「っ、……い、つき……」
縋りつくように絞り出された声は震えていて。
こんなに苦しそうに俺の名前を呼ぶ陽一を見るのは初めてだった。
俺はゆっくりと体を離し、陽一の顔を覗き込んだ。
「陽一? どうし……!」
暗闇しかなかった視界に突然光が差し込む。
思わず窓の外を振り返ると、先ほどまでのライトアップよりも華やかな世界が広がっていた。静寂を突き破る明るい音楽が外からも俺と陽一の真上に設置されたスピーカーからも流れている。
このテーマパークの夜のメインイベントである光のショーが始まったらしい。
そのための演出としてこの観覧車は止まっているらしかった。
音は聞こえるが明かりはライトアップされた外界からしか入ってこない。室内のライトは消えたままだった。
きっとその方が外からも内からも綺麗に見えるのだろう。
「停電じゃなかったな」
このテーマパークについて調べたときに夜のショーについての記事も読んだはずなのにすっかり忘れていた。
俺はホッと息を吐き出しながら、先ほどまでの取り乱した自分の姿を思い返して小さく笑った。
「このショーのこと、すっかり忘れてたわ。陽一は? もしかしてこういう暗くて狭いのがダメとか? あれ、でもホラーハウスは平気だったような」
自分でもおかしなほど言葉が溢れてくる。
しゃべっていないと落ち着かない。
沈黙になるのが怖い。
どうしてかなんて自分でもわからないけど、陽一の涙の原因がこの暗さではないこともわかりきっていたけど、それでも俺は得体の知れない不安に突き動かされるように口を動かしていた。
言葉を次々とこぼしているくせに、陽一の顔を見ることができない。俺は陽一の肩越しにキラキラと輝く外の世界へと視線を向ける。
「ほら、陽一も見てみろよ。めちゃくちゃキレイだから」
いつも見上げていたはずの陽一の顔が、今は俯けられたまま俺の目の前にある。俺よりも広い肩幅、俺よりも大きな体、俺よりも長い腕、その全部が今だけはとても小さく頼りなげに見える。
――本当は怖かった。
陽一の表情を見た瞬間から、どうしようもない予感のようなものがあった。
陽一がどうして泣いているのか?
陽一がどうしてこんな表情をしているのか?
俺は知りたいのに、知るのが怖くてたまらなかった。
それでも聞かなくてはいけないのだと、陽一をこのままにしてはおけないと、そう思い直して……。
「陽一、どうして」
飲み込み続けた言葉をようやく口にした、そのとき。
視界の端に、それは現れた。
カラフルに彩られた地上の真ん中にある湖の上、ゆっくりと数字が浮かび上がる。
「え」
見間違えだろうか。
俺はすぐにはその意味を理解できなかった。
「陽一、あそこにさ、今日の日にち……」
そう言って視線を戻すと、陽一は止まらない涙の中で下手くそな笑顔を作っていた。
「陽一……?」
ヒュー――……ドンッ!
心臓にまで響く大きな音に、俺たちは同時に繋いでいた視線を窓の外へと向けた。透明なガラスの先に周囲の色を一瞬で変えてしまうほど大きな花火が広がっている。
「花火……」
呟いた陽一の声が、バクバクと高まっていく自分の鼓動で聞こえなくなる。
ドンッ、ドンッ――。
響き続ける衝撃音が体の奥底から何かを引きずり出す。
――怖い。
理由はわからないけれど、怖くてたまらない。
ドンッ、ドンッ……。
花火の音と自分の心臓の音が重なる。
――何かが、蘇りそうだった。
ずっと閉じ込めてきた、ずっと忘れていた何かが……。
その鮮やかな色と体の中に反響し続ける音に導かれるように、俺は腰をわずかに浮かす。
瞬間、再び動き始めた観覧車の揺れについていけず、俺はバランスを崩した。
「樹っっ!」
とっさに伸ばされた陽一の腕に俺は受け止められる。
ぎゅっと俺の背中を掴む陽一の手が、いつもそばにあった懐かしい匂いが、何よりも俺の名前を呼ぶその声が、俺の中にあった記憶の扉を開けた。
――俺はすべてを思い出した。
***
ずっと楽しみにしていた。
会うのは四ヶ月ぶりだった。
ようやく想いが通じたその日は陽一が町を出る日だった。
今度会うときは初デートだな、そう言って俺たちはわかれた。
楽しみにしすぎてあまり眠れなかった俺は、気づくと乗り換えの駅を寝過ごしていた。
「ごめん。十分遅れる」
そう電話した俺に陽一は言った。
「お前、初デートで遅刻とかサイテーだからな」
聞こえた陽一の声には怒りよりも安堵の色が強くて、俺は思わず笑ってしまった。
「昼メシ、奢るから許して」
「言ったな。高級店検索しといてやる」
「うわぁ。陽一、都会に行ってから性格歪んだんじゃない?」
「なんだと」
「あ、電車来た。じゃあ、後でな」
ホームに滑り込んできた電車に押し出された空気が熱風となって俺の顔に触れる。通話終了のボタンを押す直前に聞こえたのは、陽一の「おう、後でな」という声と鳴き始めた蝉の声だった。
――何度、思っただろう。
俺が遅刻さえしなければ事故に巻き込まれることはなかったのに、と。
――何度、後悔しただろう。
もう一度やり直せるなら、今度は絶対遅刻なんてしないのに、と。
***
「……そっか、俺が先に遅刻したのか」
陽一が流し続ける涙の意味を理解した俺は、そう呟いていた。
「樹っ……!」
緩んだ腕の中、見上げた陽一の顔は思ったとおり涙でぐしゃぐしゃだった。たった三文字の俺の名前を最後まで呼べないほど気持ちが溢れてしまっている。
こんな表情をするのか、と悲しさよりも、寂しさよりも、嬉しさが広がっていく。
――いつ、からだろうか。
見慣れた幼馴染を少しだけ遠く感じるようになったのは。
教室で一緒に騒いでいたのを懐かしく思うようになってしまったのは。
隣で笑いながらどこか自分とは違う大人びた雰囲気を纏っていることに気づいたのは。
一人で、たった一人で、町を出ることを決めてしまった陽一。
俺に何も言わず、一言も相談せず、勝手に進んでいく陽一。
そんな陽一を繋ぎ止めたくて、こっちを見てほしくて、俺は手を伸ばした。
「こんなに泣いてる陽一、いつぶりだろ」
「……っ」
「あ、でもあの日も泣いてたか」
蘇るのはひと気のない寂れたホーム。
途切れることのない波の音。
夜へと塗り替えられていく空と、下がっていく気温。
体の中から溢れてくる熱に寒さは不思議と感じなかった。
「……泣いてない」
「いやいや、泣いてたでしょ?」
「あの日は泣いてない。それを言うなら樹の方が泣いてただろ」
「うわ、そうきたか」
「うわ、ってなんだよ」
「ったく、誰のせいだと思ってんだよ」
「誰のせいって……」
それは二人同時にこぼれていた。
あの日と同じ、重なり合うお互いの笑い声が耳の中で弾む。
相手の見せる表情の理由が自分なのだと、こんな顔をさせるのは自分なのだと、わかっただけで十分だった。
自分という存在が相手の中に確かにあるのだという実感。
それこそが俺が欲しかったものだったのかもしれない。
一生忘れることはないと、忘れたくはないと、そう思うものが今この瞬間でさえも生まれてしまう。
「なぁ、もしかして今日のって」
――俺は思い出した。
あの日の自分が大切にしまっていたモノ。
渡すことができなかったモノ。
あれは、ちゃんと陽一の手元に届いたのだろうか、と。
「樹が、俺に……用意してくれた、やつ」
止まっていたはずの涙が再び陽一の頬を流れていく。
こんなに泣き虫じゃなかったのに。
どちらかといえば俺の方がよく泣いていたのに。
転んで膝を擦りむいた、初めての留守番の日に雷が鳴った、野球の試合でエラーをした、映画でも漫画でも泣くのはいつも俺の方だった。
「叶ったってことか。一年後のデートの約束」
「……うん」
ポロポロとこぼれていく涙の粒に映るのは深まっていく夜の色と浮かんでは消えていく花火の色。
開いては、一瞬で散っていく。
変わらず照らし続ける地上の光はもう随分遠くなった。
窓を覗き込まないと見えないくらいに離れてしまった。
円の頂点はもうすぐ。
地上からも光からも一番遠い場所。
あるのは瞬間的に照らし出すだけの、儚いかけら。
ヒュー――……どんなに高く上がっても。
ドンッ、ドンッ……どんなに派手な音をさせても。
鮮やかな姿は一瞬にして消えて、地上へと落ちていく。
そこはもしかしたら、一番幸せな場所なのかもしれない。
誰にも気付かれない。
誰にも見えない。
鮮やかな光さえ届かない瞬間がある。
目の前にあるのはお互いの姿だけ。
そんな幸せな世界を、幸せな記憶を、どうか陽一だけは憶えていてほしい。忘れないでいてほしい。
この空に一番近い場所で、星の光さえかき消してしまう一瞬の美しさの中で、俺は願わずにはいられない。
――俺は思い出してしまったから。
「そっか。じゃあ、今の俺には二十歳の陽一へのプレゼントがないってことだ」
「え、いや、それは別に」
「やるよ」
「え」
――俺が一番心残りに思っていたこと、それは……。
ヒュー――……
「誕生日おめでとう、陽一」
――これを、どうしても言いたかったんだ。
「樹っ、……!」
ドンッ……!
この先何度と訪れる陽一の誕生日の思い出が、どうかこの幸せな記憶でありますように。あんな悲しい別れなんかではありませんように。
――そう、願ったはずだった。
陽一のことを、陽一の幸せだけを、俺は願っていたはずだったのに。
俺は陽一の言葉ごと飲み込むように唇を触れさせる。
――触れたいと思っていた。
――感じたいと思っていた。
陽一のためと言いながら、気づけば自分の願いへとすり替わっていく。
これほどまでに自分が陽一を求めていたのだと、恋い焦がれていたのだと、思い知らされる。
――今だけでいい。
――今だけでいいから。
祈るような気持ちで重ねたキスは少ししょっぱかった。
「これじゃダメ? プレゼント」
呼吸さえ重なる距離のまま俺は尋ねた。
「お、まえ……ふざけんな……よ……」
怒っているのか、恥ずかしがっているのか、再び泣き出しそうに震える陽一の声。
「え、ダメ? 俺のファーストキスなんだけど」
「っ、こんなんで……足りるわけ、ない、だろうが」
まさかそんなことを陽一が言うとは。
予想外の言葉に驚くと同時に笑ってしまう。
「陽一って意外と欲張り……ん」
そんな俺の笑い声を今度は陽一が飲み込んだ。
――なんだ、陽一も同じことを願っていたのか。
ヒュー――……ドンッ!
ドンッ、ドンッ……!
花火の音も観覧車の中で響く音楽も、もう何も聞こえない。
窓の外のカラフルな世界も閉じ込められた小さな空間も、もう何も見えなくていい。
陽一だけでいい。
俺は陽一だけを感じられればそれでいい。
触れ合っている肌の感触。溶け合う体温。かすかに漏れるその吐息。目の前にいる陽一から感じられる、その全部で俺を満たしてほしい。
――きっと陽一も同じことを思っているはずだから。
「っ、……い、つき……」
俺の名前を呼ぶ陽一の声だけが、俺の体を震わせ続ける。
――今の俺の存在は、きっと陽一だけのものだ。
ヒュー――……ドンッ!
ドンッ、ドンッ! パラパラ……
散っていく花火のかけらが地上へと落ちていく。
その儚く美しい音がもうすぐ消えてしまう。
俺は小さく口を開いて言葉をこぼす。
「……サイテーなんて、もう言わないから」
――唇の先を触れさせたままにしたのは少しだけ怖かったから。
「え」
わずかにできた隙間へと陽一の声が揺れながら落ちていく。
「だから、陽一は思いっきり遅刻してこいよな」
パラパラ……パラ……
「……元気でな」
――俺は消すことのできなかった強がりを笑って飲み込んだ。
「樹っっ‼」
蝉の声でも、流れ続ける音楽でも、花火の音でも、なくて。
俺の名前を呼ぶ陽一の声だけがずっと俺の耳の奥に残ればいい。
……パララ……ラ……
それだけで、俺はまた陽一のことをずっと待っていられるから。
陽一、今度会うときは――。
縋りつくように絞り出された声は震えていて。
こんなに苦しそうに俺の名前を呼ぶ陽一を見るのは初めてだった。
俺はゆっくりと体を離し、陽一の顔を覗き込んだ。
「陽一? どうし……!」
暗闇しかなかった視界に突然光が差し込む。
思わず窓の外を振り返ると、先ほどまでのライトアップよりも華やかな世界が広がっていた。静寂を突き破る明るい音楽が外からも俺と陽一の真上に設置されたスピーカーからも流れている。
このテーマパークの夜のメインイベントである光のショーが始まったらしい。
そのための演出としてこの観覧車は止まっているらしかった。
音は聞こえるが明かりはライトアップされた外界からしか入ってこない。室内のライトは消えたままだった。
きっとその方が外からも内からも綺麗に見えるのだろう。
「停電じゃなかったな」
このテーマパークについて調べたときに夜のショーについての記事も読んだはずなのにすっかり忘れていた。
俺はホッと息を吐き出しながら、先ほどまでの取り乱した自分の姿を思い返して小さく笑った。
「このショーのこと、すっかり忘れてたわ。陽一は? もしかしてこういう暗くて狭いのがダメとか? あれ、でもホラーハウスは平気だったような」
自分でもおかしなほど言葉が溢れてくる。
しゃべっていないと落ち着かない。
沈黙になるのが怖い。
どうしてかなんて自分でもわからないけど、陽一の涙の原因がこの暗さではないこともわかりきっていたけど、それでも俺は得体の知れない不安に突き動かされるように口を動かしていた。
言葉を次々とこぼしているくせに、陽一の顔を見ることができない。俺は陽一の肩越しにキラキラと輝く外の世界へと視線を向ける。
「ほら、陽一も見てみろよ。めちゃくちゃキレイだから」
いつも見上げていたはずの陽一の顔が、今は俯けられたまま俺の目の前にある。俺よりも広い肩幅、俺よりも大きな体、俺よりも長い腕、その全部が今だけはとても小さく頼りなげに見える。
――本当は怖かった。
陽一の表情を見た瞬間から、どうしようもない予感のようなものがあった。
陽一がどうして泣いているのか?
陽一がどうしてこんな表情をしているのか?
俺は知りたいのに、知るのが怖くてたまらなかった。
それでも聞かなくてはいけないのだと、陽一をこのままにしてはおけないと、そう思い直して……。
「陽一、どうして」
飲み込み続けた言葉をようやく口にした、そのとき。
視界の端に、それは現れた。
カラフルに彩られた地上の真ん中にある湖の上、ゆっくりと数字が浮かび上がる。
「え」
見間違えだろうか。
俺はすぐにはその意味を理解できなかった。
「陽一、あそこにさ、今日の日にち……」
そう言って視線を戻すと、陽一は止まらない涙の中で下手くそな笑顔を作っていた。
「陽一……?」
ヒュー――……ドンッ!
心臓にまで響く大きな音に、俺たちは同時に繋いでいた視線を窓の外へと向けた。透明なガラスの先に周囲の色を一瞬で変えてしまうほど大きな花火が広がっている。
「花火……」
呟いた陽一の声が、バクバクと高まっていく自分の鼓動で聞こえなくなる。
ドンッ、ドンッ――。
響き続ける衝撃音が体の奥底から何かを引きずり出す。
――怖い。
理由はわからないけれど、怖くてたまらない。
ドンッ、ドンッ……。
花火の音と自分の心臓の音が重なる。
――何かが、蘇りそうだった。
ずっと閉じ込めてきた、ずっと忘れていた何かが……。
その鮮やかな色と体の中に反響し続ける音に導かれるように、俺は腰をわずかに浮かす。
瞬間、再び動き始めた観覧車の揺れについていけず、俺はバランスを崩した。
「樹っっ!」
とっさに伸ばされた陽一の腕に俺は受け止められる。
ぎゅっと俺の背中を掴む陽一の手が、いつもそばにあった懐かしい匂いが、何よりも俺の名前を呼ぶその声が、俺の中にあった記憶の扉を開けた。
――俺はすべてを思い出した。
***
ずっと楽しみにしていた。
会うのは四ヶ月ぶりだった。
ようやく想いが通じたその日は陽一が町を出る日だった。
今度会うときは初デートだな、そう言って俺たちはわかれた。
楽しみにしすぎてあまり眠れなかった俺は、気づくと乗り換えの駅を寝過ごしていた。
「ごめん。十分遅れる」
そう電話した俺に陽一は言った。
「お前、初デートで遅刻とかサイテーだからな」
聞こえた陽一の声には怒りよりも安堵の色が強くて、俺は思わず笑ってしまった。
「昼メシ、奢るから許して」
「言ったな。高級店検索しといてやる」
「うわぁ。陽一、都会に行ってから性格歪んだんじゃない?」
「なんだと」
「あ、電車来た。じゃあ、後でな」
ホームに滑り込んできた電車に押し出された空気が熱風となって俺の顔に触れる。通話終了のボタンを押す直前に聞こえたのは、陽一の「おう、後でな」という声と鳴き始めた蝉の声だった。
――何度、思っただろう。
俺が遅刻さえしなければ事故に巻き込まれることはなかったのに、と。
――何度、後悔しただろう。
もう一度やり直せるなら、今度は絶対遅刻なんてしないのに、と。
***
「……そっか、俺が先に遅刻したのか」
陽一が流し続ける涙の意味を理解した俺は、そう呟いていた。
「樹っ……!」
緩んだ腕の中、見上げた陽一の顔は思ったとおり涙でぐしゃぐしゃだった。たった三文字の俺の名前を最後まで呼べないほど気持ちが溢れてしまっている。
こんな表情をするのか、と悲しさよりも、寂しさよりも、嬉しさが広がっていく。
――いつ、からだろうか。
見慣れた幼馴染を少しだけ遠く感じるようになったのは。
教室で一緒に騒いでいたのを懐かしく思うようになってしまったのは。
隣で笑いながらどこか自分とは違う大人びた雰囲気を纏っていることに気づいたのは。
一人で、たった一人で、町を出ることを決めてしまった陽一。
俺に何も言わず、一言も相談せず、勝手に進んでいく陽一。
そんな陽一を繋ぎ止めたくて、こっちを見てほしくて、俺は手を伸ばした。
「こんなに泣いてる陽一、いつぶりだろ」
「……っ」
「あ、でもあの日も泣いてたか」
蘇るのはひと気のない寂れたホーム。
途切れることのない波の音。
夜へと塗り替えられていく空と、下がっていく気温。
体の中から溢れてくる熱に寒さは不思議と感じなかった。
「……泣いてない」
「いやいや、泣いてたでしょ?」
「あの日は泣いてない。それを言うなら樹の方が泣いてただろ」
「うわ、そうきたか」
「うわ、ってなんだよ」
「ったく、誰のせいだと思ってんだよ」
「誰のせいって……」
それは二人同時にこぼれていた。
あの日と同じ、重なり合うお互いの笑い声が耳の中で弾む。
相手の見せる表情の理由が自分なのだと、こんな顔をさせるのは自分なのだと、わかっただけで十分だった。
自分という存在が相手の中に確かにあるのだという実感。
それこそが俺が欲しかったものだったのかもしれない。
一生忘れることはないと、忘れたくはないと、そう思うものが今この瞬間でさえも生まれてしまう。
「なぁ、もしかして今日のって」
――俺は思い出した。
あの日の自分が大切にしまっていたモノ。
渡すことができなかったモノ。
あれは、ちゃんと陽一の手元に届いたのだろうか、と。
「樹が、俺に……用意してくれた、やつ」
止まっていたはずの涙が再び陽一の頬を流れていく。
こんなに泣き虫じゃなかったのに。
どちらかといえば俺の方がよく泣いていたのに。
転んで膝を擦りむいた、初めての留守番の日に雷が鳴った、野球の試合でエラーをした、映画でも漫画でも泣くのはいつも俺の方だった。
「叶ったってことか。一年後のデートの約束」
「……うん」
ポロポロとこぼれていく涙の粒に映るのは深まっていく夜の色と浮かんでは消えていく花火の色。
開いては、一瞬で散っていく。
変わらず照らし続ける地上の光はもう随分遠くなった。
窓を覗き込まないと見えないくらいに離れてしまった。
円の頂点はもうすぐ。
地上からも光からも一番遠い場所。
あるのは瞬間的に照らし出すだけの、儚いかけら。
ヒュー――……どんなに高く上がっても。
ドンッ、ドンッ……どんなに派手な音をさせても。
鮮やかな姿は一瞬にして消えて、地上へと落ちていく。
そこはもしかしたら、一番幸せな場所なのかもしれない。
誰にも気付かれない。
誰にも見えない。
鮮やかな光さえ届かない瞬間がある。
目の前にあるのはお互いの姿だけ。
そんな幸せな世界を、幸せな記憶を、どうか陽一だけは憶えていてほしい。忘れないでいてほしい。
この空に一番近い場所で、星の光さえかき消してしまう一瞬の美しさの中で、俺は願わずにはいられない。
――俺は思い出してしまったから。
「そっか。じゃあ、今の俺には二十歳の陽一へのプレゼントがないってことだ」
「え、いや、それは別に」
「やるよ」
「え」
――俺が一番心残りに思っていたこと、それは……。
ヒュー――……
「誕生日おめでとう、陽一」
――これを、どうしても言いたかったんだ。
「樹っ、……!」
ドンッ……!
この先何度と訪れる陽一の誕生日の思い出が、どうかこの幸せな記憶でありますように。あんな悲しい別れなんかではありませんように。
――そう、願ったはずだった。
陽一のことを、陽一の幸せだけを、俺は願っていたはずだったのに。
俺は陽一の言葉ごと飲み込むように唇を触れさせる。
――触れたいと思っていた。
――感じたいと思っていた。
陽一のためと言いながら、気づけば自分の願いへとすり替わっていく。
これほどまでに自分が陽一を求めていたのだと、恋い焦がれていたのだと、思い知らされる。
――今だけでいい。
――今だけでいいから。
祈るような気持ちで重ねたキスは少ししょっぱかった。
「これじゃダメ? プレゼント」
呼吸さえ重なる距離のまま俺は尋ねた。
「お、まえ……ふざけんな……よ……」
怒っているのか、恥ずかしがっているのか、再び泣き出しそうに震える陽一の声。
「え、ダメ? 俺のファーストキスなんだけど」
「っ、こんなんで……足りるわけ、ない、だろうが」
まさかそんなことを陽一が言うとは。
予想外の言葉に驚くと同時に笑ってしまう。
「陽一って意外と欲張り……ん」
そんな俺の笑い声を今度は陽一が飲み込んだ。
――なんだ、陽一も同じことを願っていたのか。
ヒュー――……ドンッ!
ドンッ、ドンッ……!
花火の音も観覧車の中で響く音楽も、もう何も聞こえない。
窓の外のカラフルな世界も閉じ込められた小さな空間も、もう何も見えなくていい。
陽一だけでいい。
俺は陽一だけを感じられればそれでいい。
触れ合っている肌の感触。溶け合う体温。かすかに漏れるその吐息。目の前にいる陽一から感じられる、その全部で俺を満たしてほしい。
――きっと陽一も同じことを思っているはずだから。
「っ、……い、つき……」
俺の名前を呼ぶ陽一の声だけが、俺の体を震わせ続ける。
――今の俺の存在は、きっと陽一だけのものだ。
ヒュー――……ドンッ!
ドンッ、ドンッ! パラパラ……
散っていく花火のかけらが地上へと落ちていく。
その儚く美しい音がもうすぐ消えてしまう。
俺は小さく口を開いて言葉をこぼす。
「……サイテーなんて、もう言わないから」
――唇の先を触れさせたままにしたのは少しだけ怖かったから。
「え」
わずかにできた隙間へと陽一の声が揺れながら落ちていく。
「だから、陽一は思いっきり遅刻してこいよな」
パラパラ……パラ……
「……元気でな」
――俺は消すことのできなかった強がりを笑って飲み込んだ。
「樹っっ‼」
蝉の声でも、流れ続ける音楽でも、花火の音でも、なくて。
俺の名前を呼ぶ陽一の声だけがずっと俺の耳の奥に残ればいい。
……パララ……ラ……
それだけで、俺はまた陽一のことをずっと待っていられるから。
陽一、今度会うときは――。



