あの日のことを、僕はずっと忘れられないだろう。
十七歳、春。
僕は一向に沈まないウキを、ただただぼんやりと見つめていた。日の入りから始めて、もうかれこれ一時間。釣果はゼロ。アタリすらない。
微動だにしないウキは、まるで僕の青春みたいだと、自分を揶揄するように笑った。汗を流してスポーツに勤しむこともなく、恋愛にも疎い。部活だってたった一人の文藝部員。クラスの中でも浮いた存在だ。休み時間も、クラスメイトの会話に混ざることもない。時間が惜しいんだ。僕の夢である小説家になるために、ノートに文字を書き殴っているから。
学校が終わると、僕はまっすぐにこの場所を目指す。手際よく仕掛けを用意し、鞄に入れた振り出し竿を海に伸ばす。
釣りは田舎暮らしの趣味の代表格だ。
僕の住んでいる町は、宮崎県の中でも有数の港町。近海カツオの一本釣りは日本一の水揚げ量で有名。だから、釣り場に困ることもないし、ゆったりとした時間に身を任せるのが県民性にも合っているのかもしれない。僕ら子供には娯楽の少ない町だから、ちょうどいい暇つぶしになる。それに相手もいらない。ひとりで楽しめる。
ウキの様子をじっと伺うだけの、この時間も嫌いじゃない。
その時間に、物思いにふけったり妄想をする。これが僕の楽しみ。いや、サボってるわけじゃないよ。真っ当に部活をしている。折りたたみ式のアウトドアチェアに深く腰かけ、灯台の灯りと、傍らに置いたランタンの灯りを頼りに、次の小説の構想を考えたり。 僕は同時にふたつの趣味を楽しんでるわけだ。
人と関わることが嫌いってわけじゃない。友情を否定する訳でもない。友情は素晴らしいものだと思う。ただ、僕は、僕だけの平穏な時間と空気を邪魔されるのを嫌っているだけ。これは僕だけのものだから。って、我儘な発想だけど、誰にも迷惑をかけてないんだからいいだろう? なんて捻くれた僕だから、友達付き合いを避けている。
ちゃぷちゃぷと壁を打つ水の音が心地いい。生まれた時から身近にある磯の香りも安心する。僕の家からも海が見えるし、漁師だった祖父に連れられて港にはよく遊びに来ていた。
今夜はベタ凪の海面に、鏡に映るように満月が浮かんでいる。
「綺麗だな……」
僕は持っていたペンを、美大生がデッサンで構えるように突き立て、それ越しに海面の月を睨む。僕ならどう書くだろうと眉間に皺を寄せながら。思いつくのは、あの有名な一節。
『あなたといると、月がとても綺麗です』
あぁ、なんて惚れ惚れする表現だろう。かの文豪達は、どうしてこんなにも心を打つ文字を綴れるのか。
思い出したように、深いため息をつく。
小説家は僕のあこがれであり、夢だ。
知ってるよ。現実は甘くない。
先日発表があった『春の小説甲子園』と題打たれたネットの公募の結果を、さっき目の当たりにしたばかり。当然、僕もこの公募に作品を送った。会心の作……だと思い込んでいた物を。一年もかけて準備したんだ。だけど、所詮は井の中の蛙。小説界隈の大海を知らず。地元から一歩も出たことの無い僕にとって、文学の海は遥かに広大で、真っ暗で底が見えないほどに暗く深い。だから、結果は察しの通り。落選。惨敗もいい所だ。徹夜で、片っ端から最終選考の作品を読み漁って、ひとつ、ふたつしか歳の変わらない受賞者の作品に嫌ってほど格の違いを見せられた。投稿サイトで、僕の作品を読んだ読者だろうか? 匿名の人物から、心無い感想のダイレクトメッセージまで届いた挙句「どうせ僕には才能なんて……」と勝手に落ち込む。
作品の閲覧数も横ばいだ。僕の言葉を読んでくれる人なんて、いないんじゃないか?
僕の精神状態は平然を装ってはいるが、内心はボロボロの状態。使い古したTシャツみたいに、目も当てられないくらいダメージを負っている訳だ。
だから、今日は一文字もノートに書いていない。
はぁ、溜息が尽きないや。
忘れるために、さっさと帰って寝てしまった方がいいか。放っておくと、烏滸がましくも太宰先生みたいに目の前の海に飛び込んでしまいそうだ。飛び込んで大文豪に生まれ変われるなら喜んで飛び込むけど。そんな事はありえない話だから止めておこう。
もう、書くのを辞めてしまおうか?
そんな弱気な気持ちが頭をよぎる。ははっ、本音かもしれない。正直、僕は何のために小説を書いているのか分からなくなっている。
視界に白い何かがチラつく。
はらり、はらりと、空から何かが落ちてくる。
真っ白い封筒に、赤い封蝋。それが僕の足元に落ちた。
「これは、手紙か……?」
今度は、後ろでドサッと鈍い音がする。落ちていたのは僕の通う高校のカバンだ。でも、僕のじゃない。少し空いたジッパーの隙間から、教科書とノートがはみ出している。それから、滑り出たように生徒手帳が傍らに落ちている。
「えっと……誰かいますかーー? カバン落としましたよ」
普段声を出すことの方が少なくて、か細い声は海風にかき消される。上を見上げてみるが、灯台には誰もいない。そもそも、この灯台は海上保安庁の職員しか立ち入れないはず。
僕は生徒手帳を拾い上げた。
『八雲雨音』知らない名前だ。学年は同じ。一度も僕と接点を持ったことがない人物。じゃあ、親切心をわざわざ見せることもないか。それに関わらない方が、僕の日常が平和なままかもしれない。そう思い、生徒手帳を落ちていた場所に戻す。そして、顔を上げた僕の視界に、ありえない光景が飛び込んでくる。
「嘘だろ……!?」
今度は、はっきりと声が出た。
「あ、あの!! 大丈夫ですか!?」
もう一度、叫ぶ。
世界がスローモーションに包まれたように、その時間はゆっくりと見えた。空から少女が降ってくる。
月夜に照らされたシルエット。
靡く黒い髪は、艶めかしくて。
どこか異様だが、美しい光景だった。
【翼の折れた制服の天使が、空から堕ちてきた。】
こんな時でも、小説脳が働いてしまう。そんなフレーズが頭の中にチラついた。
白い肌の腕が、儚げに力をなくし、ぐったりとしている。
僕の母の日課、風呂上がりのヨガの最後にしているポーズに似ている。なんて言ったっけ……確か亡骸のポーズ? いや、縁起の悪いことを考えるな。たぶん彼女は死んでない! 僕は呆気にとられて固まっているけど、いや、今この瞬間も彼女は落下しているのだ。
彼女を助けなきゃ!
「八雲さん! 八雲さーーん!!」
名前を叫んでみるが反応無し。そして、ものの数秒でバシャーン! と大きな飛沫をあげ、凪に浮かぶ月に彼女は堕ちた。
「うるせぇぞ!魚が逃げるだろうが!」
少し離れた場所で竿を出していたおじさんの怒号が飛ぶ。その声の方が五月蝿いのに! 今はそれどころじゃない。
ぷくぷくと、気泡が歪に揺れる月のシルエットの中心に浮かんでくるが、肝心の彼女本体が浮かんでくる気配が無い。
「人が海に落ちました!! きゅ、救急車を!」
僕は精一杯の大声で、おじさんに事態を伝える。
「え!? ま、待ってろ! すぐに連絡をする」
おじさんは慌てて携帯電話を取りに戻った。
それから……もう選択の余地は無い。飛び込む? 救助を待つ? そんな考えてる猶予もなし。確かこの漁港の水深は3メートル。いける。僕は上着だけ脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。海面の月の真ん中まで泳ぎ、海の中を覗き込む。
彼女はゆっくり、静かに沈んでいく途中だった。
僕は大きく息を吸って肺に溜め込み、体をコの字に折る。それから真っ直ぐ彼女に手を伸ばし、ゆっくり大きく海を蹴った。
スーッと沈んでいく。
ぐんぐんと彼女と距離が縮まる。
めいっぱい伸ばした手で彼女の左手首を掴み、今度は全力で水面を目指す。服が体にまとわりついて泳ぎにくい。それに月の引力みたいに、底に引きずり込まれるような感覚で体が重い。
あと2メートル。
コポコポと耳に響く水の音に、僕の焦った心音が混ざる。彼女に当たらない様、必死にバタ足を繰り返す。間に合ってくれ!
あと1メートル。
間に合え……。僕は最後の力を振り絞って水を蹴り、先に彼女を水面に引っ張りあげた。
「ぷはぁ!」
僕も顔を出す。口の中が塩っ辛い。
「八雲さん! 八雲さん!!」
僕は彼女の名前を何度も呼んだ。
「んっ……げほっ、こほっ」
「八雲さん!? 平気?」
彼女は薄らと目を開き、小さく頷く。
「ほら! お前たち、これに掴まれ!!」
釣り人のおじさんから救命浮き輪が投げ込まれた。
「八雲さん、ほら、捕まって!」
僕は彼女の傍に浮き輪を引き寄せると、彼女はそれをしっかりと捕まえた。
「もう大丈夫!」
彼女を支えながら護岸階段を上り終えると、僕は仰向けで倒れた。はぁはぁと息が荒い。この華奢な体を見ればわかるだろう、体力なんてあるわけない。極度の緊張から解き放たれたのか、僕は眠るように意識を失っていた。
ぼんやりと、誰かに名前を呼ばれている気がした。
まだ、耳に水が入っているのか、こもった声で。
「……水瀬くん、起きて。ねぇ、水瀬くん」
女の子の声だ。なんで僕の名前を知ってるんだろう?
「水瀬くん!!」
そうだ、僕は彼女を助けるために……!
重たいまぶたを無理やり押し上げると、白い天井が視界いっぱいに広がった。
海の匂いはしない。代わりに、アルコールの匂いがする。
「ここ、病院……?」
情けないくらい掠れた声で呟くと、すぐ横からくすりと笑う気配がした。
「そうだよ。ほら、目、ちゃんと開けて」
ゆっくりと視線を動かすと、僕のベッドと同じ高さに並んだ簡易ベッドがある。その上で、さっき空から落ちてきた八雲雨音が横になっていた。
「病院のベッドで、同じ目線で話してるなんて、変な感じだなぁ……」
まだ乾ききっていない髪が肩に貼りついていて、頬も少しだけ青ざめている。そう言って、小さく笑った彼女と目が合った瞬間、安堵の溜息が漏れた。
「……無事で、よかった」
つい本音が漏れると、雨音はきょとんとした顔をして、それからゆっくり笑った。透き通るような、ふわりと消えてしまいそうな笑みだった。
「助けてくれて、ありがとう。水瀬くん」
「いや……当たり前でしょ。目の前で落ちたんだ。誰だって飛び込むよ」
「ふふ、普通は飛び込まないよ。だって夜の海だよ? 怖いよ? 一緒に溺れるかもしれないのに」
確かにそうだ。溺れている人を助けるために水に入るのは危険だって、習った記憶もある。
「いや、まぁ……そうなんだけど」
反論しようとして、言葉が詰まった。
確かに怖かった。胃の奥がひっくり返るほど。
でも、僕は飛び込んだ。
なんでだ?
僕にとって、他人なんてどうでもいいはずなのに。
アスリートがよく言う、瞬間的に、脳よりも先に細胞が反応したって感覚。僕に備わってるはずないスペックだ。
「ごめんね。びっくりさせたよね」
心を見透かすように、彼女は小さく舌を出して笑う。
「……普通はびっくりするよ」
「普通じゃない落ちかた、しちゃったしね」
朗らかに言うから、逆に困る。
もっと深刻な顔していい場面だと思うのに。
「水瀬くん。痛いところ、ない?」
「あ、うん……たぶん。全身がだるいくらいで」
僕の心配じゃなくて、自分の心配をしろよ! なんて心の中で小さくツッコミを入れる。けど、彼女は相変わらずだ。
「ほんとに、ありがとう。あのままだったら……私、たぶん、後悔してたと思うから」
「いや……でもさ、君は……」
僕は最悪な答えが返ってくるんじゃないかと、一瞬躊躇した。彼女は、大きな瞳で僕を見つめながら次の言葉を待っている。仕方ないと、心を決めて尋ねた。
「君は、どうしてあんなところから……?」
そこまで言いかけると、彼女は少しだけ視線をそらした。やっぱり触れちゃいけないことだったか? ごめんと言おうとしたが、喉に引っかかる。
窓の外に滲む月明かりが、彼女の横顔を淡く照らしていた。
ぽつりと彼女は言う。
「……秘密。それ言ったら、水瀬くん、困っちゃうかも」
「困るって、なんだよそれ。ちゃんと話してよ」
「うん。でも言わない。今じゃないの……たぶん」
曖昧な返事だった。
命の恩人を目の前にして? 空から落ちてきたんだぞ? 普通なら突っ込みどころ満載なのに。それで納得できるなら警察なんていらないだろ。
「いつか、君にはちゃんと伝えるから」
僕は、なぜかそれ以上聞けなかった。
彼女の声は、ガラスみたいに透明で、その秘密に触れてしまえば、すぐに割れて崩れてしまいそうな気がした。
「今日は、ほんとに……ありがとね」
小さく呟いた彼女の手が、ベッド越しにそっと伸びる。
僕もつられて手を動かす。指先が、ちょんと触れた。まだ少し冷たい指先から、僅かな熱を感じる。生きてる。
「あっ……」
言いかけて、言葉が迷子になる。
なにを言えばいいのかわからない。
こんな気持ち、初めてだ。
彼女は、変わらずに僕をじっと見つめていた。
薄い琥珀色の瞳が、僕の動揺を全部読み取ってしまうんじゃないかと、ドキッとする。
「ふふ。水瀬くんってさ、優しいね」
「や……優しくないよ。普通だよ」
「普通じゃないよ。だって、私さ君に……」
彼女はどこか、寂しい顔をする。
言いかけた言葉の端は、アルコールの香りの中に、すぐに溶けて消えていった。
十七歳、春。
僕は一向に沈まないウキを、ただただぼんやりと見つめていた。日の入りから始めて、もうかれこれ一時間。釣果はゼロ。アタリすらない。
微動だにしないウキは、まるで僕の青春みたいだと、自分を揶揄するように笑った。汗を流してスポーツに勤しむこともなく、恋愛にも疎い。部活だってたった一人の文藝部員。クラスの中でも浮いた存在だ。休み時間も、クラスメイトの会話に混ざることもない。時間が惜しいんだ。僕の夢である小説家になるために、ノートに文字を書き殴っているから。
学校が終わると、僕はまっすぐにこの場所を目指す。手際よく仕掛けを用意し、鞄に入れた振り出し竿を海に伸ばす。
釣りは田舎暮らしの趣味の代表格だ。
僕の住んでいる町は、宮崎県の中でも有数の港町。近海カツオの一本釣りは日本一の水揚げ量で有名。だから、釣り場に困ることもないし、ゆったりとした時間に身を任せるのが県民性にも合っているのかもしれない。僕ら子供には娯楽の少ない町だから、ちょうどいい暇つぶしになる。それに相手もいらない。ひとりで楽しめる。
ウキの様子をじっと伺うだけの、この時間も嫌いじゃない。
その時間に、物思いにふけったり妄想をする。これが僕の楽しみ。いや、サボってるわけじゃないよ。真っ当に部活をしている。折りたたみ式のアウトドアチェアに深く腰かけ、灯台の灯りと、傍らに置いたランタンの灯りを頼りに、次の小説の構想を考えたり。 僕は同時にふたつの趣味を楽しんでるわけだ。
人と関わることが嫌いってわけじゃない。友情を否定する訳でもない。友情は素晴らしいものだと思う。ただ、僕は、僕だけの平穏な時間と空気を邪魔されるのを嫌っているだけ。これは僕だけのものだから。って、我儘な発想だけど、誰にも迷惑をかけてないんだからいいだろう? なんて捻くれた僕だから、友達付き合いを避けている。
ちゃぷちゃぷと壁を打つ水の音が心地いい。生まれた時から身近にある磯の香りも安心する。僕の家からも海が見えるし、漁師だった祖父に連れられて港にはよく遊びに来ていた。
今夜はベタ凪の海面に、鏡に映るように満月が浮かんでいる。
「綺麗だな……」
僕は持っていたペンを、美大生がデッサンで構えるように突き立て、それ越しに海面の月を睨む。僕ならどう書くだろうと眉間に皺を寄せながら。思いつくのは、あの有名な一節。
『あなたといると、月がとても綺麗です』
あぁ、なんて惚れ惚れする表現だろう。かの文豪達は、どうしてこんなにも心を打つ文字を綴れるのか。
思い出したように、深いため息をつく。
小説家は僕のあこがれであり、夢だ。
知ってるよ。現実は甘くない。
先日発表があった『春の小説甲子園』と題打たれたネットの公募の結果を、さっき目の当たりにしたばかり。当然、僕もこの公募に作品を送った。会心の作……だと思い込んでいた物を。一年もかけて準備したんだ。だけど、所詮は井の中の蛙。小説界隈の大海を知らず。地元から一歩も出たことの無い僕にとって、文学の海は遥かに広大で、真っ暗で底が見えないほどに暗く深い。だから、結果は察しの通り。落選。惨敗もいい所だ。徹夜で、片っ端から最終選考の作品を読み漁って、ひとつ、ふたつしか歳の変わらない受賞者の作品に嫌ってほど格の違いを見せられた。投稿サイトで、僕の作品を読んだ読者だろうか? 匿名の人物から、心無い感想のダイレクトメッセージまで届いた挙句「どうせ僕には才能なんて……」と勝手に落ち込む。
作品の閲覧数も横ばいだ。僕の言葉を読んでくれる人なんて、いないんじゃないか?
僕の精神状態は平然を装ってはいるが、内心はボロボロの状態。使い古したTシャツみたいに、目も当てられないくらいダメージを負っている訳だ。
だから、今日は一文字もノートに書いていない。
はぁ、溜息が尽きないや。
忘れるために、さっさと帰って寝てしまった方がいいか。放っておくと、烏滸がましくも太宰先生みたいに目の前の海に飛び込んでしまいそうだ。飛び込んで大文豪に生まれ変われるなら喜んで飛び込むけど。そんな事はありえない話だから止めておこう。
もう、書くのを辞めてしまおうか?
そんな弱気な気持ちが頭をよぎる。ははっ、本音かもしれない。正直、僕は何のために小説を書いているのか分からなくなっている。
視界に白い何かがチラつく。
はらり、はらりと、空から何かが落ちてくる。
真っ白い封筒に、赤い封蝋。それが僕の足元に落ちた。
「これは、手紙か……?」
今度は、後ろでドサッと鈍い音がする。落ちていたのは僕の通う高校のカバンだ。でも、僕のじゃない。少し空いたジッパーの隙間から、教科書とノートがはみ出している。それから、滑り出たように生徒手帳が傍らに落ちている。
「えっと……誰かいますかーー? カバン落としましたよ」
普段声を出すことの方が少なくて、か細い声は海風にかき消される。上を見上げてみるが、灯台には誰もいない。そもそも、この灯台は海上保安庁の職員しか立ち入れないはず。
僕は生徒手帳を拾い上げた。
『八雲雨音』知らない名前だ。学年は同じ。一度も僕と接点を持ったことがない人物。じゃあ、親切心をわざわざ見せることもないか。それに関わらない方が、僕の日常が平和なままかもしれない。そう思い、生徒手帳を落ちていた場所に戻す。そして、顔を上げた僕の視界に、ありえない光景が飛び込んでくる。
「嘘だろ……!?」
今度は、はっきりと声が出た。
「あ、あの!! 大丈夫ですか!?」
もう一度、叫ぶ。
世界がスローモーションに包まれたように、その時間はゆっくりと見えた。空から少女が降ってくる。
月夜に照らされたシルエット。
靡く黒い髪は、艶めかしくて。
どこか異様だが、美しい光景だった。
【翼の折れた制服の天使が、空から堕ちてきた。】
こんな時でも、小説脳が働いてしまう。そんなフレーズが頭の中にチラついた。
白い肌の腕が、儚げに力をなくし、ぐったりとしている。
僕の母の日課、風呂上がりのヨガの最後にしているポーズに似ている。なんて言ったっけ……確か亡骸のポーズ? いや、縁起の悪いことを考えるな。たぶん彼女は死んでない! 僕は呆気にとられて固まっているけど、いや、今この瞬間も彼女は落下しているのだ。
彼女を助けなきゃ!
「八雲さん! 八雲さーーん!!」
名前を叫んでみるが反応無し。そして、ものの数秒でバシャーン! と大きな飛沫をあげ、凪に浮かぶ月に彼女は堕ちた。
「うるせぇぞ!魚が逃げるだろうが!」
少し離れた場所で竿を出していたおじさんの怒号が飛ぶ。その声の方が五月蝿いのに! 今はそれどころじゃない。
ぷくぷくと、気泡が歪に揺れる月のシルエットの中心に浮かんでくるが、肝心の彼女本体が浮かんでくる気配が無い。
「人が海に落ちました!! きゅ、救急車を!」
僕は精一杯の大声で、おじさんに事態を伝える。
「え!? ま、待ってろ! すぐに連絡をする」
おじさんは慌てて携帯電話を取りに戻った。
それから……もう選択の余地は無い。飛び込む? 救助を待つ? そんな考えてる猶予もなし。確かこの漁港の水深は3メートル。いける。僕は上着だけ脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。海面の月の真ん中まで泳ぎ、海の中を覗き込む。
彼女はゆっくり、静かに沈んでいく途中だった。
僕は大きく息を吸って肺に溜め込み、体をコの字に折る。それから真っ直ぐ彼女に手を伸ばし、ゆっくり大きく海を蹴った。
スーッと沈んでいく。
ぐんぐんと彼女と距離が縮まる。
めいっぱい伸ばした手で彼女の左手首を掴み、今度は全力で水面を目指す。服が体にまとわりついて泳ぎにくい。それに月の引力みたいに、底に引きずり込まれるような感覚で体が重い。
あと2メートル。
コポコポと耳に響く水の音に、僕の焦った心音が混ざる。彼女に当たらない様、必死にバタ足を繰り返す。間に合ってくれ!
あと1メートル。
間に合え……。僕は最後の力を振り絞って水を蹴り、先に彼女を水面に引っ張りあげた。
「ぷはぁ!」
僕も顔を出す。口の中が塩っ辛い。
「八雲さん! 八雲さん!!」
僕は彼女の名前を何度も呼んだ。
「んっ……げほっ、こほっ」
「八雲さん!? 平気?」
彼女は薄らと目を開き、小さく頷く。
「ほら! お前たち、これに掴まれ!!」
釣り人のおじさんから救命浮き輪が投げ込まれた。
「八雲さん、ほら、捕まって!」
僕は彼女の傍に浮き輪を引き寄せると、彼女はそれをしっかりと捕まえた。
「もう大丈夫!」
彼女を支えながら護岸階段を上り終えると、僕は仰向けで倒れた。はぁはぁと息が荒い。この華奢な体を見ればわかるだろう、体力なんてあるわけない。極度の緊張から解き放たれたのか、僕は眠るように意識を失っていた。
ぼんやりと、誰かに名前を呼ばれている気がした。
まだ、耳に水が入っているのか、こもった声で。
「……水瀬くん、起きて。ねぇ、水瀬くん」
女の子の声だ。なんで僕の名前を知ってるんだろう?
「水瀬くん!!」
そうだ、僕は彼女を助けるために……!
重たいまぶたを無理やり押し上げると、白い天井が視界いっぱいに広がった。
海の匂いはしない。代わりに、アルコールの匂いがする。
「ここ、病院……?」
情けないくらい掠れた声で呟くと、すぐ横からくすりと笑う気配がした。
「そうだよ。ほら、目、ちゃんと開けて」
ゆっくりと視線を動かすと、僕のベッドと同じ高さに並んだ簡易ベッドがある。その上で、さっき空から落ちてきた八雲雨音が横になっていた。
「病院のベッドで、同じ目線で話してるなんて、変な感じだなぁ……」
まだ乾ききっていない髪が肩に貼りついていて、頬も少しだけ青ざめている。そう言って、小さく笑った彼女と目が合った瞬間、安堵の溜息が漏れた。
「……無事で、よかった」
つい本音が漏れると、雨音はきょとんとした顔をして、それからゆっくり笑った。透き通るような、ふわりと消えてしまいそうな笑みだった。
「助けてくれて、ありがとう。水瀬くん」
「いや……当たり前でしょ。目の前で落ちたんだ。誰だって飛び込むよ」
「ふふ、普通は飛び込まないよ。だって夜の海だよ? 怖いよ? 一緒に溺れるかもしれないのに」
確かにそうだ。溺れている人を助けるために水に入るのは危険だって、習った記憶もある。
「いや、まぁ……そうなんだけど」
反論しようとして、言葉が詰まった。
確かに怖かった。胃の奥がひっくり返るほど。
でも、僕は飛び込んだ。
なんでだ?
僕にとって、他人なんてどうでもいいはずなのに。
アスリートがよく言う、瞬間的に、脳よりも先に細胞が反応したって感覚。僕に備わってるはずないスペックだ。
「ごめんね。びっくりさせたよね」
心を見透かすように、彼女は小さく舌を出して笑う。
「……普通はびっくりするよ」
「普通じゃない落ちかた、しちゃったしね」
朗らかに言うから、逆に困る。
もっと深刻な顔していい場面だと思うのに。
「水瀬くん。痛いところ、ない?」
「あ、うん……たぶん。全身がだるいくらいで」
僕の心配じゃなくて、自分の心配をしろよ! なんて心の中で小さくツッコミを入れる。けど、彼女は相変わらずだ。
「ほんとに、ありがとう。あのままだったら……私、たぶん、後悔してたと思うから」
「いや……でもさ、君は……」
僕は最悪な答えが返ってくるんじゃないかと、一瞬躊躇した。彼女は、大きな瞳で僕を見つめながら次の言葉を待っている。仕方ないと、心を決めて尋ねた。
「君は、どうしてあんなところから……?」
そこまで言いかけると、彼女は少しだけ視線をそらした。やっぱり触れちゃいけないことだったか? ごめんと言おうとしたが、喉に引っかかる。
窓の外に滲む月明かりが、彼女の横顔を淡く照らしていた。
ぽつりと彼女は言う。
「……秘密。それ言ったら、水瀬くん、困っちゃうかも」
「困るって、なんだよそれ。ちゃんと話してよ」
「うん。でも言わない。今じゃないの……たぶん」
曖昧な返事だった。
命の恩人を目の前にして? 空から落ちてきたんだぞ? 普通なら突っ込みどころ満載なのに。それで納得できるなら警察なんていらないだろ。
「いつか、君にはちゃんと伝えるから」
僕は、なぜかそれ以上聞けなかった。
彼女の声は、ガラスみたいに透明で、その秘密に触れてしまえば、すぐに割れて崩れてしまいそうな気がした。
「今日は、ほんとに……ありがとね」
小さく呟いた彼女の手が、ベッド越しにそっと伸びる。
僕もつられて手を動かす。指先が、ちょんと触れた。まだ少し冷たい指先から、僅かな熱を感じる。生きてる。
「あっ……」
言いかけて、言葉が迷子になる。
なにを言えばいいのかわからない。
こんな気持ち、初めてだ。
彼女は、変わらずに僕をじっと見つめていた。
薄い琥珀色の瞳が、僕の動揺を全部読み取ってしまうんじゃないかと、ドキッとする。
「ふふ。水瀬くんってさ、優しいね」
「や……優しくないよ。普通だよ」
「普通じゃないよ。だって、私さ君に……」
彼女はどこか、寂しい顔をする。
言いかけた言葉の端は、アルコールの香りの中に、すぐに溶けて消えていった。



