オーブンの天使がささやく

 昼休み、いつもの空き教室に滝本は来なかった。
「風邪引いたの?」
 陽依に訊かれ、俺は曖昧に頷いた。
「予防、的な対策。段田がマスクをくれた」
「段田さんが?」
 陽依は大きな目をさらに丸くした。
「タッキーと段田さんが、大変だったみたい」
 俺が小耳に挟んだ話を、陽依も聞いていた。
「タッキーが基礎ゼミの発表の日で、結構大きな不備があったのを、他の学生が段田さんが指摘するように仕向けたんだって」
 俺が聞いた話と違う。
「それ、誰から聞いたの?」
「教授室。その先生は、タッキーと段田さん以外のゼミ生の態度を非難して、自分の意見を自分の口で言うように指導したけど、全然聞き入れてもらえなかったって。担当の先生が、タッキーと一緒に、他の先生に報告してたのを聞いてしまった」
「あー……色々と、何だかな」
 口を開いても、この場に適切な言葉が出なかった。基礎ゼミ担当の准教授が教授室で他の先生に報告していたのなら、信憑性が高い。
「先生は、タッキーのこと責めないし、ゼミの発表や討論、険悪になってしまったことをゼミ以外に持ち越さないように、ってどのゼミでも言われるけど、明らかに他のゼミ生が言いふらしてるんだよ。タッキーが被害者で、段田さんが悪いみたいに」
「確かに。段田は元気が無かった。あんな人だけど、落ち度が無いのに一方的にやり込められるのは、俺は嫌だな」
「あたしも、段田さんが悪くないのに悪者に仕立て上げられるのは、良い気がしない」
 陽依が教授室で聞いた話は、こんな感じだ。
 滝本は発表の序盤で、自分の大きなミスに気づいたが、とりあえず発表を乗り切った。発表の後は、他のゼミ生が講評をするのだが、段田以外の学生がこぞって「完璧でした」と発言し、ゼミの先生からもう少し考えて、と言われたが、そのゼミ生達は発言を撤回せず、まだ発言していなかったのは段田のみ。滝本の発表のミスを「他の選択肢を探したり、深堀りできるかもしれないけど、ここまで調べて発表出来たことを評価したい」と段田にしてはかなりオブラートに包んで講評にした。
 段田の評価を、他のゼミ生が集中砲火して袋叩きにした。他の選択肢ってどういうことか、深堀りとは具体的に、結局評価してるのしてないの、と段田の口から言わせ、先生が止めるのも聞かずに、段田が滝本をやり込めた、と段田が非難されてしまった。先生が指導しても、ゼミ生は聞く耳を持たず、昼休みになるから、と勝手に基礎ゼミを終了したのだった。
「タッキー、かなり落ち込んでるんじゃないか?」
「と思うよ。教授室であたしとすれ違っても、気づかないで出てったもの」
「3限、来るかな」
「さぼるような人じゃないけど」
 3限は3人とも同じ講義を受けている。
 学科の階は、段田の噂で持ちきりだ。3限はこの階の教室で行なわれるが、滝本のメンタルが保つとは思えない。
 教室の大きな窓から外を見ると、遠目からでもわかる美しい容姿に釘付けになった。マスクで鼻と口を隠していても、整った顔の形は隠せない。ベンチに座ったその彼の隣に、滝本がいる。
「生方の、しーちゃん!」
 陽依も気づいた。
 滝本が首を横に振り、閑真がなだめるように背中をさする。
 俺の中で、何かがざわついた。
 滝本が立ち上がり、閑真に頭を下げた。閑真もベンチから腰を上げ、教育学部のある建物に向かってゆく。滝本は、こちらの建物に走って来た。
「悪い! ちょっと、学科に居づらかった」
 滝本は、息を切らせて3限の教室に入ってきた。
「でも、もう大丈夫! 愚痴を聞いてもらったから、だいぶ平気になった」
 愚痴を聞いてもらった。閑真に。愚痴を話せる仲なのか。俺の中の嫌なものが、閑真にも滝本にも敵意を向けている。