オーブンの天使がささやく

 愛知県を抜けて岐阜県に入ったとき、日が暮れるのが早くなったと感じた。夏至はもう1か月以上前だったのだ。時は一歩ずつ冬至に近づこうとしている。
 古虎渓駅を過ぎたときに、俺に肩を預けて眠る彼に声をかけた。
「もうすぐ着くよ」
 ん、と甘える声が耳をくすぐる。一音だけなのに、綺麗な声だと感じてしまう。夏に聴くと心地良い、ガラス細工のような繊細な声だ。
 多治見駅で電車を降り、連絡通路からロータリーを見下ろす頃には、結構暗くなり始めていた。
「あの車」
「お父様のですか」
 ロータリーに停まっているのは、懐かしい軽ワゴン。義父の車だ。
「とおちゃん、ただいま! 遅くなって、ごめん」
「息子よ、無事で何よりだよ。頼まれていたもの、買っておいたよ」
「お父様、初めまして。生方(うぶかた)と申します」
「きみが噂の王子様か。息子が世話になってます」
「こちらこそ、息子が世話になってます。ふたりとも後ろに乗っちゃいなさい。荷物は助手席(まえ)に置いて」
「ありがとうございます。失礼します」
 彼が出身地を言わなければ、東京の裕福な家庭の出自だと間違えられてもおかしくない礼儀正しさ。俺も見習わなくちゃならない。
「……お父様に何を吹き込んだんですか」  
 シートベルトを締めたとき、ほろっと彼が呟いた。
「あんたが大学の王子様だって、話したんだよ」
「大学の」
 そこだけ繰り返すのかよ。大学の、だけじゃないけど。
「大学の、だけですか」
「……だけじゃないけど」
「だけじゃない」
「……その手には、乗らない」
 言わされないぞ。彼の流し目が怖いけど、もう車が出発してるから、大人しくしていないと。
 家に着く頃には、すっかり暗くなっていた。
「まごまご、おかえり!」
「まごまごが、お友達を連れてくるなんて!」
「おじい様、おばあ様、初めまして。生方閑真です」
「うちの孫にならないか」
 祖父母は、早速閑真の虜になっている。
「たくさんつくったの。たくさん食べなさい」
「ありがとうございます。ご相伴に預かります」
「良い子だなー」
 祖父なんか、酒を渡しそうになった。
「じいちゃん、閑真は未成年……じゃなくて、二十歳になってないの!」
「そおかあ。しっかりしとるから、まごまごより大人なのかと」
「お孫さんと、同い年です」
 大学では人と距離を置こうとする閑真だが、俺の家族には、そうはしない。
「お味噌、美味しいです!」
郡上(ぐじょう)の味噌や。若い子が食べてくれて、おばあちゃん嬉しい」
 俺が帰ってきても義父も祖父母も熱烈歓迎してくれるが、閑真にも熱烈歓迎。なんだか、嬉しい。
 夕飯を終えると、夕方のうちに風呂に入る週間がある祖父母はさっさと寝てしまう。俺達も風呂に入り、身を清めてから、俺達のターンだ。
「とおちゃん、キッチン借りるね」
「ああ……本当に、大丈夫なのか?」
「爆発することは無いから」
「じゃなくて」
「俺はもう、平気だよ」
 東京から持ってきたニトリルグローブで手を保護して、作業開始。
「俺もグローブもらって良いですか」
「もちろん」
 材料、ある。オーブン、ある。麺棒、ある。うどんを伸ばす台、ある。
「パン焼くんだって? 普通に家で出来るのか?」
「できるよ。クラックロール焼く」
 材料を混ぜてパン生地を捏ねる作業と、成形に使うバターの準備を、同時に行う。俺はあえて、パン生地を捏ねる作業を行う。少しは上達したところを見せたいのだけど。
 義父が邪魔。すんごく近い距離でガン見される。
「バター、終わったよ。交代」
 途中で閑真が捏ねを代わってくれた。鮮やかな手つきに、義父の目が輝いた。俺を見る目と違う。
 エアコンの効いたキッチンであるが、やはり、夏だ。オーブンに入れずともパン生地は自然に発酵が進んでしまう。
 一次発酵の後の分割とベンチタイムは、発酵との戦いだった。ほとんどベンチタイムをしないまま成形しないと、生地の薄い膜の下でイーストのガスが膨れてしまう。閑真と手分けして分割した生地を細長い三角形に伸ばし、バターを入れて巻く。
「とおちゃん……やる?」
 ダメ元で義父に訊くと、義父は首を縦に振った。俺が生地を三角形に伸ばし、義父にバターを入れて巻いてもらう。
「面白いな、これ」
 義父はまるで、夏休みの自由研究をする子どものようだった。
 合計5個の成形を終え、二次発酵。これも、室内で自然に発酵が進んでしまう。
「とおちゃん、料理教室に入りたいなんて言って、ごめんなさい。でも、ありがとう。充実してる。お金は、大学を卒業して就職したら返します」
「そんなこと、しなくて良い。お前が生き生きしているから、とおちゃんは満足だよ。一生物の楽しみと仲間を見つけたな。とおちゃんは、お前が息子になってくれて、良かったよ。ありがとう」
 しんみりしそうだったが、義父は、風呂に入ってくる、とキッチンを出ていった。
「良いお父様だね」
 ふたりきりになった途端に、閑真が距離を詰めてきた。
「うん……俺は養子なんだけどね」
「引け目を感じることは、無いと思いますよ。愛されて育ったんですね、妬きます」
「焼くのはパンにしてくれ!」
 オーブンに予熱を入れ、二次発酵終了と同時に焼成を始める。クラックロールの表面が割れる小さな音、「天使のささやき」を聞きたくてオーブンに耳を近づけるが、聞こえてくるのはオーブンの稼働音だ。
「……ごめん。うちのオーブンがうるさくて」
「……いえ、俺のアパートのオーブンも、このくらいの音は出るから」
 ふたりしてオーブンに耳を近づけるから、顔も近いから、キスできそうとか思ってしまう。実際、できてしまった。
「焼けたか!?」
 1秒遅ければ、風呂から出た義父に見られていた。
「もうすぐだよ」
 オーブンから天板を出し、表面がわずかに割れたクラックロールを皿に並べる。3人同時にクラックロールに手を出し、焼き立てを頬張る。
「焼き立て最高!」
「良いものですね」
「うんまいな……!?」
 義父は俺を見て、目を疑っていた。義父の言いたいことは、わかる。かつて、自分の料理を食べることができなかった俺が、自分で焼いたパンを食べているのだから。
「とおちゃん、俺、大丈夫だよ」
 料理教室に通うようになって、手袋(ニトリルグローブ)をつけて料理するようになったら、自分の料理も食べられるようになった。焼き肉やお好み焼きはまだ難しいが、「自分が」という意識が薄れれば出来る……気がする。
「迷惑、かけちゃったね」
「迷惑……とんでもない。とおちゃん、嬉しいよ」
 義父は、寝ると言って、塩パンよりもしょっぱい涙を流して廊下に出ていった。
「……なんか、安心した」
 俺は、キッチンの隣の居間に座り込み、畳に横になってしまった。