オーブンの天使がささやく

 21時になり、店長と一緒にシャッターを下ろして退勤した。
 閑真は待ち合わせ場所近くのベンチに荷物を置いて腰を下ろしていた。お待たせ、と声をかけようとしたが、背中を丸くして元気なさそうだった。声をかけて気を悪くされたら、どうしよう。
「あの」
 勇気を振り絞って言葉を絞り出すと、閑真は顔を上げて(ちから)なく微笑んだ。
「おつかれさま」
「閑真も、おつかれさま」
 閑真は、形の綺麗なアーモンドアイを丸くした。閑真がベンチに置いていたのは、トートバッグとケーキボックス。ピンクベージュを貴重としたケーキボックスに描かれているのは、クッキングスタジオのロゴだ。
「……この箱、目立つよね」
 閑真はベンチから腰を上げ、ケーキボックスを持つ。ケーキボックス、全然目立たないよ。
「優しい色だよ。こういう色の皿が、あるよね」
「あるね」
 ちょっとだけ、閑真の顔から緊張が抜けた。
「今日は、ケーキコースのレッスンだった。シュークリームを焼いてきました」
 閑真はケーキボックスを開けた。粉糖で雪化粧した、パティスリーのシュークリームと(たが)わないクオリティのシュークリームが5個、金色のコースターみたいなトレイに鎮座し、保冷剤でがっつりガードされている。
 俺は何の気無しにケーキボックスを受け取ってしまった。
「賄賂です」
 賄賂?
「電車に乗るまで、ホームに一緒にいてもらえますか? 変なことを頼んでいるのはわかっているけど」
 敬語とタメ口が混ざり合う。閑真の瞳が涙を湛え、真一文字に結んだ口元は震えている。
「全然変じゃないよ。賄賂なんかもらわなくても引き受けるけど……やっぱり食べたいので賄賂を頂きます」
 賄賂なんか、と言ったら気を悪くされると思ったが、手作りのシュークリームを食べてみたいのも事実。後でひとつ頂くつもりだ。
「……もらってくれて、ありがとう」
「とんでもない。行こう」
「うん」
 閑真は覇気が無い。段田に何を言われても平然としていた閑真は、何か悩んでいるのだろうか。
 片手にケーキボックス。片手は閑真に触れそう。手が触れたら嫌がられるかな。そこまで妄想し、ふと思った。訊いたら嫌われるかな、と躊躇(ためら)ったが、数分とはいえ今の俺はボディーガードのようなものだから、聞いておいて間違いは無いはずだ。
「もしかして、誰かに待ち伏せされてる?」
「その心配は、無い。今のところは」
 でも、声が震えている。
「でも、あなたに待ち伏せさせるのなら、全然構わない」
「俺!? なぜに」
 駅の改札を通り、普段とは違うホームに下りる。この時間のホームは、人がまばらだ。東京の夜は、外の明かりが煌々としていて、空は闇の色だが、暗くない。
「あなたには、気を許したい。こんな風に思うのは、なっから初めて」
 俺の薄手のパーカーの袖を、閑真は、くしゅっと掴んだ。少女漫画みたい。不謹慎だけど心が弾む。
「全然、俺に気を遣う必要なんか……」
 俺より背の高い閑真を見上げ、表情を伺おうとして、弾んだ心が一気に粟立(あわだ)った。閑真の白い頬は青ざめ、震えている。
「具合、悪いんか!?」
 駅員を呼ぼうとしたタイミングで、電車がホームに滑り込み、ドアが開いた。
「……平気です。今日は、ありがとう。気をつけて帰って」
 袖から手を離して電車に乗り込む閑真を追い、俺も電車に乗った。あんなに具合が悪そうなのに、放っておくことなんか、できない。