「ありがとう」と、「ごめんね」と、それから。

好きな人の声がする。
私の名前を何度も呼んでいる。

あれ? 私、どれくらい寝ていたんだろう?
起きなければと、重たい瞼を必死に開く。随分と久しぶりだ。柔らかい光が瞼の隙間を照らす。幕が上がる様に、ぼやけた視界が広がっていく。木目調の知らない天井……? いや、これは机だ。私は座っているの? 外では鳥のさえずり。揺れるレースのカーテン。コーヒーの香りがふわりと鼻をかすめた。
ごしごしと目を擦ると、世界の輪郭がはっきりとした。アンティーク調の知らない部屋と、目の前の机に置かれた三通の白い封筒。奥の棚には、数え切れない封筒の束がきちんと整頓されて置かれている。それと、この部屋に似合わない淡黄の郵便ポストが隅に置かれていた。
どこ……?

「雨音さーーん、ねぇ雨音さん?」

知らない声がする。
私はこの声に呼ばれていたのかな? と思うくらい、小さな部屋に響いている。返事をしようにも、喉の奥がひっついて、上手く声にならない。
「八雲雨音さんーー? ねぇ聞こえてるでしょーー?」
部屋を見渡すが、ドアはひとつだけ。声の主は奥の部屋にいるようだ。
「もう。返事くらいしてくださいよ。コーヒーに砂糖はいれますか?」
ひょいっと顔を出したのは、毛先の跳ねた猫っ毛の少年だった。セットアップのスーツに蝶ネクタイ。あなたは誰? ここはどこ? なんて、頭はずっと混乱してるけど、コーヒーは甘いほうがいい。私は小さく二回ほど頷いた。
「はいはーーい、甘党さんっと……」
しばらくして、グラスを二つトレーに乗せ、少年が部屋に戻ってくる。私は、差し出されたコーヒーを一気に喉に流し込む。下に溜まったガムシロップに少し噎せて、ようやく喉が開いた。
「ごほっ……。あの、ここは……?」
「ようこそ。ここは空にいちばん近い郵便局です」
「空に、近い、郵便局……?」
少年は右足を後ろに引き、右手を体に添え、左手を横に伸ばしながら、ゆっくりと頭を下げた。
あぁ、そうか。私は夢を見ているんだ。だって、懐かしい高校の制服を着ている。現実味がない。私は病院のベットの上で病衣を着て寝ているはずだから。
「それで、あなたは、誰?」
「僕ですか? この郵便局の管理人です」
蝶ネクタイを整えながら、得意げに背筋を伸ばした少年は、無邪気な顔で説明を続ける。
「いいですか? ここは人生の最後に想いを綴る場所。愛情や感謝、後悔や未練。時には怨念も……。人々が、この世界に残したい想いを届ける場所です」
人生の最後と言うことは、夢現ではなく、ここはすでに死後の世界なんだろうか? あの人に会いたいという私の僅かな希望も、打ち砕かれてしまったのかな? 私は空になったグラスを見つめた。
「何言ってんだ? って顔してますねーー。皆さん、最初はそんな顔します。ゆっくり理解してくれたらいいですよ。時間はたーーっぷりあるから」
少年はミルク多めのカフェラテに口をつける。
「あなたがここに導かれたってことは、残したい言葉があるのでは?」
「届かない言葉を残したって……」
仮に死後の世界だとしたら、手紙を書いたって自分の気持ちを納得させるだけのセレモニーに過ぎないだろう。届かない言葉に意味なんてないよ。
「ここには誰もが来れる訳じゃない。雨音さんは選ばれたんですよ」
「私が、選ばれた……? だれに?」
「それは、まだ秘密です」
ずっと分からないことだらけだ。私はもう死んでしまったの? あの日、持病が悪化して意識を失って……そこで私の記憶は途切れている。それからどれくらい経ってる? 確か、彼と一緒にいて……。
「ねぇ、水瀬遥人さんに、会いたいですか?」
私の心を見透かしたように、少年は三日月の形に口角をあげた。
「…………!」
「言わなくてもいいですよ。顔に書いてあるの、丸見えだから。水瀬遥人さんに伝えたいことがあるんですよね?」
そう言って、少年はくすくすと笑う。


水瀬遥人は、私の好きな人。

あれは中学生の時だ。図書委員をしていた私は、窓際の一番後ろの机の中に、忘れ物のノートを見つけた。名前は書かれていない。何気なく捲ったページに書かれた文字。丁寧に手書きで綴られた文字列を、美しいと思った。それは小説だった。片目の見えない少年と、夜になると透明になってしまう奇病を抱えた少女の純愛物語。速読が得意なのもあるけど、短編だったから一気に読んでしまった。目に見えない大切なものを探すふたりの姿が脳裏に浮かび、私と重ねて、涙が頬に零れた。結末は美しかった。私も、このヒロインのように、強く生きたいと思った。
タイトルは『君と見つけた透明な答え。』
もう一度最初のページに戻る。やっぱり名前もペンネームも見つからない。誰が書いたものなのかもわからない。
このノートの持ち主を知りたいと思った。
パタパタと廊下を走る音がする。
けたたましく扉が開き、私は慌ててノートを閉じる。そして、咄嗟に後ろ手にノートを隠してしまった。
彼は、まっすぐ後ろの席に向かった。
机の中を覗き込んで、首を傾げる。私に気がついた彼は、ゆっくりと近づいてきた。
「図書委員さん? あの、ここにノート忘れたんですけど……」
「ちょっと待っててください。忘れ物入れ見てきます」
私はノートを背中に隠したまま、不自然な動きでカウンターに逃げ込んだ。彼は眉間に皺を寄せ、怪訝な顔をして私を一瞥する。それから、また座っていたであろう机の辺りを探し始めた。
ふぅーっと息を吐く。彼がノートの持ち主。つまり作者だ。小さく胸が高鳴る。小説の感想を言いたいけど、勝手にノートを見たことに腹を立てるかもしれない……。
「あ、あの……!」
彼はゆっくりと顔をあげる。
「このノートでしょうか?」
「たぶん、それ僕のです。確認してもいいですか?」
ページを捲って中を確認した彼は、私に意外なことを言った。
「ごめんなさい、頼み事ばかりで悪いけど。それ、代わりに捨ててもらってもいいですか?」
「えっ……? どうして」
「もう、僕には必要ないから」
私は彼の後ろ姿を見ながら、ただノートを抱きしめていた。
それが、彼との最初の出会いだった。
忘れっぽい私が、ちゃんと覚えてる事のひとつ。


ハッと我に返る。
少年の栗色の瞳が、私を見つめていた。
「隠そうとしたって無駄ですよ。ここはそういう場所で、僕はその役割を果たす。ぜーーんぶ、お見通しです」
にやりと、少年はまた口を三日月の形に引き上げる。
「……会いたいに、決まってるじゃないですか。会えるなら、もう一度」
ぎゅっと、両手でスカートを握りしめる。
そう言葉にした瞬間、胸の奥もきゅっと痛んだ。
遥人の顔を思い浮かべるだけで、涙がにじみそうになる。
だって私はもう、遥人の隣を歩けないのだと、どこかで理解していたから。
「じゃあ、その願い。僕が叶えてあげてもいいですよ?」
「……えっ?」
少年は、机の上に並んだ三通の白い封筒を、指先でひとつひとつ、軽く叩いた。
「あなたには特別に、三通の手紙を出す権利を差し上げます。送り先も、届ける時間も、あなたの自由です。ただし、奇跡は三度まで。四通目はありませんよ」
「たったの三通……だけ?」
静かにその言葉を反芻する。
「手紙には意味があるよ。これは、ありがとう。これは、ごめんね。そしてこれが、さようなら。です」
少年は左から順に指をさした。
「この手紙は、ただ届くだけじゃありません」
少年は、どこか楽しそうに続けた。
「あなた自身が、届けに行くこともできます。過去へ。未来にはいけません。運命そのものをねじ曲げることはできないから。変えられるのは、ほんの少しだけです」
私は封筒を見つめた。
中には真っ白で何も書かれていない、どこにでもある便箋が二枚だけ。
不思議と分かった気がする。
これは、私の人生で最後に与えられた選択なんだと。
「……本当に、遥人に会えるんですか?」
「もちろん。違う三人に会う人もいる。同じ人に三回使う人もいる。それは雨音さん、君の自由だよ」
ふっ、と少年は優しく笑った。
遥人の顔が、はっきりと浮かぶ。
言えなかった言葉が、いくつも胸に溜まっていた。
「ただし、過去に行くたびに、君の存在は薄くなっていくけど、それでも行くかい?」
私は、そっと一通目の封筒に触れた。
「……遥人に、届けたいです」
少年は満足そうに目を細めた。
「わかったよ。それじゃ、行こうか。最初の『ありがとう』を届けに」