オーブンの天使がささやく

 空いていた席に突きとばすように、閑真を座らせる。閑真は抗うことなくシートに座り、膝に肘をついて俯く。俺は閑真の前に立ち、吊り革に掴まった。
 次の駅で、閑真の隣のシートが空いた。閑真はおもむろに顔を上げ、涙を湛えた瞳で俺を見つめる。なんでそんな捨てられた子犬みたいな目をするんだ。くそっ。
「……なぜ」
 割れた氷を連想させる、細い声だが、耳にしっかり届く。
「……自宅とは反対方向だよね」
「反対だよ」
 俺は閑真の隣に座った。
 閑真は、ぐったりと俺に寄りかかる。
「あなたは、バウンダリー侵害をしない。ただ近くにいるだけで、ほっとする」
 言葉が途切れ、閑真が肩で息をしたのが感じられた。
「……眠い」
「寝てなよ。最寄り駅で起こすから」
「……うん」
 何とか最寄り駅を言った閑真は、静かに寝てしまった。寝息が、くすぐったい。近くにいるだけで、ほっとする。
 約10分後、最寄り駅の一駅手前で閑真は目を覚ました。顔色は、まだ戻っていない。
 最寄り駅のホームに降りると、閑真の足が止まった。手が震えている。
「……もう、平気です」
「どこが!?」
 俺は配慮という言葉を忘れて突っ込みを入れてしまった。
「……ごめんなさい。嘘です。百パーセント嘘ではないけど、半分くらい平気じゃないです。もう成人なんだから、強がって、堂々としなくちゃならないのはわかっているのに」
「強がらなくて良いんだよ。俺は医者でも警察でもないけど、隣にいるくらいなら、できる。明日は2限目から授業だから、夜遅くなっても平気やし」
「そんなの、悪い、けど」
 閑真の震える手が、俺に向く。彼の双眸から溢れた涙が頬を伝い、顎からこぼれ落ちた。
「甘えても良いですか……」
「もちろん」
 俺は何も考えず、閑真の顔に触れてしまった。頬に、顎に、涙の一雫を拭う。閑真の冷たい手が、俺の手に重なった。真っ青な唇の吐息が、温かかった。