「ありがとう」と、「ごめんね」と、それから。

好きな人の声がする。
私の名前を何度も呼んでいる。

どれくらい寝ていたんだろう?
起きなければと、重たい瞼を必死に開く。瞼の隙間から、柔らかい光が照らす。幕が上がる様に、ぼやけた視界が広がっていく。
「あっ……」
声を出したつもりなのに、空気に溶けた。
喉が乾いている。
身体は思ったより軽くて、でも、力が入らない。
見慣れた天井。無機質な白い病室。私はベットの上。
「遥斗くん……?」
名前が自然とこぼれる。よかった。私、まだ君のことちゃんと覚えてる。
随分と長い夢を見ていた気がする。
大切なものを、たくさん抱えたまま、深いところまで潜っていた感覚が、まだ身体に残っている。
腕に繋がれた 点滴の管と、心電図の小さな音。
私は生きてるんだ、と遅れて実感する。
私は、ゆっくりと上体を起こす。
ベッド脇の棚に、いくつか私物が置いてあった。

ミネラルウォーター。
スマートフォン。
眼鏡。
母のバッグ。
それから──。
一冊の本が、そこにあった。
表紙は少し擦れていて、角が丸くなっている。
何度も、何度も、開いた跡。
『星屑の郵便局』
私の、大好きな本だ。
その上に封筒が置かれている。
見覚えのある、白い封筒。
「私、まだ最後の手紙……渡してないのかな?」
心臓が、どくん、と音を立てた。
「これで……さよなら、なのかな」
ひとりぼっちの世界が、静かすぎる。
私は、そっと封筒を持ち上げた。
おかしい。私が書いた手紙は黒い封蝋をしたはず。
この手紙は、緑色の封蝋だ。

ゆっくりと、封を開く。


『八雲雨音さんへ

この手紙を、君がどこで読んでいるのか、僕には分からない。病室かもしれないし、もしかしたら、もう少し遠い場所かもしれないね。

それでも、君に向けて書いている。

ごめん。僕は、君のことを忘れていた。
君の名前も、声も、全部。
忘れていたくせに、胸の奥にずっと穴が空いていて、それが君だったんだって、あとから気づいた。

失いたくないのは君だ……なんて言ってさ。
最低だと思う。

君がひとりで抱えていた時間の重さを、
僕は知らないふりをして生きてきた。

それでも、君は手紙を書いてくれたんだね。
ありがとうって。
ごめんねって。
それから──。

だから、今度は僕の番だ。

君が怖がっていたこと、ちゃんと分かった。
好きになってもらったまま、忘れられること。
それが一番、残酷だってこと。

もう、忘れないよ。

もし君が目を覚まして、僕のことを覚えていなかったとしても、それでもいい。

その時は、また書くよ。
何度でも。何度でも届けるよ。

君が目を覚ました世界で、また会えたらいいな。
会えなくても、この言葉が届いたらいいな。

でも──。
もし、選べるならさ。
もう一度、君の隣に立ちたいよ。

好きです。
僕は君が好きだよ、雨音。

水瀬遥斗』



便箋を読み終えても、しばらく、指が離れなかった。
文字が、まだそこにあるか確かめるみたいに、何度も、何度もなぞる。
「……ばか」
声が、震えた。
私のわがままで忘れたんだよ。私のせいなのに、それなのに、こんなに真っ直ぐな言葉で。胸の奥が、じんわり熱くなる。悲しくない。苦しくもない。ちゃんと、届いたんだね。
私が書いた手紙も。君が選んだ言葉も。
「……もう、ずるいよ」
でも、笑ってしまった。
忘れられるのが怖かった。
好きなまま、消えてしまうのが怖かった。
その全部に、答えが返ってきた。

「私も、遥斗くんが大好きです」

それだけで、十分だった。

病室のドアの前に誰かいる。
コン、と控えめな音でノックする。
視線を上げると、病室のドアが、ゆっくり開いた。

「……失礼します」

聞き覚えのある声。
そして、ずっと待っていた声。
心臓が、跳ねる。
私は、ちゃんと顔を上げた。
そこにいたのは、少し息を切らした見慣れた人。
大人になったはずなのに、優しい目だけは、あの頃のままだった。
「……雨音!?」
「うん」

そう言うと、彼は、一瞬だけ目を見開いて、それから、泣きそうな顔で笑った。

「……おかえり、雨音」