに、夜の海に飛び込むなんて……」
もう聞き飽きたよ。言わないでくれ。両親の言葉の端々から、僕の夢は、親にとって甘えでしかないらしいことがよくわかった。違うのに……。書くことだけは、僕にとって世界と繋がる唯一の場所なのに。これだけ否定されてしまうと、僕の方が間違っているのか? と、諦めてしまいそうな弱気な心に火がついてしまう。声にならない。
でも、僕は諦めてなんかいない。
家に帰ってきてから直ぐに、ノートを開いた。いい小説のネタを手に入れたと。すぐにノートに書き込んだ。
『それは突然のことだった。僕は口を開けたまま、ただ、見つめることしか出来ないでいる。翼の折れた制服の天使が、空から堕ちてきた』と、小説の書き出しを綴った。
だから、昨日、海に飛び込んだ時に僕の中で真っ先に反応したのは、紛れもなく小説脳だ。絶好のネタを逃すまいと。僕はどこまでいっても作家なんだ。
父と母の嫌味を聞きながら、無意識に、昨夜の彼女の横顔が浮かんだ。引っかかっていることがある。僕は彼女に覚えがある。よく思い出せないけど、どこかで会ったことが?
「いつか、君にはちゃんと伝えるから」
彼女は僕を知っているようだったし……。
「……あの子はだれなの? 助けた子。知り合いなの?」
母が茶碗を置きながら聞いた。
「……八雲雨音さん。僕と同じ学年の子だよ」
「へぇ……。で? なんで海になんか落ちたのよ」
「わかんないよ。空から……いや、気がついたら溺れてて」
母は怪訝そうに眉を寄せ、父は呆れたように鼻で笑った。
「空から? はぁ……。また変な想像して。あまり夢見がちなことばかり言ってると、ほんとに大丈夫か? って心配されるぞ」
夢見がちなこと? それはつまり、小説を書く僕のことか?
どうやら、僕のことが心配なんじゃなくて、世間体を気にして、期待通りの息子であれって言ってるだけじゃないか。
僕のことをちゃんと知らないくせに。喉まで言葉が上がってきたけど、飲み込んだ。言ったところで、この家では意味がない。
母が食器を片付けながら言った。
「とにかく、もうその子に関わるのはやめなさい。またあなたに迷惑をかけるかもしれないわ」
迷惑……か。その言葉が胸に刺さる。彼女が言いかけて飲み込んだ言葉を思い出した。
『だって、私さ君に──』
あれは迷惑なんかじゃなかった。
むしろ……もっと君のことを聞きたいと思ってしまったんだ。
父も最後に、僕に冷たい言葉を突き立てる。
「……もう馬鹿な真似をするな」
「ごちそうさまでした」
僕はそれだけ言って部屋に戻り、荷物を引っ掴むと、そのまま家を飛び出した。


その日の授業は、正直なにも頭に入らなかった。
何も考えたくなくて、思考に隙を与えたくなくて、教科書に挟んだ文庫本をずっと読みふけっていた。


放課後になると、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
雨の音が心地いいメロディーを奏でる。
ここは文芸部の部室。旧図書準備室だ。
開けるたびにきしむ扉と、陽に焼けた文集の背表紙。
雨の日はここに来る。ここは校内で唯一、誰にも邪魔されない場所だった。
だからこそ、扉がノックされた瞬間、心臓が跳ねた。
「失礼しまーーす!」
勢いよく扉を開け、あの八雲雨音が、全力の笑顔で部屋に飛び込んできた。関わるなって言われたばかりなのに。
「……へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「よかったーー! 水瀬くん、やっぱりここにいた!」
記憶喪失か? と思うくらい、何事も無かったようにあっけらかんとしている。
その後ろに、肩を落とした友達がくっついていた。
「はぁ、はぁ。言ったじゃん雨音、走るなって……! 昨日あんなことあったのに……!」
「美優ちゃん、大丈夫大丈夫っ。ほら私、生きてるもん!」
まるでアメコミの無敵のヒーローみたいに、胸を張っている。いや、強がりなのかもしれないけど。
「でね、水瀬くん!!」
彼女は間髪入れずに机に手をつき、身を乗り出す。
「私、文藝部に入りたいの!!」
「……はっ?」
何を言ってんだ? 彼女と関わることはもうないと思ってたのに。めんどくさい事になる前に断ろう。
「あーー。悪いんだけ……」
僕の言葉を遮り、彼女はパッと入部届を掲げた。
「これっ。書いてきた!」
彼女の破天荒さから、入部届はぐしゃぐしゃ……かと思いきや、意外と几帳面に書き込まれていた。なのにインクがところどころ滲んでいる。よく見ると薄くオレンジ色に染まっている。
「これ……なんで濡れてるの?」
「あっ、さっきジュースこぼしちゃって。オレンジジュース。そういうとこあるんだよね私」
なんて言いながら、けろっと笑っている。昨日の今日だぞ? 楽観的すぎるだろ。きっと僕と同じ気持ちであろう、彼女の友人も深いため息をつく。
「雨音、ほんとにやめとこ? だって文藝部って、地味じゃん……」
部室を見る目が物語っている。明らかに陽キャな彼女からしたら、陰気臭い部屋だろう。
「いい? 美優ちゃん、文藝部はね」
雨音は、なぜか誇らしげに語りだす。
「静かで、本がいっぱいで、言葉で溢れていて、それに水瀬くんがいて。──なんか好き!」
なんだそれ。理由が……雑じゃないか? これはまずいことになりそうだ。全力で拒否しなきゃ。僕は差し出された、入部届を彼女の方に押し戻した。
「いや、ちょっと待って。部員は僕ひとりだし、活動だってろくにしてない……廃部寸前の部だ。認めない」
「いいじゃんっ。ひとりのところがふたりになったら、倍だよ倍! 廃部も免れるじゃん」
「いや、でもさ……」
「ねぇ水瀬くん。入れてよ?」
僕は、頼まれごとにはめっぽう弱い。畳み掛けるように、雨音は机越しにぐいっと寄ってくる。明るいのに、迫力がある。顔の距離が近すぎて、ドキッとしてしまう。
薄い琥珀色の大きな目が僕を見つめる。バニラの香りのシャンプーだろうか? 髪が揺れる度に、僕を擽る。あひる口を尖らせて、僕を上目遣いで見てくる。
美優が慌てて止めに入った。
「雨音っ! もうちょい落ち着いて? 彼、ちょっと引いてるから!!」
「え? 引いてる?」
雨音は、さらに僕の顔を覗き込む。もう止めてくれ。心臓が持たない。
「……ねぇ、引いてる? 水瀬くん、私のこと」
「え、いや……その……」
彼女の瞳はまっすぐで、曇りがない。きっと、嘘がつけないタイプなんだろうな。僕はつい視線を逸らしてしまった。
「……別に。引いてないよ」
「よかったぁぁーー!!」
彼女は嬉しそうに声を弾ませ、ぴょんと跳ねた。その瞬間、ふらりと身体が揺れる。
「雨音っ!!」
美優が素早く、彼女の体を支えた。さっきまでと違う、少しだけ緊張した声だった。彼女に支えられた雨音は、無邪気に笑ってみせる。
「平気平気。ここの床、滑るねーー」
こんな埃っぽい床、滑るはずがない。僕の目には、ふらついて転びそうに見えた。でも、本人が笑ってるから、僕は何も言えなかった。
彼女の入部を断る理由は無いかと、また机に視線を落とすと、僕はある空白を見つけた。これだ!
「あのさ、志望動機。志望動機が書かれてない。これじゃ入部は認められないな」
「さっき言ったじゃん!」
「あーー……確か、なんか好き! って? 認められるかっ!」
僕はキャラにもなく、彼女の真似をして言ってやった。
「代わりに謝るよ。冷やかしてごめんなさい。ほら、雨音! 帰るよ」
美優は彼女のブレザーを掴み、ドアの方に向かう。
「まって! ってば!」
机にしがみついて、彼女はまた、僕の目を真っ直ぐに見る。
「昨日助けてもらったからとか、文藝部が廃部しそうだからって理由じゃないよ」
僕はまた、彼女に気圧される。
「私は、言葉を知りたいの。君が綴る言葉を。どうして、君が海でひとりで書いてたのか。どうして、そんな顔で月を見ていたのか。どうして、あんなに必死に、誰かを助けられるのか。それを、知りたいの」
「……う、うん」
「それを知ってね。書きたいの。私の言葉で」
「……!?」
何を言っているのか、さっぱり分からない。でも嘘じゃないことは彼女の目が言ってる。文字を綴りたいのなら、文藝部として拒む理由は無くなってしまった。
「……何を書くの?」
「秘密。でも……言葉なら、きっと残せるでしょ。消える前に。忘れられる前に。──心の中に」
「ちょっと! 雨音!」
彼女は人差し指を口に当てて、美優を制した。それから、僕に向き直る。
「水瀬くん。私、ここにいたい。文藝部で、君のそばで、言葉に触れていたいの」
拒むための言葉が、もう出てこなかった。
彼女は小さく首をかしげる。
「だめ、かな?」
彼女は僕とは正反対の、純度120%の美少女だ。あひる口で、潤んだ瞳で、あぁもう。これで折れない男子はいるのか? 彼女を前に、僕の心臓はまた変な音を立てる。
「……勝手にすれば」
「うん! じゃあ、入部ね!! 決定」
あっさりと言う雨音の横で、美優が頭を抱えた。
「はぁーー……ほんとに入っちゃった……」
雨音はくすりと笑って「よろしくね、水瀬くん。文藝部の先輩!」と、おどけて言った。
先輩って……。
僕はため息をつきながらも、頬が少しだけ熱くなっていた。


ここは旧図書準備室──僕の城だった場所。
正式に入部届けが受理された今日から、僕らの部室になったらしい。
『文藝部』と書かれた古びた札が、ピカピカに磨かれて誇らしく見える。張り切って掃除を終えた雨音の、威勢のいい声が響いた。
「さて! 活動はじめます!」
僕は三人分の椅子をぎこちなく並べた。
「じゃあ、改めましてーー!」
雨音が、ぱんっと両手を叩いた。
部室の蛍光灯が、彼女の笑顔に反射して、ちょっと眩しく感じる。
「文藝部新入部員の、八雲雨音です! 好きなものは、本と、甘いものと、海と、旅行! 嫌いなものは、ピーマンと、テストと、……ひとりぼっち」
「最後のだけ、やけに重くない……?」
さっきからずっと雨音の後ろにくっついている美優が、呆れたようにツッコむ。改めてよく見ると、肩までの髪をハーフアップに結んでいて、ネイルは校則ギリギリの薄いピンク。どう見ても陽キャ側の人間だ。
「じゃあ、美優ちゃんも! 一緒に自己紹介!」
「え、なんで!? 私は別に……」
「だって、文藝部の仮入部員でしょ?」
まってくれ、部長の僕が知らない話が繰り広げられてる。
「仮ってつけたよね!? ちゃんと言ったからね私! 私は雨音の監視役なんだから」
文句を言いながらも、観念したように前に出てくる。
なんだこれ。ドッキリか何か? 急にユーチューブにでも投稿する動画の収録でも始まったのか? 戸惑いを隠せない僕を横目に、美優はスッと立ち上がる。そういう所は、常識人だ。
「えっと……私は二年一組の、佐伯美優です。雨音とは中学からの友だちで、家も近所で……」
「幼なじみです!!」
「はいはい。で、好きなものは……アイスと、犬と、寝ること。嫌いなものは、テストと、雨音の無茶ぶりと、……です」
最後確かに僕を見たよな。分かってるよ、陰キャが苦手って言おうとしたことは。
「えぇ〜? 無茶ぶりじゃないよ〜? 愛のあるごり押しだよ〜?」
「それが一番たち悪いんだってば……」
つい、自分の表情が緩んでいるのが恥ずかしくなる。賑やかさに慣れていない小動物みたいに、どこに目線を置けばいいのか分からなくなって、教室に置きっぱなしの文庫本のことなんかを考えた。
「で、水瀬くんは?」
唐突に、話題の矛先がこちらに向く。
雨音と美優、ふたり分の視線が突き刺さって、思わず背筋が伸びた。
「え、僕?」
「当たり前じゃん? 私たち、部長さんのことよく知らないし」
陽キャは怖い。なんでそこで急に『部長さん』なんだよ。そんな立派なもんじゃないのに。……まぁ、形式くらいは、ちゃんとしておくか、一応、部長だし。
「二年二組の、水瀬遥人。好きなものは、本と、静かな時間。嫌いなものは、ポテサラに入ってる林檎と、騒がしいのと、……自分自身かな」
「美味しいのに……? 酢豚のパイナップルは?」
雨音が、きょとんと首をかしげる。
「あ、ごめん。それも無理」
「まぁ、いらないっちゃ、いらないか!」
ぱぁっと顔を輝かせるのを見て、逆にこっちが照れる。
「部長さん。文藝部って、なにするところなの?」
美優が髪をくるくる触りながら、僕に尋ねる。
「……それ、仮入部する前に聞く質問じゃない?」
「細かいことはあとから考えるタイプなの。そんな暇もないくらい、雨音に強引に……」
胸を張って言うことじゃないけど、ここを部活らしく説明できる言葉を、僕は持っていなかった。だって、ずっとひとりで好き勝手にやってきてたから。
「今までは……ひとりで、小説書いてただけ。あとは、年に一回、部誌を出すくらい」
「小説!! 書いてるんだね」
雨音が食いついてくる。予想以上の反応に、少したじろいだ。
「見たい! 読みたい! 水瀬くんの、小説」
「いや……人に見せられるほどのものじゃない」
「見せてよーー」
この真っ直ぐな瞳で言われると、言葉が喉の奥でとろけてしまう。彼女に僕はめっきり弱い。言い訳を探すより先に、机の引き出しの中に手が伸びかけたのを、美優の言葉が止めてくれた。美優はこの中で一番空気の読める人だ。
「部長を困らせると、退部になるよ」
「それは困るっ!」
「っ……いつか、ちゃんと完成したら。見せるよ」
「約束だよ?」
彼女は、子どもみたいに屈託のない笑顔で言った。その笑顔を見ていると、小説を書く意味を見失いかけていた自分が、少しだけ恥ずかしくなる。
雨音が、ぱっと手を叩く。どうやら、この合図は彼女の切り替えの癖らしい。
「自己紹介も済んだし、さっそく、文藝部らしいことしようよ」
「……文藝部らしいこと?」
部長の僕も、眉間に皺を寄せた。
「そう。たとえばね――」
雨音はスカートを揺らしながら、くるりと部室を見渡す。
古い本棚。黄ばんだ文集。硝子戸の向こうに並ぶ、詩集やら古典やら。机の端に積まれた、未使用の原稿用紙の束。小さくうなづいて、決めた様子。
「手紙とか!」
「手紙!? やだよ、恥ずかしい」
やっぱり僕より先に美優がツッコミを入れる。
「私も美優も初心者。小説って、たぶん、すっごく難しいでしょ? 私だって、いきなり書ける気しないし。だからまず、練習に、手紙から始めたいなって」
確かに、賛否はあるが練習にはなる。彼女がそれで満足するんなら、僕は賛同しよう。
「いい練習になると思うよ」
「でしょ? 手紙なら、短くてもいいし。相手をひとりだけ思い浮かべて書けるでしょ?」
言われてみれば、そうかもしれない。
小説は、読者が見えない誰かだけど、手紙なら、ひとりに向けて書ける。
「それに、宮崎ってさ、日本で一番古いラブレターの話、あるの知ってる?」
「は? ラブ、レター?」
さっきよりも意味が分からなくなる。てっきり感謝の手紙くらいだろうと思っていたのに。
「ほら、社会の教科書にも、ちょこっと出てきたじゃん。神様の話。えっとね……」
雨音は眉間にしわを寄せて、記憶の引き出しを探る。
「天照大御神の、孫? だったかな。なんか、その人がさ、宮崎のどこかに降りてきて。そこで出会った女の人に『愛してます』って伝えるために、歌……っていうか、手紙みたいなのを送ったってやつ」
「……ニニギノミコトと、コノハナサクヤヒメの話?」
「それそれ! 教科書で見たとき、ラブレターの起源って書いてあってさ。日本最古のラブレターは、宮崎の神様なんだって。なんか、よくない?」
「いい、かな……?」
美優の開いた口は閉じない。
「ロマンチックじゃん!」
すごい理屈だ。暴走したイノシシみたいに、僕らを置いてけぼりに、真っ直ぐ突き進む。
「私たちの地元ってさ、何にもないとか言われがちだけど。ラブレターのスタート地点がここって思うと、ちょっとだけ好きになれるでしょ?」
「そこまで自虐しなくても……観光名所はたくさんあるよ」
「まぁ、事実だからね」
雨音は、制服のポケットからスマホを取り出した。画面をポンポンッと操作して、僕らの目の前に突き出してくる。
「それから、これ、見て」
画面に映っていたのは、海辺の風景写真だった。夕暮れ前の、まだ青い空。観光名所の青島に繋がる橋の袂に、ひときわ目を引く黄色いポストがぽつんと立っている。
「……黄色い、ポスト?」
「そう。幸せを呼ぶ黄色いポスト、なんだって」
雨音の声が、少しだけ柔らかくなる。
「小さい頃、お父さんとお母さんに連れていってもらったことがあってね。そこに手紙を出すと、幸せになれるんだって。まぁ……観光名所あるあるの、キャッチコピーかもしれないけど、私は信じてる」
「へぇ……そんなの、あるんだ」
「いつかね、本当に大事な人に手紙を書くときは、そこから出したいなって。子どもの頃、思ったんだよね」
「……本当に、大事な人」
そのフレーズだけ、やけに耳に残った。彼女は、スマホを見つめたまま、一瞬だけ表情を曇らせる。
「だから、手紙、書いてみたいの。ちゃんと。ラブレターってほど重くなくてもいいから。誰かに、ちゃんと届く言葉を綴りたい」
父に言われた言葉が、頭をよぎる。夢見がちなことばかり言ってると、心配されるぞ。そんなことはない。あってたまるか。届かない小説かもしれない。読まれない文章かもしれない。それでも、書いてしまうのは、いつか誰かに届いて欲しいから。僕も彼女と同じ気持ちだ。理解できる。
「練習なら……」
僕は、ごくりと喉を鳴らして言った。
「いいと思うよ。手紙を書くの、文藝部の立派な活動だよ」
「やったぁ!」
雨音が、子どもみたいに両手をあげて喜ぶ。
美優はその横で、複雑そうな顔をしていた。
「でもさ、誰に書くの?」
美優の疑問は、至極真っ当だ。
「ラブレターの練習ってことは、本命じゃないってことでしょ? 練習台にされる人、かわいそうじゃない?」
「んーー……」
雨音は頬に指を当てて、しばらく考え込むふりをしたあと、迷いなく言った。
「美優ちゃん」
「は?」
「手紙の第一号は、美優ちゃんに書く」
「ちょっと待って!? なんでそうなるの!?」
「だって、昔よくお手紙交換してたじゃん。最近してないし、美優ちゃんに書きたい!」
あまりにもまっすぐな答えに、美優が言葉を失う。同情するよ。僕は、静かにふたりを見守った。
「中学の時から、ずっと傍にいてくれたし。たぶんね、美優ちゃんがいなかったら、私、ここまでたどり着いてないから」
「ここまで……?」
「文藝部の扉とか?」
「連れてきたこと、後悔してるけどね」
ツッコミながらも、美優の耳たぶが、うっすら赤くなっている。照れくさい空気が、部室をふわっと満たした。美優は少しだけ黙り込んだあと、観念したように溜息をついた。
「……いいよ。私で。どうせ断っても、雨音のことだから勝手に書くでしょ。私も書くよ」
「さすが、美優ちゃん! 私には激甘だね」
「そこ褒めポイントじゃないから!」

確か、どこかで見た気がする。
僕は、部室の隅に置いてあった引き出しをがさごそ漁り、未使用の便箋と封筒を取り出した。前の顧問の先生が、やたらと文藝っぽさにこだわって買ってきたやつだ。少しクリーム色がかった紙と、同じ色の封筒。端っこに、さりげなく羽根ペンのワンポイントが印刷されている。
「じゃあ、書いてみようか」
「うわ、かわいい……!」
雨音が目をきらきらさせる。
「じゃあ、これ使って。ペンはそのペン立てから好きなのどうぞ」
「美優ちゃん、どれがいい?」
「なんで私に聞くの……。じゃあ、この茶色のボールペン。書きやすそう」
「私、ピンク色のにする!」
椅子を引いて、雨音は机に向かって座った。
美優はその横に、うつ伏せに近い体勢で頬杖をつく。
「ねぇ、親愛なるってつけたほうがいいと思う?」
「いや、それは急に距離感バグるからやめよ」
「じゃあ、拝啓 美優様へ……」
「もっとバグったよ!」
美優のツッコミが、雨音のペン先を止める。僕はその様子を少し離れた席から眺めながら、自分のノートを広げた。
……とはいえ、今から小説を書き始める気力はない。空中にペン先で、なんとなく、適当な文字の輪郭をぐにゃぐにゃと書いてみる。
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が、部室の扉を叩いた。
雨音と美優と僕。三人同時に顔を上げる。
ずっと来客なんてなかった部室だぞ? もうこれ以上のイベントは発生しないでくれ。
「あのーー……」
扉が、少しだけ開く。
そこから、緊張したような男の声が覗いた。
「……文藝部って、ここで合ってます?」
名前はすぐに出てこないが、顔には見覚えがある。たしか、同じクラスで、陽キャグループにいるのに、いつも真面目そうにノートを取っている。たしか、サッカー部に所属してたはずだけど。
「え、慎也!?」
美優が、驚いたように立ち上がる。
「なんであんたがここにいんの」
「なんでって……」
慎也は、照れくさそうに後頭部をかいた。
「美優と雨音で、廃部寸前の文藝部を救うんだろ? 噂で聞いたから。んーと……いち、に、さん、俺で四人。足りる?」
「誰も頼んでないんだけど……」
「お! 水瀬じゃん! お前、文藝部だったんだな!」
「水瀬くんは、部長さんなんだよ!」
雨音と美優、この慎也を含めて、幼稚園の時からの幼なじみらしい。
慎也の視線が、雨音と美優と僕の間を行き来した。
最後に、美優のところで、ぴたりと止まる。
「……なんか、楽しそうだな。俺も入部しようかな」
その一言に、雨音の口元がにやりと吊り上がる。
美優は、嫌な予感がしたのか、一歩後ずさった。
「ふーん?」
雨音が、じりじりと慎也に近づいていく。
「ねぇ慎也くん」
「な、なに?」
「本、好き?」
「す、好き……だと思う。小説とか、よく読むし。ラノベだけど」
ふんふんと、雨音は小さく首を動かす。
「美優ちゃんのことは?」
「は!? な、なに聞いてんの!? 雨音!!」
美優の悲鳴に似た声と同時に、慎也の耳まで真っ赤になった。分かりやすいにもほどがある。さては、それが目当てで文藝部に来たんだなと、僕のアンテナが察する。
「まぁ、まぁ、その辺は、追々、ね」
雨音が、いたずらっぽく笑う。
「とりあえず、ようこそ。文藝部へ」
「おい! 勝手に決めないでよ。部長は僕……」
「俺だって、まだ見学だし……」
「ようこそ!」
強制的に、慎也の入部が確定した。慎也は観念したように肩を落としながらも、どこか嬉しそうに部屋の中を見渡している。立場をなくした僕もガックリと項垂れる。僕の平穏も、なにもかも、八雲雨音が奪っていく。
「なんか……いいな、こういう部屋」
「でしょ!?」
なぜが、雨音が胸を張る。
「ここはね。言葉がたまってく場所なんだよ。これからもっと、増やしていこ!」
その言葉に、僕の胸の奥で、何かが小さく鳴った。誰にも読まれないと思っていたノート。置いていくだけだと思っていた言葉たち。もしかしたら、この狭い部屋から、どこかに届くのかもしれない。
窓ガラスの向こうで、雲の隙間から、夕陽がのぞく。
薄い光が、黄ばんだ文集の背表紙を、ほんの少しだけ明るくしていた。
この日から、文藝部は、ひとりきりの居場所ではなくなった。