暑さはそれほど気にならなかったものの、並んでいたたった十分ほどの時間で俺の体力は半分以上削り取られてしまっていた。ようやく入場ゲートをくぐったというのに俺の足は地面の影に沈み込みそうなほど重かった。
「よっしゃ、やっと入れたー!」
樹はあんなに「暑い」と連呼していたくせに、入った途端にテンションとエネルギーがチャージされたらしい。声だけでなく体も弾ませて俺を振り返った。
「どっから行く? 今日は陽一の誕生日だから、リクエスト聞いてやるよ」
――誕生日。
樹のその言葉に、俺の心臓はドクン、と大きく音を立てた。
「陽一?」
不思議そうな表情を見せる樹から視線を逸らし、俺は手にしていた案内図の端っこにあるホラーハウスを指差す。
「俺コレがいいな」
「え、マジ?」
俺の指先を確かめた樹の声がわずかに強張る。
「あ、樹こういうのダメだっけ? じゃあ、ほかの」
「いや、大丈夫。今日はお前の誕生日だからな。そう誕生日だから……特別だからな」
樹は自分に言い聞かせるように言葉を繰り返し、ゆっくり息を吐き出した。繋がれている手がふわりと優しく引っ張られる。
「ありがと」
そう言って俺が笑うと、樹はフイっと顔を背けた。半歩先を歩く樹の首の後ろがじんわりと赤くなっている。
樹はホラー系が苦手で絶叫系が大好きだ。そのことを俺はもちろん知っていたが、今の俺にとっては体力の回復こそが最優先事項だった。少しでも一緒に楽しむためには仕方がない。
――少しでも一緒に、少しでも長く、俺は樹と、この時間を楽しみたいんだ。
***
「一体、いつになったら会えるんだよ」
その声だけで俺の頭の中には樹の不機嫌な表情が浮かぶ。
一人暮らしの狭い部屋の中、わずかに開けている窓からは静かな雨の音が流れてくる。梅雨入り宣言から二週間。日中は日が差すこともあるが、夜は雨が降っていることの方が多かった。
下がりきらない生ぬるい温度と湿った空気を吸い込むと、少しだけ懐かしさが蘇る。樹は梅雨の時期でも登校時に雨が降っていないと傘を持ってこないようなヤツだった。途中で降り出した雨を見上げて「あ、傘忘れた」と俺を振り返る。最初から俺の傘をアテにしているのがバレバレだった。
「だからこの間は急にバイトが」
「バイトバイトって。そりゃ、俺だって一人暮らしが大変なことくらいわかるけどさ。でも、もう三ヶ月も会ってないんだぞ。お前、ちっともこっちに帰ってこないし」
樹の言うとおり、俺は上京してからまだ一度も帰省していなかった。五月の連休には帰ろうと思っていたのだが、新しく始めたアルバイトとゼミの合宿で休みはあっという間に終わってしまった。
土日で帰れない距離ではないので帰ろうと思ったこともあるのだが、そういうときに限ってゼミの課題が出されたり、アルバイト先に急遽呼ばれたり、と誰かに操作されているのではないかと疑いたくなるほど邪魔が入った。
あの日――駅のホームで樹と分かれた日――から今日まで俺たちは会うこともできず、季節はもう変わってしまっていた。
「そんなこと言うなら、樹がこっちに来ればいいだろ」
目の前の試験さえ乗り切れば、長い夏休みが始まる。
夏休みといっても、こっちにいる間はどうしたってアルバイトに行く時間が増えてしまうのだけど。
「さすがに俺だって夏休みは帰ろうと思ってるけど、でも前半はまだこっちにいるつもりだし」
「……日、は?」
突然、樹の声が小さく聞こえづらくなった。
俺は聞き返すと同時に受話音量を上げる。
「なに?」
「来月の二十五日は?」
「え?」
「だから、二十五日は空いてるのかって!」
耳の奥まで響く大きな声に、俺は持っていたスマートフォンを遠ざける。
「空いてるけど」
「じゃあ、決まりな」
先ほどまでの不機嫌な空気は消え、わずかに弾んだ声に俺まで口元が緩む。俺の中に浮かぶ樹の表情はいつの間にか笑っていた。
――だって、その日は……。
「誕生日どこ行きたいか考えておけよ。つっても、連れて行くのは陽一だけどな」
「……なんだよ、それ」
「俺が案内できるはずないから仕方ないだろ」
悪びれるでもなく開き直って言う樹がおかしくて、俺は笑ってしまう。
「まぁ、そうだけど」
「その代わりとっておきのプレゼント準備しておくからさ」
「期待しておくわ」
「おう、任せとけ」
それは再会の約束であり、俺たちにとっての初デートの約束でもあった。
――自分の誕生日がこんなにも待ち遠しいなんて初めてかもしれない。
***
今日という日に樹に会うことができたその意味を考えて、考えたそばから掻き消していく。
今はまだ気づきたくない。
今はまだ知りたくない。
今はまだ……。
握りしめたままだった二枚のチケットの日付を確かめた俺はそっと息を吐いてジーンズのポケットにしまった。
「陽一、本当にここでいいんだよな?」
最後の確認とばかりに振り返った樹に、俺は「おう、ここであってるよ」と笑ってみせる。嫌そうな空気を隠しきれていない樹の手を今度は俺が引いていく。
「ま、乗り物に乗ってたら、きっとあっという間だよ。あ、怖かったらもっとくっついてもいいよ。どうせ中は暗いだろうし」
「べ、べつに、怖くなんかないから」
そう言って耳まで赤く染めた樹が――恐怖よりも恥ずかしさの方が強くなってしまった樹が――、どうしようもなく可愛く見えて、俺の胸は苦しくなった。
俺は何度でも祈らずにはいられない。
――まだ終わりたくない、と。
「足元にお気をつけください」
案内されて二人乗りの小さな箱に樹と並んで座ると、俺はすぐに体を寄せて隙間を埋めた。
「ちょ、なに?」
仕掛けなんてまだなにもない段階で樹が声を上げ、俺は小さく笑うとそのまま樹の肩に頭を乗せた。
「あー、俺、やっぱ怖いかも」
「は?」
「だからこのままでよろしく」
「来たいって言ったの、陽一じゃん」
「俺もいけると思ったんだけどさ、やっぱダメみたい。樹は平気なんだろ? 俺の代わりに見ておいてね」
「おっまえ、ふざけん……うわっ」
仕掛けに驚いた樹の声が跳ね上がり、それと同時に俺の体も揺れた。
「ふ、ふは……樹、驚きすぎ」
思わず笑った俺を樹が「陽一は全然怖がってるように見えないけど?」と横目で睨んできた。
俺は繋いでいる手から伸びる樹の腕に顔を埋めると「うわー、めっちゃ怖いなぁ」と全く緊張感のない声で言った。
「この、ウソつきめ」
樹はそう小さくこぼしたけれど引き剥がそうとはしなかったので、俺はそのままアトラクションが終わるまでずっと樹にくっついていた。
――たとえもう触れている体温さえわからなくても、それでもいい。
俺の隣に樹はいるのだから。
それだけでいい。
「よっしゃ、やっと入れたー!」
樹はあんなに「暑い」と連呼していたくせに、入った途端にテンションとエネルギーがチャージされたらしい。声だけでなく体も弾ませて俺を振り返った。
「どっから行く? 今日は陽一の誕生日だから、リクエスト聞いてやるよ」
――誕生日。
樹のその言葉に、俺の心臓はドクン、と大きく音を立てた。
「陽一?」
不思議そうな表情を見せる樹から視線を逸らし、俺は手にしていた案内図の端っこにあるホラーハウスを指差す。
「俺コレがいいな」
「え、マジ?」
俺の指先を確かめた樹の声がわずかに強張る。
「あ、樹こういうのダメだっけ? じゃあ、ほかの」
「いや、大丈夫。今日はお前の誕生日だからな。そう誕生日だから……特別だからな」
樹は自分に言い聞かせるように言葉を繰り返し、ゆっくり息を吐き出した。繋がれている手がふわりと優しく引っ張られる。
「ありがと」
そう言って俺が笑うと、樹はフイっと顔を背けた。半歩先を歩く樹の首の後ろがじんわりと赤くなっている。
樹はホラー系が苦手で絶叫系が大好きだ。そのことを俺はもちろん知っていたが、今の俺にとっては体力の回復こそが最優先事項だった。少しでも一緒に楽しむためには仕方がない。
――少しでも一緒に、少しでも長く、俺は樹と、この時間を楽しみたいんだ。
***
「一体、いつになったら会えるんだよ」
その声だけで俺の頭の中には樹の不機嫌な表情が浮かぶ。
一人暮らしの狭い部屋の中、わずかに開けている窓からは静かな雨の音が流れてくる。梅雨入り宣言から二週間。日中は日が差すこともあるが、夜は雨が降っていることの方が多かった。
下がりきらない生ぬるい温度と湿った空気を吸い込むと、少しだけ懐かしさが蘇る。樹は梅雨の時期でも登校時に雨が降っていないと傘を持ってこないようなヤツだった。途中で降り出した雨を見上げて「あ、傘忘れた」と俺を振り返る。最初から俺の傘をアテにしているのがバレバレだった。
「だからこの間は急にバイトが」
「バイトバイトって。そりゃ、俺だって一人暮らしが大変なことくらいわかるけどさ。でも、もう三ヶ月も会ってないんだぞ。お前、ちっともこっちに帰ってこないし」
樹の言うとおり、俺は上京してからまだ一度も帰省していなかった。五月の連休には帰ろうと思っていたのだが、新しく始めたアルバイトとゼミの合宿で休みはあっという間に終わってしまった。
土日で帰れない距離ではないので帰ろうと思ったこともあるのだが、そういうときに限ってゼミの課題が出されたり、アルバイト先に急遽呼ばれたり、と誰かに操作されているのではないかと疑いたくなるほど邪魔が入った。
あの日――駅のホームで樹と分かれた日――から今日まで俺たちは会うこともできず、季節はもう変わってしまっていた。
「そんなこと言うなら、樹がこっちに来ればいいだろ」
目の前の試験さえ乗り切れば、長い夏休みが始まる。
夏休みといっても、こっちにいる間はどうしたってアルバイトに行く時間が増えてしまうのだけど。
「さすがに俺だって夏休みは帰ろうと思ってるけど、でも前半はまだこっちにいるつもりだし」
「……日、は?」
突然、樹の声が小さく聞こえづらくなった。
俺は聞き返すと同時に受話音量を上げる。
「なに?」
「来月の二十五日は?」
「え?」
「だから、二十五日は空いてるのかって!」
耳の奥まで響く大きな声に、俺は持っていたスマートフォンを遠ざける。
「空いてるけど」
「じゃあ、決まりな」
先ほどまでの不機嫌な空気は消え、わずかに弾んだ声に俺まで口元が緩む。俺の中に浮かぶ樹の表情はいつの間にか笑っていた。
――だって、その日は……。
「誕生日どこ行きたいか考えておけよ。つっても、連れて行くのは陽一だけどな」
「……なんだよ、それ」
「俺が案内できるはずないから仕方ないだろ」
悪びれるでもなく開き直って言う樹がおかしくて、俺は笑ってしまう。
「まぁ、そうだけど」
「その代わりとっておきのプレゼント準備しておくからさ」
「期待しておくわ」
「おう、任せとけ」
それは再会の約束であり、俺たちにとっての初デートの約束でもあった。
――自分の誕生日がこんなにも待ち遠しいなんて初めてかもしれない。
***
今日という日に樹に会うことができたその意味を考えて、考えたそばから掻き消していく。
今はまだ気づきたくない。
今はまだ知りたくない。
今はまだ……。
握りしめたままだった二枚のチケットの日付を確かめた俺はそっと息を吐いてジーンズのポケットにしまった。
「陽一、本当にここでいいんだよな?」
最後の確認とばかりに振り返った樹に、俺は「おう、ここであってるよ」と笑ってみせる。嫌そうな空気を隠しきれていない樹の手を今度は俺が引いていく。
「ま、乗り物に乗ってたら、きっとあっという間だよ。あ、怖かったらもっとくっついてもいいよ。どうせ中は暗いだろうし」
「べ、べつに、怖くなんかないから」
そう言って耳まで赤く染めた樹が――恐怖よりも恥ずかしさの方が強くなってしまった樹が――、どうしようもなく可愛く見えて、俺の胸は苦しくなった。
俺は何度でも祈らずにはいられない。
――まだ終わりたくない、と。
「足元にお気をつけください」
案内されて二人乗りの小さな箱に樹と並んで座ると、俺はすぐに体を寄せて隙間を埋めた。
「ちょ、なに?」
仕掛けなんてまだなにもない段階で樹が声を上げ、俺は小さく笑うとそのまま樹の肩に頭を乗せた。
「あー、俺、やっぱ怖いかも」
「は?」
「だからこのままでよろしく」
「来たいって言ったの、陽一じゃん」
「俺もいけると思ったんだけどさ、やっぱダメみたい。樹は平気なんだろ? 俺の代わりに見ておいてね」
「おっまえ、ふざけん……うわっ」
仕掛けに驚いた樹の声が跳ね上がり、それと同時に俺の体も揺れた。
「ふ、ふは……樹、驚きすぎ」
思わず笑った俺を樹が「陽一は全然怖がってるように見えないけど?」と横目で睨んできた。
俺は繋いでいる手から伸びる樹の腕に顔を埋めると「うわー、めっちゃ怖いなぁ」と全く緊張感のない声で言った。
「この、ウソつきめ」
樹はそう小さくこぼしたけれど引き剥がそうとはしなかったので、俺はそのままアトラクションが終わるまでずっと樹にくっついていた。
――たとえもう触れている体温さえわからなくても、それでもいい。
俺の隣に樹はいるのだから。
それだけでいい。



