オーブンの天使がささやく

「立ち話もあれなので、入って下さい。簡単なもので良ければ、夕飯もあるから」
 閑真が借りている部屋は、アパートの1階の角部屋ワンルームだった。外観は古そうに見えたが、中は新しくて綺麗だ。テレビもない、ラジオもない、備えつけの本棚があるのが羨ましい。ベッドは高さがかなり低い、ロータイプだ。
「何も無い部屋だけど、ゆっくりして」
 煌々とした照明の下で見る閑真の顔は、本調子とは言えない。頬に赤みが戻っていない。
「とりあえず、シュークリームは冷蔵庫に入れておくから」
「あ、ありがとう」
 俺の自宅アパートに買った冷蔵庫は、値段をケチってしまいケーキボックスが入るような大きさではない。それに対して、閑真の冷蔵庫は、若干大きめだった。タッパーをふたつ出すと、ケーキボックスがすっぽり入った。
「何か手伝えること、ある?」
「アレルギーや食べられないものを教えてほしいです」
「それ、手伝ううちに入らないよ。アレルギーも、食べられないものも、ないけど。嫌いなものも、無いし」
「それなら、豚丼でも良いかな。北海道名物の」
「豚丼? 食べたこと無い。時間かかるやろ」
「加熱するだけだから、かからないよ」
 閑真は、冷凍室からジップロックを出した。おそらく、米飯と味付き肉。冷蔵室から出したタッパーを開けてみせてくれた。タッパーの中身は、えのき和え物、もやしのナムルだ。
「家事スキル高っ!」
「もっと手の込んだ品を用意しておけば良かった」
「充分過ぎるってば!」
 ガスコンロは2個口。オーブンレンジまで買ってある。キッチンの装備は万全だ。
 凍ったままの味付き肉を底の深いフライパンに落とし、蓋をして加熱する。
「このフライパン、良いな。カレーなんか、材料を炒めたらそのまま煮込めそう」
 料理には、思い出したくない過去がある。それなのに、つい料理関係に目が行ってしまう。
「ごめん、俺、うるさいよね」
「全然。安心する」
 閑真はレンジに冷凍の米飯を入れ、加熱スイッチを押した。
「俺さ」
 レンジの稼働音が大きく聞こえ、周囲の静けさが際立つ。
「夜が、怖い。どんなに明るくても、夜空の色や夜の空気を感じると、怖くて震えて、逃げ出したくなる」
 閑真の手が、おそらく無意識に、また助けを求めて(くう)をかく。俺は迷わずその手を取った。
「俺の父親は、夜中に突然亡くなった。急性心不全だって。俺が小学校を卒業する直前だった。それから、夜が怖い。ほぼ毎晩、泣いて泣いて、泣き疲れてから眠れる。子どもじゃないのに、って、自分でもわかっているのに。今日はどうしてもケーキコースのシュークリームのレッスンを受けたくて、夜は怖さを我慢して帰れると思い込むことにした。それなのに、今日の夕方、あなたの姿を見たら、我慢できなかった。あなたに、すがりたかった」
 わかるよ、と安易に同調したくない。電車に乗る前も、駅に着いて改札を出た後も、閑真は恐怖に押し潰されそうになっていた。
「何かが怖くてすがりたい気持ちは、俺にもある」
 閑真は、打ち明けてくれた。俺も、閑真になら打ち明けられる。打ち明けられるという大袈裟なものではなく、この前変なところを見せてしまったから釈明しないと不審がられる、という後ろ向きの理由だ。でも、これが段田相手だったら話したくないし、滝本や陽依にも話すのを躊躇う。閑真になら、なぜか話せそうだ。
「俺は、自分が料理したものを食べることができない。すぐに気持ち悪くなって、吐きそうになるし、吐いたこともある……ごめん、ご飯の前なのに。過去にも何人かに話したことがあるけど、家族以外には信じてもらえなかった」
 原因は、あの母親だ。不味い、汚い、と毎回言われるようになり、味見と俺自身の「不味い」という言葉を強要された。飲み込むことができずに吐き出してしまうと、やっぱりそうね、と変な納得をして、俺の味覚がおかしくなったことに気づかなかった。
 俺の異変に気づいたのは、義父だった。義父は俺を母のから引き離してくれて、仕事を辞めて多治見の実家の会社を継いだ。
 祖父母も俺のことを受け入れてくれて、俺が自分のつくった料理を食べずに済むように気遣ってくれた。俺が初めて栗きんとんをつくったとき、祖母は前もって用意した高級和菓子店の栗きんとんを俺に食べさせてくれた。「まごまごのお料理は、本当は美味いんや」というのが、義父と祖父母の口癖だった。
 学校の家庭科の授業が、ネックだった。調理実習で料理を食べなくてはならない。義父があらかじめ学校に話をしてくれたが、学校の先生はまともに取り合わず、俺が着手しなかった料理だけ食べて、俺は同じ班の人にこっそりあげた。
「信じるよ」
 閑真が、手を握り返した。
「あのとき、見たから。あなたが苦しそうなところを。あんなにつらそうなのに、信じない方が信じられない」
 フライパンから、甘辛ダレの焦げる匂いと、レンジから急かす音が聞こえる。
「あなたは、健気だね」
 閑真は、そっと手を離し、ただでさえ近い距離をさらに寸前まで詰めてきた。だがしかし、フライパンの味つき肉が明らかに焦げた臭いを発している。
「俺は、あなたのこと……」
「こーげーてーるー!」
 俺は閑真を押してコンロのスイッチに手を伸ばした。火事にならずに一安心。
 のはずだったが。
「あなたに迫られるのも、悪くない」
 俺は、不可抗力で閑真に抱きついていたのだ。俺は閑真に抱き寄せられ、顔のポジションが無くて上を向かざるを得ない。至近距離に、閑真の綺麗な顔がある。あ、無理。消火できてない。ショック療法されたことを思い出してしまう。
 さらに顔を近づけられ、ショック療法にカウントするとかしないとか考える余裕もなく、どちらからとか意識する余裕もなく、俺達は唇を重ねた。