「よ、神崎!! 今日はもう時間がないんだけどさぁ、コンビニの肉まんが食べたいから、買ってきてくれない?」
「……」
保健室をあとにした俺は、途中まで沢渡と帰っていた。
沢渡はほんとうに俺のことを心配に思ってくれていたようで、しつこく何度も「家まで送る!」と言ってくれた。でも沢渡とうちの家は真逆だし、そこまでしてもらう必要はない。
好意をお断りして、それぞれ帰宅の途についた——その数分後だった。アキラ先輩が姿を現したのが。
「……アキラ先輩、怒ってないんですか?」
「え、なんの話? ただごめん、今日はほんとうに時間がないんだ」
「わ、わかりました」
いや、ほんとうは何もわかってなんかいない。
それでも俺はアキラ先輩に言われるがまま、コンビニに向かって走った。
急いで肉まんを2個買い、猛ダッシュでアキラ先輩の元に戻る。
先輩は俺を急かしたくせに、当の本人はどこか落ち着いている。
太陽が沈んだ暗い空を見上げて、微かに笑っていた。
「先輩、肉まんです」
「ありがとう!! って、なんだかオレンジっぽいんだが!?」
「えっ!?」
袋から中身を取り出すと、たしかにオレンジっぽい色をしていた。ほかほかのそれにひとくちかじりつくと、口内にはスパイシーなカレー味が広がった。
「うわっ、カレー!?」
「肉まんじゃなくてカレーまんを買ったんか!!」
「いや、肉まんって言いましたけどね!?」
アキラ先輩もひとくちかじる。
数回咀嚼して、「ふはっ!!」と笑いを零す。
中から出てきたゴロゴロ具材を俺に見せながら「カレーだ」と言って、またひとくちかじりついた。肉まんを買ったはずなのに、やっぱりカレーまんだった。
何かがおかしい。
いや、おかしいのは俺だけか。その答えはわからないけれど、とりあえずカレーまんをまたかじる。
コンビニの前でアキラ先輩と会話していると、横を歩く人たちが怪訝そうな表情で俺を見てくる。
きっと、アキラ先輩の姿は見えていない。
きっと、アキラ先輩が持つカレーまんだけが浮いている。
理解できるようでできない現実を、俺はほんのすこしだけ受け入れることができているような気がした。
「——神崎」
「……はい」
「表情が変わったね。だからもう、君はきっと大丈夫。最初見たとき、君の心が壊れそうで危ないって思ったけれど、もう大丈夫」
「……」
「だってもう、オレがこの世に存在しない存在だってコト、理解しているだろう?」
「……」
否定はしなかった。
肯定も、まだできなかった。
先輩は、まるで吹奏楽部で初めて褒めてくれたときのような、あの柔らかい笑顔でカレーまんをかじった。
◇
体が吹き飛ばされた。
激痛とかいうレベルではない痛みに、意識がなくなっていく。
瞬時に理解はできていた。オレは轢かれたんだ。
死を覚悟すると同時に、一緒に帰っていた後輩の存在を懸念する。
神崎、大丈夫かな。神崎は無事かな?
そんな強い念がどこかへ届いたのか、気がつけばオレは普通に立っていた。
ただ、すこしだけ外見は若返っているような気がする。
肩にかかる髪の毛がどこかに行き、短く整えられている。自分の姿を見ようと店舗のガラスの前に立つ。通常なら反射して自分の姿が映るはずなのに、そこには誰もいなかった。
ほんとうに死んでいるんだと理解して、笑いが零れる。
まるで漫画のような幻想世界を、自らの死をもって体験するなんて、考えもしない。
行き交ういろんな人に向かって舌を出したり、進行方向に向かって足を出してみたり、生きているうちは絶対にやらないようなことをした。
でも、誰もオレには気づかなかった。
なんだ、やっぱり見えていないんだ。そう思うと余計に楽しかった。
そんなとき——見かけた後輩の姿。オレがいちばん心配していた、神崎の姿。
学校の時間だと言うのに、平然と街を歩いているのはなぜか。
オレが死んだというのに、普通の表情をしているのはなぜか。
——どうせ、神崎もオレのこと見えないだろう。
そう思いながら、横断歩道で信号待ちをしている神崎に向かってタックルをした。
『やっほー、神崎』
『——ん?』
予想は外れる。神崎は、オレのことが見えた。しかも、タックルした肩は、しっかりと痛かったらしい。
ただ、オレが〝一宮晃〟であることは、認識していないようだった。
『……ところで、君の名前はなんですか?』
『え、オレのこと知らない?』
『知りませんけど』
『ハーッ!! オレ、3年のアキラ』
嘘は言っていない。でも完全な正解も言っていない。
神崎は〝一宮晃〟と〝アキラ〟が同一人物であることを理解していないし、〝一宮晃〟が自分の目の前で死んでいったことにも気づいていなかった。
高ストレスからの自己防衛反応だってことに、オレはすぐ気づいた。
どうにかしなければいけないと、本気で思った。
「どうにかしなきゃ~って思って、神崎と楽しい時間を共有した。死んだオレのことが、神崎にだけ見えること。それって、オレが最期に課された責務だと思えてね」
「……責務」
「うん。可愛い後輩がちゃんとオレの死を受け入れて、吹奏楽部の部長として頑張ってくれること。そうなってほしいのに、事故によるストレスで神崎が押しつぶされたらダメじゃん?」
ニカッと笑うと、神崎は固まっていた表情を歪めて大粒の涙を零した。
次第に嗚咽が漏れ始め、堪えきれなくなった声が出る。
何度も何度も、乱暴に目元を袖で拭う。周りの目など気にも留めず、溢れる涙を堪えることもなく泣き続けた。
「せんぱ……俺、夢の中で先輩に怒られました……せんぱっ、俺が車に気づいたとき、俺が、先輩を引き止めたら、気づいた瞬間、先輩、引っ張ったらよかったって、そしたら死ななかった、せんぱ、生きられたのに……っ!! ごめんなさ……っ!!」
「神崎のせいじゃないって!」
「でも、俺がそばにいたのに……先輩、助けもしなかった。自分を守るばかりで……逃げて、知らんふりして……っ、今さら、気づいた……もう、何もかも手遅れなのに!!」
「だからぁ、それは神崎の防衛反応だって。悪いことじゃないって~!」
泣きじゃくる神崎を強く抱きしめて、背中をトントンと叩く。
そして耳元で「オレに憧れて、ホルンを始めてくれてありがとう」と囁くと、神崎は膝から崩れ落ちた。
喧騒の中、行き交う人たちが神崎を不思議そうに見つめていく。
神崎はいつまでも、泣き続けていた。



