オーブンの天使がささやく

「体験教室行かない?」
 リーダーからそんな話題が出たのは、大学入学から1か月近く経った、4月最終週だった。
「良いじゃん!」
「行く!」
 入学時のオリエンテーションで同じ班になった6人でグループを組むようになり、このグループで行動するようになった。体験教室を提案した女子、段田(だんだ)姫和(ひより)。小柄だが押しが強く、いつも明るく前向きな性格だ。美人顔ではないが、メイクが上手いらしく愛嬌があって誰からも好かれやすい。でも、俺は苦手だ。
「あんたは?」
 段田に訊かれ、俺は首肯した。
「決まり! 予約するね」
 段田の機嫌を損ねたら、何をされるかわかったものじゃない。入学してから早4か月。すでにターゲットにされた学生がいる。正直なところ、段田から距離を置きたいが、トラブルなく大学生活を過ごしたいので、様子を見ている。
 懸念事項が、もうひとつ。段田の言う体験教室は、大手クッキングスタジオである。段田の性格も、発言も、母を思い出させる。
『男の『料理好き』は武器になるけど、女の『料理好き』は搾取されるだけ』
 それが母の口癖だった。
『だから、あたしはあんたを料理好きの男に育てる』
 それが俺のトラウマである。


 大手クッキングスクールは、大学の近くではないが、最初の乗り換えの駅の商業施設内にある。
 大型連休前日の講義の後に、段田が予約したレッスンは、料理ではなくパンの体験だった。
「エプロン似合うじゃん! きも!」
 いつも以上にテンションの高い段田に、背中をどつかれた。
「意外だな、段田が料理に興味あるなんて」
 段田に臆せずに話しかけることができるのは、元・柔道部だという滝本(たきもと)(いつき)という男子だ。
「は? あるわけないじゃん!」
 クッキングスクールの生徒や講師が居る前で、段田は大きな声で言い切った。
「体験したら興味出るかもしれないから、体験教室受けるんだよ! そんなの普通じゃん!」
「きっかけは、人それぞれだと思うが」
「そうだよ! 人それぞれだよ!」
 滝本が、やんわり牽制したが、段田には伝わっていない。せっかく眉を綺麗に描いたのに、その眉をこれでもかと歪めてしまう。
「ていうか、あんた、酷くない? ここの生徒とか先生が嫌な気持ちになるかもしれないのに、あたしにそういう発言をさせるなんて!」
「俺も悪かった。ごめん」
 滝本は早々に謝ったが、段田はヒートアップして止まらない。
「『俺も』じゃないよ! 『俺が』だよ! あんた、本当に酷い! でも、一番酷いのは、あんたよりもあいつだけどね!」
 段田は腕を伸ばし、離れたテーブルで作業をする人物を、びしっと指差した。背が高く痩身のその人は、段田が一方的に嫌う男子、生方閑真である。