園内を流れる曲が陽気なものからゆったり静かなものへと変わっていく。気づけばあんなに強い光を降り注いでいた太陽は姿を消していた。空が暗くなるにつれて地上はライトアップされ、ガラス越しにカラフルな世界が広がっていく。
「最後に観覧車って、定番すぎじゃね?」
そう言って笑った樹の顔が窓に反射する。冗談のように言いながらその頬は少し赤くなっていた。
小さな空間が俺と樹だけを閉じ込めてゆっくりと地上から離れていく。近くに見えていたものが遠く小さくなっていき、夜の暗い空へと吸い込まれていくようだった。
――このままもう戻れなくなってしまえばいい。
そんなことを俺は思ってしまう。
窓の外を見つめたまま、樹は隣に座る俺に聞いた。
「次はいつ会える?」
「次……」
「夏休みに入ったんだろ? こっち帰って来るよな?」
振り返った樹に俺は曖昧に頷くことしかできない。
「うん」
「まだ決めてないの? あー、バイトのシフト出てないとか?」
「うん」
「じゃあ、また決まったら連絡くれよな」
「うん」
「……お前、さっきから『うん』しか言ってねーけど」
「うん」
「昼間はあんなに喋ってたくせになんなんだよ」
「……うん」
次、という言葉がこんなに悲しく響くなんて初めてで。
あんなに鮮やかだったライトの光は滲んでしまって、その色を判別することもできない。
俺にはもう隣で笑う樹の顔さえよく見えなかった。
「……あのさ」
「ん? なに?」
顔を俯けたままの俺に樹は優しく答えてくれる。
俺の声は震えていた。
「……ても、いい?」
「え」
「抱きしめても、いい?」
一日中繋いでいた手を、俺は今日一番強く握る。
「そ、いうこと聞くなよ。余計恥ずかしくなるだろ」
樹がまた窓の方へと顔を戻してしまった、その瞬間。
樹の赤くなった顔は暗闇の中に消えた。
ライトアップされていた外も観覧車の中さえも見えなくなり、聞こえていたBGMも途切れた。頂上に向かっていたはずのゆっくりとした動きも停止している。
「え、なに? 停電?」
驚く樹の声ごと俺は腕を引き寄せ、その体を抱きしめる。
「あったかい、な」
本当は体温なんてわからなかったけれど。
きっとあったかいはずなんだ。
樹はここにいる。
触れることも抱きしめることもできる。
もう少しだけ夢を見ていたい。
俺は樹を抱きしめる腕に力を加えた。
「ちょ、お前力入れすぎ」
そう言いながらも樹は笑うだけで、俺から離れようとはしない。
「陽一?」
「……っ」
「え、お前なんで泣いてるんだよ?」
「っ、……い、つき……」
俺はもう限界だった。
俺はもう遅刻の理由のようにうまくごまかすことができない。
――樹に会えなかったこの一年が俺にとってはあまりにも長くて苦しかったから。
***
一年前のあの日――俺の十九歳の誕生日当日。
記憶は断片的にしか残っていない。
あまりにもショックが大きすぎて全てを記録することを俺の体が拒んだのだろう。
それでも忘れられない場面は残っている。
あの日、遅刻してきたのは樹の方だった。
時間にしてほんの十分ほど。
乗る予定だった電車は行ってしまったけれど、ここは一時間に一本しか電車が来ないようなところではない。五分に一本はやってくる。タイミングよく到着した急行電車に俺たちは飛び乗った。
その電車が事故に遭うなんて……誰が思うだろうか。
だからこれは誰のせいでもなかった。
激しい衝突音。
傾く車内。
割れる窓ガラス。
樹の体を抱き寄せようと腕を伸ばした俺よりも一瞬早く、樹の方が俺の頭を胸に抱えた。自分の体がどちらを向いているのかさえわからず、俺たちは引き離されないようにお互いの体を必死に掴んでいた。
「樹っっ!」
俺の声は樹に届いていただろうか。
意識を取り戻したとき、俺は病院のベッドの上だった。
事故からはすでに二週間が経っていた。
――樹はもうこの世にはいなかった。
大怪我を負った俺はそこから退院まで三ヶ月を要し、大学は休学して実家で療養することになった。事故の影響で電車に乗ることができなくなった俺は体だけでなく日常生活のリハビリも必要だった。
そうしてもう一度あの場所に行けるようになった頃には季節は一周していた。
再び一人暮らしを始めた俺は時間を見つけては取り憑かれたように何度も駅前へと足を運んでいた。もう会えないのだとわかっていたけれど、それでも行かずにはいられなかった。
「……樹」
何度その名前を呼んでも答えてくれる声は聞こえなくて。
何度手を伸ばしてもその肌にも体温にも触れることはなくて。
――わかっている。
本当はわかっている。
それでも、どうしても振り返ってしまう。
聞き慣れた明るい声で「陽一」と呼んでくれる、その優しい顔を探してしまう。
――こんなのが俺たちの初デートだなんて、俺は認めないから。
そう言っている気がして。
――初デートで遅刻なんてサイテーだからな。
そんなふうに今度は樹の方が怒ってくれる気がして。
――この大事な一日だけでもやり直したい。
俺がそう願ったように樹もそう思ってくれている気がして。
樹の性格なら、きっとこう思うだろう。
――今度は絶対遅刻なんてしないのに、と。
俺にはまだ樹がこの世界にいるような気がしてならなかった。
もう一度会うことができるなら、あの日照れて言えなかった言葉を全部伝えるのに。なんども思って、言えなかった言葉を思い浮かべて、電話でもなんでも伝えておけばよかったと後悔した。
俺がどんなに樹に助けられていたのか。
俺がどんなに樹を大切に思っていたのか。
俺がどれだけ樹を好きだったのか……。
樹の葬儀は俺が眠っている間に終わっていた。
――来月には一周忌だからお線香だけでも。
電話越しに響いた母さんの優しい声に押され、俺は事故に遭ってから初めて樹の実家を訪ねることにした。
お線香の匂い。
仏壇に飾られた写真。
目の前にあるもの全てが、樹が亡くなったことを示していた。
それなのに、俺には樹がいないという事実を受け入れることがどうしてもできない。
お店で出されている生菓子と温かい緑茶を前に俺は黙り込んでしまった。
「……これがね、カバンに入っていたの」
柔らかな声とともに樹の母親が差し出したのは一通の白い封筒。
――陽一へ
そこには見慣れた懐かしい文字が並んでいた。
顔を上げた俺に小さい頃から変わらない優しい笑顔が向けられる。
「きれいでしょう? よっぽど大事なものだったみたいで。カバンの内ポケットの中に丁寧に入れてあったの。他の持ち物は壊れたり汚れたりしていたのに、それだけは折り目ひとつついていないでしょう?」
「……はい」
俺は震える指先で受け取った封筒をそっと開いた。
手の中で小さく乾いた音が響く。
中身はバースデーカードと二枚のチケットだった。
『誕生日おめでとう。一年後もちゃんと予定空けておけよな』
「っ、いつき……」
その時初めて俺は樹の死に涙を流した。
この約束を果たすことはもうできないのだと、そう思って。
――それでも足を向けてしまったのは、どこかで期待していたのか。
――それとも本当にいないということを確かめたかったのか。
どちらにしても、その結果を見るのが少しだけ怖かったのかもしれない。一年前のデートの待ち合わせ時間を少しだけ過ぎてから着くように、俺は家を出た。
捨てることのできなかったチケットに刻まれた約束の日。
見慣れた駅前の風景。
大きな街路樹の下、降り注ぐ日差しの中で汗を浮かべた顔が上げられる。
――一年前のあの日、最後に見たままの姿で樹がいた。
夢……でも見ているのだろうか?
夢、でもいい。
夢だろうが幻だろうが、幽霊でもタイムリープでも、もうなんでもよかった。
俺の目の前に樹がいる。
それだけでもう十分だった。
きっとこの時間は永遠には続かない。
それくらい俺にもわかる。
わかるから……。
「お前、初デートで遅刻とかサイテーだからな」
一体いつから樹は待っていてくれたのだろう。
ようやく会えたのに、俺の視界は込み上げてくる涙でぼやけてしまう。
「遅れるなら連絡くらいしろよ」
***
――確かにこの手に触れているのに、この腕で抱きしめているのに、その熱だけが、樹の体温だけが俺にはわからない。
「最後に観覧車って、定番すぎじゃね?」
そう言って笑った樹の顔が窓に反射する。冗談のように言いながらその頬は少し赤くなっていた。
小さな空間が俺と樹だけを閉じ込めてゆっくりと地上から離れていく。近くに見えていたものが遠く小さくなっていき、夜の暗い空へと吸い込まれていくようだった。
――このままもう戻れなくなってしまえばいい。
そんなことを俺は思ってしまう。
窓の外を見つめたまま、樹は隣に座る俺に聞いた。
「次はいつ会える?」
「次……」
「夏休みに入ったんだろ? こっち帰って来るよな?」
振り返った樹に俺は曖昧に頷くことしかできない。
「うん」
「まだ決めてないの? あー、バイトのシフト出てないとか?」
「うん」
「じゃあ、また決まったら連絡くれよな」
「うん」
「……お前、さっきから『うん』しか言ってねーけど」
「うん」
「昼間はあんなに喋ってたくせになんなんだよ」
「……うん」
次、という言葉がこんなに悲しく響くなんて初めてで。
あんなに鮮やかだったライトの光は滲んでしまって、その色を判別することもできない。
俺にはもう隣で笑う樹の顔さえよく見えなかった。
「……あのさ」
「ん? なに?」
顔を俯けたままの俺に樹は優しく答えてくれる。
俺の声は震えていた。
「……ても、いい?」
「え」
「抱きしめても、いい?」
一日中繋いでいた手を、俺は今日一番強く握る。
「そ、いうこと聞くなよ。余計恥ずかしくなるだろ」
樹がまた窓の方へと顔を戻してしまった、その瞬間。
樹の赤くなった顔は暗闇の中に消えた。
ライトアップされていた外も観覧車の中さえも見えなくなり、聞こえていたBGMも途切れた。頂上に向かっていたはずのゆっくりとした動きも停止している。
「え、なに? 停電?」
驚く樹の声ごと俺は腕を引き寄せ、その体を抱きしめる。
「あったかい、な」
本当は体温なんてわからなかったけれど。
きっとあったかいはずなんだ。
樹はここにいる。
触れることも抱きしめることもできる。
もう少しだけ夢を見ていたい。
俺は樹を抱きしめる腕に力を加えた。
「ちょ、お前力入れすぎ」
そう言いながらも樹は笑うだけで、俺から離れようとはしない。
「陽一?」
「……っ」
「え、お前なんで泣いてるんだよ?」
「っ、……い、つき……」
俺はもう限界だった。
俺はもう遅刻の理由のようにうまくごまかすことができない。
――樹に会えなかったこの一年が俺にとってはあまりにも長くて苦しかったから。
***
一年前のあの日――俺の十九歳の誕生日当日。
記憶は断片的にしか残っていない。
あまりにもショックが大きすぎて全てを記録することを俺の体が拒んだのだろう。
それでも忘れられない場面は残っている。
あの日、遅刻してきたのは樹の方だった。
時間にしてほんの十分ほど。
乗る予定だった電車は行ってしまったけれど、ここは一時間に一本しか電車が来ないようなところではない。五分に一本はやってくる。タイミングよく到着した急行電車に俺たちは飛び乗った。
その電車が事故に遭うなんて……誰が思うだろうか。
だからこれは誰のせいでもなかった。
激しい衝突音。
傾く車内。
割れる窓ガラス。
樹の体を抱き寄せようと腕を伸ばした俺よりも一瞬早く、樹の方が俺の頭を胸に抱えた。自分の体がどちらを向いているのかさえわからず、俺たちは引き離されないようにお互いの体を必死に掴んでいた。
「樹っっ!」
俺の声は樹に届いていただろうか。
意識を取り戻したとき、俺は病院のベッドの上だった。
事故からはすでに二週間が経っていた。
――樹はもうこの世にはいなかった。
大怪我を負った俺はそこから退院まで三ヶ月を要し、大学は休学して実家で療養することになった。事故の影響で電車に乗ることができなくなった俺は体だけでなく日常生活のリハビリも必要だった。
そうしてもう一度あの場所に行けるようになった頃には季節は一周していた。
再び一人暮らしを始めた俺は時間を見つけては取り憑かれたように何度も駅前へと足を運んでいた。もう会えないのだとわかっていたけれど、それでも行かずにはいられなかった。
「……樹」
何度その名前を呼んでも答えてくれる声は聞こえなくて。
何度手を伸ばしてもその肌にも体温にも触れることはなくて。
――わかっている。
本当はわかっている。
それでも、どうしても振り返ってしまう。
聞き慣れた明るい声で「陽一」と呼んでくれる、その優しい顔を探してしまう。
――こんなのが俺たちの初デートだなんて、俺は認めないから。
そう言っている気がして。
――初デートで遅刻なんてサイテーだからな。
そんなふうに今度は樹の方が怒ってくれる気がして。
――この大事な一日だけでもやり直したい。
俺がそう願ったように樹もそう思ってくれている気がして。
樹の性格なら、きっとこう思うだろう。
――今度は絶対遅刻なんてしないのに、と。
俺にはまだ樹がこの世界にいるような気がしてならなかった。
もう一度会うことができるなら、あの日照れて言えなかった言葉を全部伝えるのに。なんども思って、言えなかった言葉を思い浮かべて、電話でもなんでも伝えておけばよかったと後悔した。
俺がどんなに樹に助けられていたのか。
俺がどんなに樹を大切に思っていたのか。
俺がどれだけ樹を好きだったのか……。
樹の葬儀は俺が眠っている間に終わっていた。
――来月には一周忌だからお線香だけでも。
電話越しに響いた母さんの優しい声に押され、俺は事故に遭ってから初めて樹の実家を訪ねることにした。
お線香の匂い。
仏壇に飾られた写真。
目の前にあるもの全てが、樹が亡くなったことを示していた。
それなのに、俺には樹がいないという事実を受け入れることがどうしてもできない。
お店で出されている生菓子と温かい緑茶を前に俺は黙り込んでしまった。
「……これがね、カバンに入っていたの」
柔らかな声とともに樹の母親が差し出したのは一通の白い封筒。
――陽一へ
そこには見慣れた懐かしい文字が並んでいた。
顔を上げた俺に小さい頃から変わらない優しい笑顔が向けられる。
「きれいでしょう? よっぽど大事なものだったみたいで。カバンの内ポケットの中に丁寧に入れてあったの。他の持ち物は壊れたり汚れたりしていたのに、それだけは折り目ひとつついていないでしょう?」
「……はい」
俺は震える指先で受け取った封筒をそっと開いた。
手の中で小さく乾いた音が響く。
中身はバースデーカードと二枚のチケットだった。
『誕生日おめでとう。一年後もちゃんと予定空けておけよな』
「っ、いつき……」
その時初めて俺は樹の死に涙を流した。
この約束を果たすことはもうできないのだと、そう思って。
――それでも足を向けてしまったのは、どこかで期待していたのか。
――それとも本当にいないということを確かめたかったのか。
どちらにしても、その結果を見るのが少しだけ怖かったのかもしれない。一年前のデートの待ち合わせ時間を少しだけ過ぎてから着くように、俺は家を出た。
捨てることのできなかったチケットに刻まれた約束の日。
見慣れた駅前の風景。
大きな街路樹の下、降り注ぐ日差しの中で汗を浮かべた顔が上げられる。
――一年前のあの日、最後に見たままの姿で樹がいた。
夢……でも見ているのだろうか?
夢、でもいい。
夢だろうが幻だろうが、幽霊でもタイムリープでも、もうなんでもよかった。
俺の目の前に樹がいる。
それだけでもう十分だった。
きっとこの時間は永遠には続かない。
それくらい俺にもわかる。
わかるから……。
「お前、初デートで遅刻とかサイテーだからな」
一体いつから樹は待っていてくれたのだろう。
ようやく会えたのに、俺の視界は込み上げてくる涙でぼやけてしまう。
「遅れるなら連絡くらいしろよ」
***
――確かにこの手に触れているのに、この腕で抱きしめているのに、その熱だけが、樹の体温だけが俺にはわからない。



