オーブンの天使がささやく

 二次発酵の間にオーブンを予熱し、カレーソースをつくる。カレー粉、マヨネーズ、蜂蜜を混ぜ、ラップで包む。小学校の遠足の弁当を思い出した。5年生のときだ。母に変わって義父が弁当を持たせてくれたのだ。ブロッコリーにかけるマヨネーズを、ラップに包んで捻って丸くし、ピックでラップを破ってマヨネーズをブロッコリーにかけられるようにしてくれた。
 義父のことを思い出している間に、二次発酵の時間が終わり、ラップと濡れ布巾を外してオーブンで焼成する。焼き時間は、10分。使った道具を洗っても、時間稼ぎには、ならなかった。
 待ち切れなくてオーブンを見てみるが、中まで見えない。
 隣のオーブンの前に、生方閑真がいた。背が高く、華奢で、マスクを着けていても横顔が美しい。彼もまた、かがみ込んでオーブンの中を気にしている。かと思いきや、オーブンの音を聞くような、耳をそはだてる動作をした。顔は、俺の方を向いている。
「……どうも」
 生方閑真が、気まずそうに頭を下げた。
「……子どもっぽいのは、わかっています。オーブンの中が気になってしまって」
 二重まぶたの、アーモンドアイ。目力は強そうなのに、声は細くて綺麗だ。
「俺もですよ」
 同じ学年なのに、つられて敬語を使ってしまう。
「パンは、焼くと膨れるんですよね」
「え?」
 生方閑真が、素っ頓狂な声を出した。まるで、ガラス細工の、細く捻れた部分みたいだ。個性的だけど美しい。でも、俺はそんな変なことを言ったかな。言ったかもしれない。
「俺の家、タイルの窯をやっているんですけど、タイルも陶芸みたいに焼き物で、焼くと縮むんです。そういうのを見てきたせいか、焼くものは小さくなって完成するものだと……大きくなるものも、あるけど、スポンジケーキとか、クッキーとか。でも、パン生地みたいにガスが生まれて、ぷくーっと膨れるわけでは……」
 なんか、俺、ファンシーなことを言っちゃってる。でも、生方閑真は微笑んで頷いた。
「俺の地元は、昔は瓦の産地で、今もごくわずかに鬼瓦の工房があるんです。そこの窯の煙突から煙が出るのを、何度か見たことがあります。そうですよね、焼縮みするんですよね」
 地元が焼き物の産地。意外な共通点だった。喋りながらも、生方閑真はオーブンから耳を離そうとしない。
「……クラックロールは、焼いている最中に、表面が割れる音がするそうです。それを、『天使のささやき』というそうで、音を聞いてみたいのですが」
「邪魔して、ごめん」
「平気ですよ」
 生方閑真は、二歩ずれてオーブンを指差す。俺も耳を澄ませてみたが、「天使のささやき」は聞こえなかった。それどころか、生方閑真の綺麗な顔が至近距離にあって、彼がマスクを着けてくれて良かったと思ってしまった。