オーブンの天使がささやく

 このクッキングスタジオで習うピザは、他のパンと違い、二次発酵の必要が無い。その分、完成も早いが、一次発酵やベンチタイムの合間に行う作業が慌ただしい。使用した道具を洗い、ピザのトッピングとなる食材を用意し、オーブンの予熱を入れ、焼き上がったピザを冷ますための網を用意する。
 所要時間は他のパンに比べて短いはずだが、隣でシーズンメニューのピザを習う閑真の方が作業が早い。材料を計量するのも、縦捏ねやVの字捏ねの手つきも、見とれるくらい鮮やかだ。成形の際に生地を薄く広げるのも、ピザ職人(イメージ)みたいにくるくる回さないものの、臆さずに生地を引っ張って伸ばしてしまう。俺が真似をしたら、講師(インストラクター)に注意された。
 トッピングを乗せたピザ生地をオーブンに入れ、溜息が出てしまった。隣のオーブンから焼き上がったピザを取り出した閑真が、遠く感じる。作業時間の差が出てしまった。
「見て見て」
 完成したピザを天板から網に移した閑真が、俺を呼びに来た。小麦の香ばしい匂いと、塩レモンソースの爽やかさが、鼻をくすぐる。焼き立てのスライストマトはまだ水分を含んでいて、旨みが垂れてきそうだ。
「閑真、やっぱり上手いな」
「高校からやっていて、ようやくこのレベル」
 謙遜したつもりなのだろうけど、高校時代に入会したという事実自体が衝撃だ。
「高校で、ライセンス取得()ったんだっけ?」
 「ライセンス」とは、このクッキングスタジオ独自の資格である。このクッキングスタジオのレシピには著作権があり、ここのレシピを勝手に使って教室を開いたり、パンやスイーツを販売することはできない。それができるのは、ライセンス取得者だけだ。ライセンスが取得できるのは、基礎クラスを必要回数受講してマスタークラスを全過程終了し試験に合格した人だけだ。筆記試験の問題は誰でも見ることができるのでホームページから見たことがあるが、普段の生活で使わない雑学ばかりだ。高校の勉強をしながらライセンスの勉強もした閑真は、どれだけ頭が良いのだろう。
「地元の大きな駅の近くにスタジオがあったので、そこに通っていました。通学に使う駅だったし」
「よく高校側が許したね」
「同じ駅ビルに、学習塾やピアノ教室、ヨガスタジオもあって、そこに通っている生徒もいたから、屁理屈を押し通して許可させました」
「……相変わらず、綺麗な顔してやることが大胆だよな」
 ん、と閑真が小首を傾げて訊き返した。
「……そろそろオーブン見てくる」
 俺は話をはぐらかし、オーブンの様子を見に行った。チーズを挟んだピザの耳がぷっくり膨れ、ソーセージから脂が染み出している。照り焼きチキンのマヨネーズは良い感じに焦げている。開けたい。出したい。でも、まだ時間になっていない。
「オーブンの前で跳ねてる若い子、大きいけど可愛いわね」
 おばちゃんの話が聞こえた。俺、からかわれている。
「どんな感じ?」
 閑真もオーブンを覗きに来た。跳ねながら。オーブンの前で跳ねる男子学生。絵面がおかしい。