オーブンの天使がささやく

 大学の夏休みは、宿題という宿題が、ほとんど出ない。学科から、指定された本を読んでレポートを書くという課題が1件出されただけだ。高校までの山のような宿題から解放された一方で、あり余る時間をいかにして過ごすか考えてしまう。
 時間を有効活用する手段として、アルバイトの回数は増やした。前期の間、特に試験前はあまりシフトに入れなかったが、夏休みはできるだけシフトを増やしてもらえることになった。とはいえ、多治見に帰ったり、旅行する予定もあるので、バイト漬けというわけではないのだが。
 初めての、午前中のシフト。10時から14時の4時間。また、社会福祉学科の先輩と一緒になってしまった。なぜ俺が高齢者から話しかけられやすいのか、まだ答えられていない。
 夏休みの昼間は、同じ大学の顔見知りに何人か会った。その中に、滝本と段田もいた。ふたりが一緒にいること自体が珍しいが、電子書籍派の段田が紙の本を買いに来たことがもっと珍しい。ふたりとも、同じ本を予約していた。
「基礎ゼミの課題。ちょっと古い本で電子化されてないし、店頭に扱いの無い店が多いんだ。ゼミ生みんな、困ってたよ」
 滝本が説明してくれた。なるほど、それなら紙の本を予約するしかない。
「そっちの基礎ゼミは?」
「特に、課題は無いんだけど」
「羨ましい!」
 段田が大きな声を出した。気持ちはわかるが、やめてくれ。
「タッキーのところ、学級崩壊ならぬ基礎ゼミ崩壊してない?」
 滝本と段田の基礎ゼミは、他のゼミ生がたちの悪い絡み方をして、担当の先生を困らせたのだ。段田は、いじめの加害者と自殺教唆の張本人だと決めつけられた過去を蒸し返され、しばらく悪者扱いされていた。
「翌週には、皆けろっとしてたよ! 逆に蒸し返そうと思ったくらい!」
 段田は、今日は元気だ。長話になりそうだと思ったとき、店長が段田に気づいて店の隅に誘導してくれた。あのとき弱っていた子だと覚えていたせいで、俺は段田のカウンセラーもどきをさせられる。
「あの後、瀧本……タッキーじゃなくて、中学のあの子の家に話しに行ったの。これまでは、うちの父親が着いてきて一方的に謝って瀧本の親の話を聞きもしなかったから、今回は父親の目を盗んで、あたしひとりで。そしたら、瀧本のお母さんが話してくれた」
 瀧本……じゃなくて、滝本は話を聞かないように離れようとしたが、段田が止めた。
「瀧本の奴、公になってる遺書とは別の遺書も書いてたんだって。あの家庭科の教育実習生に握りつぶされないためのダミーの遺書の方が公にされてしまって、本当の遺書は瀧本の両親が持ってた。瀧本の自殺の原因は、やっぱりあの教育実習生で、結構やばい関係を迫られて誰にも言えなかったって。本当の遺書のお蔭で、あたしは罪に問われなかったけど、あたしの両親は本当の遺書のことを一切信じてない。あたしが、瀧本の両親に謝られちゃった。一生つらい思いをしなくちゃいけないのは、瀧本の両親なのに」
 段田は、一呼吸置いて、また話し始める。
「あたし、瀧本の両親に救われてたのに、全然気にしてなかった。そもそも、あたしが瀧本を守らなかったのが一番の原因。あたしにできることは、瀧本みたいな人をつくらないこと」
 段田は、つらい過去から一歩踏み出した。成人したとはいえ、まだ親の庇護下から抜け出せない年齢だけど、今の段田なら、頑張って自分の意思で生き抜くことができる気がする。でも、お節介だけど、少し物申したい。と思ったら、瀧本……じゃなくて滝本(タッキー)が先に口を開いた。
「あんたはまず、自分に優しくしろよ。自分に優しい言葉をかけて、自分を守るんだよ。あんたが心を壊すようなことがあったら、それこそ瀧本氏は救われないだろ」
 俺の言いたかったことの一部を、滝本に言われてしまった。
「俺が言うのもおこがましいけど、タッキーの言うことも、わかる。段田には、まず、自分自身を大切にしてほしい。捨て身になって誰かをかばっても、段田を大切に思ってくれている人が苦しくなっちゃうんじゃないかな」
 言葉をぼかしたけど、俺は段田の食物アレルギーのことを言いたかった。瀧本との関係に気づいた教育実習生から、もしも捨て身の覚悟で瀧本をかばったりなんかしたら、それこそ段田は巧妙な手口で教育実習生に殺されていたかもしれない、そんなことがあったら、瀧本が自殺せずに生きる未来があったとしても、瀧本は今の段田みたいに苦しみながら生きていただろう。瀧本が死んで良かったことなんて、無い。だからといって段田が死んで良いはずもない。段田が苦しみ続けることも、無い。
「段田、あそこ」
 書店の向かいの専門店で、段田の友人(取り巻き)が段田を待っている。それに気づいた段田の表情が、和らいだ。
「あんたの言葉、そっくりそのままあんたに返すわ。あんたこそ、捨て身の優しさなんか、止めなさい。あたしは、やっぱりあんたに深入りするのが怖いから友達になれないけど、あたしの話を聞いてくれたことは感謝してる。ありがと」
 段田は、友人のところに行ってしまった。
「……あいつ、無理矢理パンを食わせたことは謝らないんだな」
 滝本が、ぼそっと呟いた。
「あれはもう、俺の中では時効だよ」
「あんたは、やっぱり優し過ぎる」
 滝本が、呆れてしまった。でも、俺の中では時効だ。
「バイト、何時まで?」
「2時」
「そろそろ終わりか」
 段田の話を聞いていたら、もう退勤の時間が近づいていた。
「じゃあ、バイトが終わったら……」
「すみませんね、先約があるので」
 猛暑の真夏なのに、鍾乳洞みたいに冷たく美しい声に割り込まれた。あああ……! あいつ、もう来やがった!
「あんた、どこの川から泳いで来たんだ?」
 濡れたまま髪を掻き上げる彼に、滝本が突っ込みを入れた。
「ちょっと千曲川で……というのは冗談で、急いでシャワーを浴びてきた」
「くっ……水も滴る良い男には、勝てない!」
 滝本が、なんか悔しがっている。俺が退勤したら遅い昼食でも、とか言おうとしたところに邪魔が入ったけど勝てる相手ではなかった、というところだ。
「行ってこい! 幸せになれ、バカヤロー!」
「おう、行ってきます」
 逃げる滝本に、彼が手を振った。それから、彼が俺に寄りかかる。
「……来ちゃった」
 来ちゃった、じゃないよ。ときめかせるのが早いんだよ。まだ感情をあらわにできる時間じゃないんだよ。
「待っててくれ」
「待ってます」
 彼は、いそいそと書店から出ていった。
 俺は平静を装って定時で退勤し、待ち合わせ場所に向かう。
「閑真!」
 俺が声をかけると、憂いを帯びた王子様が表情を明るくして顔を上げた。多分、俺も嬉しさを隠し切れていない。