「今は俺達しかいないから、出てきても平気だ。体調どうだ?」
滝本の気遣う声が聞こえた。良からぬことをしていると勘違いされたわけではないとわかったから、個室から出るなら今だった。
「……なんか、ごめん」
「段田さんが良くないかな」
陽依は柔和に微笑むが、指摘は厳しい。
「でも」
でも、だからといって男子トイレに入っちゃ駄目だよ、陽依ちゃん。
「彼を無理矢理連れ出してしまって、申し訳ありません」
「仕方ない。判断が早くて、鮮やかだったよ。えっと、ナマ……?」
滝本も、生方閑真の読み方に困った。俺も字面は知っているが、読み方を知らない。苗字も名前も、馴染みのないから。
「ウブカタです。ウブカタ、シズマ」
「ウブカタって読むんだ!?」
陽依が、ぴょこっと反応した。滝本が、手をぽんと打った。
「産湯の『産』を横着したら、生の字になる」
「多分、そんな感じです」
生方閑真は、優しく肯定した。
「そんなことより、戻った方が良いのでは。あのお姫様がお待ちでしょう」
王子様のような余裕の構えで、彼は男子トイレから出た。俺達も後を追う。クッキングスタジオに入る前に、彼は着けっぱなしだったエプロンを外した。理由はわからないが、医療ドラマで医師や看護師が使い捨てガウンを脱ぐ様子に似ていた。
「すみません、戻りました。使い捨てのエプロンをもらうことはできますか? エプロン着けたままトイレに入ってしまって、このエプロンはもう使いたくないので」
講師は、嫌な顔をせずに待っていた。
「エプロンは着けなくて大丈夫ですよ。もう、作業は無いですから。クラックロール、焼き上がったので、オーブンから出させてもらいました」
「先生、ありがとうございます」
彼はクラックロールをOPP袋に入れ、シンクで洗い物をする。
「あなた達は、段田さんのお友達ですよね?」
違います、と滝本が呟いたのが聞こえたが、運良く講師には聞こえなかった。
「彼女、新幹線に間に合わないからと、他のお友達と一緒に先に帰っちゃったんです。パンはやっぱり無理そうなので、あなた達に持ち帰ってほしいそうで」
やっぱり。俺も、滝本も、陽依も、多分、同じような虚無の表情をしただろう。
最後の片づけをして、荷物をまとめて帰り支度をしていると、閑真が颯爽とやってきた。
「あ、閑真くん。体験のパン、今日で終了なんだよ」
講師に指摘され、閑真は、がくっとテーブルに両手をついた。こんなリアクションもするんだ。
「……俺ので良かったら、持って帰る?」
カレーソースの玉ねぎブレッド、千切ったものは捨ててしまったが、手をつけていないものもある。俺は、さりげなく段田の置いていったものをもらい、自分が焼いたものは閑真に渡した。
「じゃあ、俺のも持ってって」
クラックロールをひとり1個ずつ配られる。
駅で解散し、滝本も、陽依も、閑真も同じホームへ。俺だけ反対側のホームから電車に乗る。
アパートに帰宅し、パンの袋を開けた。かなりためらってから、カレーソースの玉ねぎブレッドを口に入れる。段田が焼いたパンは、普通に1個食べられた。カレーとマヨネーズのソースがフライドオニオンに合う。
クラックロールは、塩パンに似ている。表面の小さなヒビが、陶器の貫入みたいだ。美味い。いつの間にか、1個食べ終えてしまった。
で、思い出した。クールな王子様みたいな彼にトイレに連れ込まれ、キスをされたことを。じゃなくて、クッキングスタジオで嘔吐しそうになった俺をトイレまで連れて行って介抱してくれたことを。フラッシュバックでパニックになった俺を、ショック療法で落ち着かせてくれたことを。
俺は人前で醜態を晒さずに済んだが、初めて話した相手にあそこまでできる人は、そうそう存在ない。思い出したら、口の柔らかさを思い出してしまった。いかん、いかん。明日は帰省するのに。
滝本の気遣う声が聞こえた。良からぬことをしていると勘違いされたわけではないとわかったから、個室から出るなら今だった。
「……なんか、ごめん」
「段田さんが良くないかな」
陽依は柔和に微笑むが、指摘は厳しい。
「でも」
でも、だからといって男子トイレに入っちゃ駄目だよ、陽依ちゃん。
「彼を無理矢理連れ出してしまって、申し訳ありません」
「仕方ない。判断が早くて、鮮やかだったよ。えっと、ナマ……?」
滝本も、生方閑真の読み方に困った。俺も字面は知っているが、読み方を知らない。苗字も名前も、馴染みのないから。
「ウブカタです。ウブカタ、シズマ」
「ウブカタって読むんだ!?」
陽依が、ぴょこっと反応した。滝本が、手をぽんと打った。
「産湯の『産』を横着したら、生の字になる」
「多分、そんな感じです」
生方閑真は、優しく肯定した。
「そんなことより、戻った方が良いのでは。あのお姫様がお待ちでしょう」
王子様のような余裕の構えで、彼は男子トイレから出た。俺達も後を追う。クッキングスタジオに入る前に、彼は着けっぱなしだったエプロンを外した。理由はわからないが、医療ドラマで医師や看護師が使い捨てガウンを脱ぐ様子に似ていた。
「すみません、戻りました。使い捨てのエプロンをもらうことはできますか? エプロン着けたままトイレに入ってしまって、このエプロンはもう使いたくないので」
講師は、嫌な顔をせずに待っていた。
「エプロンは着けなくて大丈夫ですよ。もう、作業は無いですから。クラックロール、焼き上がったので、オーブンから出させてもらいました」
「先生、ありがとうございます」
彼はクラックロールをOPP袋に入れ、シンクで洗い物をする。
「あなた達は、段田さんのお友達ですよね?」
違います、と滝本が呟いたのが聞こえたが、運良く講師には聞こえなかった。
「彼女、新幹線に間に合わないからと、他のお友達と一緒に先に帰っちゃったんです。パンはやっぱり無理そうなので、あなた達に持ち帰ってほしいそうで」
やっぱり。俺も、滝本も、陽依も、多分、同じような虚無の表情をしただろう。
最後の片づけをして、荷物をまとめて帰り支度をしていると、閑真が颯爽とやってきた。
「あ、閑真くん。体験のパン、今日で終了なんだよ」
講師に指摘され、閑真は、がくっとテーブルに両手をついた。こんなリアクションもするんだ。
「……俺ので良かったら、持って帰る?」
カレーソースの玉ねぎブレッド、千切ったものは捨ててしまったが、手をつけていないものもある。俺は、さりげなく段田の置いていったものをもらい、自分が焼いたものは閑真に渡した。
「じゃあ、俺のも持ってって」
クラックロールをひとり1個ずつ配られる。
駅で解散し、滝本も、陽依も、閑真も同じホームへ。俺だけ反対側のホームから電車に乗る。
アパートに帰宅し、パンの袋を開けた。かなりためらってから、カレーソースの玉ねぎブレッドを口に入れる。段田が焼いたパンは、普通に1個食べられた。カレーとマヨネーズのソースがフライドオニオンに合う。
クラックロールは、塩パンに似ている。表面の小さなヒビが、陶器の貫入みたいだ。美味い。いつの間にか、1個食べ終えてしまった。
で、思い出した。クールな王子様みたいな彼にトイレに連れ込まれ、キスをされたことを。じゃなくて、クッキングスタジオで嘔吐しそうになった俺をトイレまで連れて行って介抱してくれたことを。フラッシュバックでパニックになった俺を、ショック療法で落ち着かせてくれたことを。
俺は人前で醜態を晒さずに済んだが、初めて話した相手にあそこまでできる人は、そうそう存在ない。思い出したら、口の柔らかさを思い出してしまった。いかん、いかん。明日は帰省するのに。


