オーブンの天使がささやく

 17時にタイムカードを認証し、出勤する。書店の客の出入りを見るうちに、社会人の定時は18時くらいだと思うようになった。18時を過ぎると、オフィススタイルの大人が多くなるのだ。俺も4年後には、あんな風になるのだろうか。4年後の自分が想像できない。
「なあ、昨日のことだけど」
 社会福祉学科の先輩に訊かれ、俺は身構えてしまった。昨日のこと。閑真が急に俺をロックオンして退勤後に待ち合わせすることになってしまい、その後は……今思い出したら歯止めが効かなくなる。
「高齢者に上手く対応する秘訣」
「そっち!?」
「他に何かあったっけ」
「……無いです」
 閑真のことでは、なかった。
「田舎暮らしだったから、周りはおじいちゃんおばあちゃんばっかりだった、せいかもしれません」
「俺も田舎。実家は静岡だよ」
 急に行き詰まった。
「あ、いらっしゃいませ」
 先輩の気を逸らしたくて、その辺の客に声をかけ、その相手が段田だと気づいた。気まずい。先輩からも段田からも逃げられず、詰んだと思ったとき、段田が平積みの新刊に倒れ込み、雪崩が起こった。
「段田!」
 気がつくと、俺は段田を抱えて起こしていた。
「その子、事務所で休ませられる?」
「はい!」
 売り場の復旧作業は先輩達に任せ、俺は段田を事務所(バックヤード)に連れて行った。狭い事務所には、店長が事務作業をするデスクと休憩用の簡易テーブルと椅子しかない。社員に断りを入れ、段田を椅子に座らせた。
 段田は簡易テーブルに突っ伏した。
「段田、その、病院とか」
「……いい」
 その「いい」は、肯定なのか拒否なのかわからないが、静止するように手を見せたので、拒否なのだろう。
「……本、弁償しなくちゃ」
 段田は立とうとしたが、社員が止め、弁償の必要は無いと説明した。
「……ごめんなさい。ふらふらしちゃって、本屋に入ったのも気づかなかった」
 そういえば、段田は電子書籍一択だ。紙の本を扱っている、書店に入るのは珍しい。
「あんたの耳にも、あたしの話が届いてるよね? あたしが滝本をやり込めたって」
 俺が何を話せば地雷を踏むのか、想像がつかない。
「俺は、タッキーから聞いた。段田が他のゼミ生に、タッキーをやり込めるように仕向けられたって」
「滝本……やっぱり、あいつは嫌い。あいつの一見優しそうなところに飲み込まれそうになる」
 段田が顔を上げた。
「あんたも、だよ。あんたも優しそうに見えるから、あんたのペースに飲み込まれるのが怖い。だから、嫌い」
 泣き腫らした目に涙が溜まり、テーブルについた手が震えていた。
「教育学部の生方閑真も嫌い。家庭科教師を目指す男は、皆嫌い」
「それは……昔の出来事のせい?」
 段田と話すのは、俺の方が怖い。すぐにでも売り場に戻りたいが、社員から「話を聞いてあげて」と止められてしまった。危なくなったら止めるから、とまで言われ、店長と一緒に段田の話を聞く羽目になってしまった。