オーブンの天使がささやく

 クッキングスタジオの体験教室の日。なぜか閑真も予約していた。会員も体験教室を受講できるシステムではあるらしいが。
「駄目! しーちゃん逃げないで!」
 逃げようとする閑真を、陽依が腕を絡めて止める。女子も羨むような大きな胸が閑真を押さえつけ、閑真は逃げられない。陽依から逸らした顔が、赤い。
「おいムッツリスケベ、照れてんのか」
 俺は容赦なく突っ込みを入れてしまった。大丈夫か、教員志望。ちょっと意外だが、閑真もやはり、年頃の青年だ。
「陽依ちゃん、ご褒美の刺激が強いみたいだから、そっとしてあげなさい」
 滝本に言われ、陽依は渋々と閑真から離れた。
 今回の体験教室の内容は、トロピカルフルーツのバスクチーズケーキ。材料を混ぜるだけだと思ったのが間違いだった。普段からハンドミキサーを使わない俺にとって、ハンドミキサーの扱い方すら教えてもらわないとわかならい。滝本も同様。キッチンカーをやりたい陽依と、既にシュークリームを履修済の閑真は慣れた手つきで、ハンドミキサーで材料を混ぜてゆく。俺と滝本は、ボウルの中で暴れるグラニュー糖とクリームチーズとの戦いだ。
 生地を型に流し込んでオーブンに入れ、ほっと溜息をついたのも、つかの間。
「頑張り屋さん」
 隣のオーブンを使う閑真に話しかけられ、どきっとしてしまった。
「……ただ、必死なだけだよ」
「そういうところが、好きです」
 直球に言われると、返事に窮してしまう。
「惚れ直してしまいます」
 追撃された。
 でも、閑真にばっかり言わせて、俺はそれっぽいことを彼に伝えられていない。
「閑真だって、凄いやん。慣れた手つきで」
「それは、ただ、回数をこなしているから」
 謙遜した。今だ。
「素敵だよ。俺は好き」
 彼は形の綺麗な唇を結び、固まった。頬が赤い。キスしてしまいたいが、人前でそんなこと、できない。恥ずかしくなってオーブンに目をやると、チーズケーキが膨らんでいた。
「え、凄い! 膨れてる!」
 照れ隠しというわけでもなく、純粋に、驚いた。閑真も、自分のオーブンを食い入るように見入る。
「本当だ」
 なぜ閑真は俺に甘えてくれるのか。なぜ俺は閑真と関わりたくなってしまうのか。多分、こういうところが近しいからだ。「天使のささやき」を聞きたくて耳を澄ませ、チーズケーキの膨らみに驚いて釘付けになる。そういう人と、一緒にいたい。


 チーズケーキが焼き上がり、ケーキクーラーで冷ます。俺は自分の焼いたチーズケーキを食べられるのか不安になったところ、インストラクターの目を盗んで閑真がケーキクーラーごとチーズケーキを入れ替えてくれた。俺は閑真のチーズケーキをお持ち帰りすることになる。
「これ持ったままじゃあ、ランチできないな」
 まさか、滝本からランチの提案が出た。
「受付で預かってもらえますよ」
 以前からの受講生、閑真は、わかっている。
「4人分、預かってもらえるの?」
「4人」
 閑真が陽依に訊き返し、陽依、滝本、俺を指差す。
「しーちゃんもだよ!」
 陽依が再び、閑真をがっつりホールドした。
「でも、俺は」
 ――あなたにはお友達がいるから、俺は必要ないんじゃないかって。
 かつて、閑真はそう言って交友関係を絶とうとした。それは違う。少なくとも、俺は。俺も、滝本も、陽依も。
「良いじゃん。ランチ、行こうよ」
 反対側を滝本にホールドされ、閑真は連行される。行先は、他フロアのレストラン街だ。
「変わり種素麺(そうめん)!」
 陽依が素麺の専門店を見つけ、その店に入ることにした。俺は、焼肉やお好み焼き、鍋料理など自分で調理するメニューは食べることができないが、最初から最後まで他人が調理したものなら食べられる。
 滝本と陽依、閑真と俺が隣り合ってテーブルに着き、素麺カルボナーラや、素麺ジェノベーゼ、鶏飯風などそれぞれ好きなメニューを注文した。
「……あたし、しーちゃんのこと好きかも」
 急に陽依がとんでもないことを言い出し、閑真がプラスチックカップの水を噴き出しそうになった。
「軽い気持ちで抱きついたら、そんな気がしてきて」
「……俺も、閑真のこと好きかも」
 陽依に続き、滝本もえらいことを口走る。
「さっきは深い意味もなく腕を押さえつけてたけど、なんか恋人つなぎみたいだなって」
 ふたりとも、照れ隠しに手で顔を隠してしまう。
「ふたりとも、ごめんなさい」
 閑真の手が、俺の肩にまわされる。
「俺は、彼の所有(もの)なんです」
 俺は、閑真に肩を抱き寄せられた。
 滝本は呆気に取られた表情をして、陽依は小さく驚く。
「……ですよね」
「……ですよね」
 ふたりとも、なぜか敬語。
「推せる!」
「閑真、押し倒せ」
 ふたりは引くどころか、応援する気だ。距離を置かないでくれて安堵したが、距離を置くどころか距離が近い気もする。
「しーちゃん、サイドメニューを頼んでたよね?」
「ええ、はい」
 陽依も、閑真も、にやりと笑った。ワンテンポ遅れて、滝本も、ああ、と納得する。するなよ。
「人前では、嫌ですか?」
 俺に「あーん」てさせる気満々だ。嫌とも良いとも言えずにいると、サイドメニューが来た。
「しーちゃん、ごめん。……やっぱり、やんなくて大丈夫」
「できますよ」
「やめてあげて!」
 閑真が注文したサイドメニューは、納豆の揚げ春巻きだ。俺は普通に食べられるメニューだが、王子様みたいな雰囲気の閑真が抵抗なく注文したのは、意外だ。
「俺も、平気だけど」
「……ごめん、俺は見たくない」
 滝本からも、撤回された。
 普通に、4人で納豆の揚げ春巻きを分け、素麺料理を食べ、学外でランチをする、ちょっと良い時間。こんな時間を過ごすなんて、少し前の俺は考えていなかっただろう。この時間を閑真と過ごしていることも、そもそも、閑真と近過ぎる関係になったことも。
 俺もクッキングスタジオに入会すれば、閑真の隣でオーブンを見つめる時間が増えるんではないかと、邪な考えが頭をよぎった。