オーブンの天使がささやく

 段田は、大きく溜息をついて、天井を仰いだ。
「なんで、皆は楽しそうに生きてるんだろう」
 普段からアイラインで二重まぶたに見せる段田だが、今の段田は、メイクを気にする余裕が無い。ファンデーションは皺で割れている。
「自分ばっかり、なんて思いたくないけど、自分ばっかりって思っちゃう」
 段田は、グロスの薄くなった唇を、きゅっと結んだ。
「幼馴染みのひとりに、瀧本っていう男子がいてね、大学の滝本とは少し字が違うだけの。中学でハンドボール部のキーパーをやってて、当時は体が大きい男子に見えた。陽キャのグループには居なかったけど、陽キャ達が真面目に一目置くくらい、信頼されてる印象だった……自殺しちゃったけど」
 自殺した中学生というのは、その瀧本のことらしい。
「瀧本は、教育実習生の男に目をつけられてた。男だけど家庭科の先生?ってクラスがざわついたのをよく覚えてる。ビジュ良いじゃん、何で家庭科?って思われたけど、落ち着いてて大人っぽくて、皆すぐに打ち解けた。あたしも、すぐに信用しちゃった。馬鹿だった。実習生は、瀧本を恐怖で支配してた。放課後に見ちゃったの。瀧本が実習生に抱きしめられて、体を触るように促されていたの。瀧本は、震えながら許しを乞うていた。実習生より体の大きい瀧本が泣いて逃げようとすると、実習生は、無理矢理瀧本にキスして……あたしも怖くて、見ないふりをして逃げた。次の日から、瀧本は覇気が無くなった。あたしを避けるようになって、あたしが瀧本をいじめてると言われるようになった。担任の先生に相談しようとした日は家庭科の調理実習で、あの実習生も参加してた。ハンバーグをつくる予定だったんだけど、あたしは玉ねぎアレルギーがあるから、あたしの班は玉ねぎの入れないハンバーグをつくる予定だった」
 段田は、ようやく一呼吸おいた。赤の他人の俺が聞いても胸糞悪い話だ。教員による生徒への犯罪行為はたびたびニュースで聞くが、それだけでも充分怖い。目の当たりにしたときの恐怖は計り知れない。
 というか、段田は玉ねぎアレルギーなのか。クッキングスタジオのオニオンブレッドを持ち帰らなかったのも、今なら共感できる。あのとき言ってほしかったけど。そもそも、アレルギーがあるのに体験教室に行くなよ。今言っても遅いけど。
「それなのに、材料を捏ねる段階で、みじん切りの玉ねぎを入れられてしまった。班のメンバーが実習生に『玉ねぎは?』と指摘されて、入れなくてはならないと思って入れちゃったみたい。あたしはそのとき、つけ合わせの野菜を用意していて、ハンバーグのたねに玉ねぎが入ったことに、気づかなかった。実食のときにハンバーグに玉ねぎが入っていたことに気づいて先生に報告したら、食べる前で良かったね、と笑われた。あのとき、実習生が冷ややかな目をしていたのを、忘れない。実習生に仕組まれたと思うのは被害妄想と言われてしまうかもしれないけど、アレルギー持ちにとっては恐怖なんだよ」
 教育実習生が間接的にアレルギー物質を混入させて段田に食べさせようとした、と俺も考えてしまった。考え過ぎかもしれないが、自衛にも限界がある。俺のクラスにも甲殻類アレルギーの生徒がいて、給食でアレルギー反応を起こしてエピペンを使ったことがある。生徒のアレルギーは、学校側も気にしてほしいところだ。
「調理実習の後に、職員室に押しかけたよ。家庭科の先生に、アレルギーのことを軽く見過ぎだと訴えた。でも、家庭科の先生は、きょとんとしてて、玉ねぎアレルギーじゃなくて、ただ嫌いなだけだって瀧本から聞いたよって言いやがったの。あたし、瀧本を問い詰めちゃった。そしたら、瀧本は泣きながら、ごめん、と。俺は逆らえないんだと。次の日、瀧本は学校に来なかった。学校は休校になり、あたしは警察に事情聴取された。瀧本と実習生が、それぞれ自宅で自殺したって。瀧本も実習生も、遺書を残していて、ふたりとも、あたしに自殺教唆されたという趣旨の内容を残していた。実習生に関しては、実は教員になるには足りない科目があるのを隠していたことをあたしが知って脅迫されたとか書きやがった。そんな情報源、中学生にあるわけないだろ。誰も彼も、遺書を信じてあたしは信じてもらえなかった。親も、あたしがいじめの加害者で脅迫したと信じて疑わなかった。第三者委員会をやってほしかったけど、そこまであたしの声は届かなかった。父親のコネで家庭裁判所沙汰にはならなかったけど、あたしはもう、中学校の教室に入ることはできなかった。卒業まで、保健室登校。保健室に来る人から、犯罪者扱いされた。あたし、どこで間違えたんだろう」
 段田の過去が、思った以上に、つら過ぎる。
「なぜ、俺に話してくれたの?」
「誰でも良いから話さないと、心が軽くならないと思ったから」
 一緒に聞いていた店長も、難しい顔をして黙り込んでしまった。
「俺があれこれ言ってどうにかなるわけじゃないけど、段田は家庭科の男の先生が嫌いなんじゃなくて、トラウマなんだよ。カウンセリング……受けるのは難しいか」
「うん。父親がそういうの嫌いだし、加害者と決めつけられてるから、そういう人は余計にカウンセリングを受けちゃ駄目だと思われてる」
 段田は苦しそうに胸を抑える。
「今はまだ、親の保護の下にいるけど、大学を卒業して社会人になったら、反発してでもカウンセリングを受ける。それまで、頑張って我慢しなくちゃ」
「段田」
「すみません、仕事中に」
 段田は、俺ではなく店長に謝り、書店を出ていった。