オーブンの天使がささやく

「閑真もバイトだったんだよね?」
 閑真が掻き上げた髪に、手を伸ばして手櫛しまう。生乾きの髪をオールバックにした彼は、広い額をあらわにして、どころか色気がある。誰かに見られたらどうしようとか考える余裕もなく、たまらずに彼にキスしてしまった。彼の舌が俺の歯を舐め、唇が離れる。
「うん。学童クラブの。急いでシャワーを浴びてきた」
「子どもの相手、おつかれさま」
 閑真は夏休みの間、小学校の学童クラブでアルバイトをしている。
「待っててくれて、ありがとう。お昼、行こう」
「あと1時間。どこで食べる」
「素麺の店!」
「決まり」
 いつか4人で入った素麺料理の店。今日は、彼と一緒に入る。カウンター席に案内された。カレー素麺と、明太子素麺、納豆の春巻きを注文する。
「帰省、するの?」
 何気なく訊いてから、訊ねるんじゃなかったと後悔した。彼の父親は、既に亡くなっている。それ以上のことは聞いたことが無い。
「1週間くらい、帰る。人手が足りないから手伝ってほしいと言われてしまって。あの予定とは、重なっていないよ」
 厨房からカウンターに、納豆の春巻きが置かれる。閑真は箸を手にし、春巻きを箸で持った。自分の方へ持っていかない。俺は少し身を乗り出し、春巻きを口で受け取った。
「う……っ!」
 間違っても、喉に詰まらせたのではない。ぱりぱりの皮と、とろとろの納豆が熱くて美味い。
「これ考えた人、天才だろ!」
「そうですね」
 閑真は、すんと静かになってしまった。自分の分の春巻きは、自分で食べてしまう。こういうときの彼は、自分の感情を押さえている。もしも俺が彼に「あーん」なんてやったら、彼は鼻血を出して倒れてしまうかもしれない。
 遅い昼食を終えてふたりで向かうのは、クッキングスタジオだ。俺も彼も、15時からのパン基礎レッスンを予約した。
「あ! またね!」
 入れ替わりで、料理基礎を終えた陽依がクッキングスタジオから出ていく。陽依を見送り、スタジオ内のロッカーを借りて身支度を整える。
 悩むところはあったが、俺もクッキングスタジオに入会した。学割制度があり、通常の半額でレッスンが受けられると知り、義父に頼んで入会とレッスン代を支払ってもらったのだ。出世払いにする、と伝えたが、息子の未来に投資させてほしいと返金は拒まれた。かくして、俺は閑真と過ごす時間を増やしたのだ。
 陽依は、就職したら返金すると親御さんに誓約書を書いて入会。滝本は他にやりたいことがあって時間の工面が難しいため、体験レッスンがあれば参加すると言っていた。
「え、ピザ」
 閑真が、俺のレシピを見て呟いた。
「俺も、ピザ」
 閑真が、自分のレシピを見せてくれた。閑真が受講するピザは、期間限定メニューだ。トマトとシラスのハーフ&ハーフで塩レモンソース。俺が受講するピザは、基本的なピザソースと照り焼きチキンのハーフ&ハーフ。
「今度、学科の人達でグランピングに行く予定で、ピザの焼き方を覚えたいんだ。あそこの施設はピザ窯だから勝手が違うかもしれないけど」
 うん、と閑真は何か考えながら相槌を打った。
「俺も、ピザを焼く予定があるから、慣れておきたくて」
「奇遇ですな」
 俺は閑真と同じように、ニトリルグローブで手を保護し、手指消毒した。
「今夜はピザパーティーですね」
 閑真が微笑んだ。