オーブンの天使がささやく

 小さくなる段田の背中を見送って、俺も一歩間違えたら段田みたいな思考回路になっていたのかもしれないと思った。そうならなかったのは、義父と祖父母のお蔭だ。
 段田は多分、感受性が強い。人と距離を置いていないと相手の感情にのみ込まれてしまう。それが怖くて、あんな言動になってしまってもおかしくない。段田の話を聞いていた俺も、のみ込まれてそうになっている。気を抜くと、濁流みたいな感情に支配されそうだ。気のせいか、頭が重い。
 いつの間にか、オフィススタイルの大人が増えている。18時を過ぎたようだ。
 オフィススタイルの人達に交ざって、マスクを着けていても美しさが隠せない男がいた。
「風邪を引かせてしまいましたか」
「お互い様だな」
 俺もマスクを着けたままだ。お互い様だ。
「今日も料理教室?」
「今日は、ありません。今、5限が終わったところ」
「教育学部は、忙しいね」
「やりたくて、やっているから」
 双眸が綺麗だから、マスクで鼻と口を隠しても綺麗な顔が隠せない。目を合わせるのが恥ずかしくて、仕事中だからと背を向けようとすると、一歩詰められた。周りに人がいるのに。お客さんがいるのに。
「お、お客様、何かお探しですか!?」
 周囲の視線を集める前に、とりあえず、接客。
「あなたに会いに来ました」
 ふたりきりなら問題ないかもしれないが、公衆の面前でとんでもないことを言いやがった。
「忘れ物を、していたから」
「忘れ物?」
「今日は、来られますか」
 持ってないのか。俺が取りに行くのか。俺が行くのか!? 今夜も閑真の部屋に!?
「お、あの、おれ……!」
 急に頭の中が沸騰した感じになり、ふらっとした。閑真が耳元で俺の名前を呼ぶ。先輩や社員の声が聞こえる。
 自分が倒れたことに気づいたのは、バックヤードの簡易テーブルに突っ伏して寝ていたときだった。一瞬のことのように感じたが、10分くらい爆睡していたらしい。意識喪失でなくて良かった、と社会福祉学科の先輩が安堵した。俺は、店長の判断で早退させられた。会社としても、体調不良のスタッフを働かせるわけにはゆかないみたいだ。
 帰り支度をして、通用口からフロアに出た。昨日のように閑真がいるんじゃないかと期待して。
「あ」
 俺達の声が、重なった。昨日のように、近くのベンチに、閑真は居た。弾かれたようにベンチから腰を浮かせ、瞳に涙を浮かべる。
「平気、なのか」
「うん。寝てただけ。体調が悪いと思われて、早退させられちゃった」
「体調、悪いんじゃないの」
「悪くないよ」
 少しの間だけ、沈黙が訪れた。俺が先に口を開いた。
「忘れ物、何だっけ?」
「シュークリームです。箱ごと、冷蔵庫に入れっぱなし」
「そうだった……!」
 賄賂として貰ったシュークリームのことを、すっかり忘れていた。
「食べます! 食べたい! ウチついて行って良いですか?」
「もちろん」
 このときの俺は、無邪気なものだった。子ガモ()親ガモ(閑真)の後をついて電車に乗り、昨日の駅に降りる。スーパーで食材を買い、暗くなる道を手をつないで歩く。で、気づいた。俺は、今日もお持ち帰りされている。シュークリームを箱ごと取りに行けば良いだけのはずなのに、当然のように閑真のアパートに上がり込み、夕飯を待てずにシュークリームを食べてしまい、トマトの香り濃厚なパスタが出てくると、当然のように皿に手を合わせた。
「お、俺を殺す気か……!」
「暗殺者のパスタですから」
 閑真は平然とパスタをフォークに絡めて器用に食べているが、俺は一口ごとに悶絶しそうだ。ケチャップと紙パックのダイスカットトマトくらいしか使っていないはずなのに、生のトマトを使ったのではないかと思うくらい新鮮で濃い味がする。
 トマトソースまみれの口を拭く間もなく、口を奪われる。トマトソースが残る舌を舌で撫でられ、理性が一掃された。俺は、心のどこかで彼にお持ち帰りされたくて、お持ち帰りされたのだ。