りんごを貰ったあの日から、
わたしは少しずつ、わたしを知っていった。
*
春は好きだけど、嫌いだ。なんて矛盾しているけれど、本当にそのような気持ちが心のなかにある。
わたしは今日から新しい学校の制服を着て、腕にある傷を隠す。
……夏までになんとか癖を無くさないと。半袖だと誤魔化せないもんね。
体を痛めつけてまで周りや自分自身を嫌いになる理由が、わたしにはある。
「おはよ」
「おはよう、果林。制服似合ってるじゃない。やっぱり紅林学院の制服は可愛いわよね」
「ありがと」
「朝ごはんできてるから、食べちゃってね」
本当は、朝ごはんなんて食べたくない。胃が重い。
でも、こうしないとお母さんを心配させてしまうから。少しでも元気なフリをしないといけない。
「高校も無理せず自分のペースで頑張ってね。もちろん留年なんてことになったら困るけど」
「分かってるよ。自分でこの高校を選んだんだから」
「でも、本当に体調には気をつけて」
わたしは頷いて、席を立った。
腰まである長い黒髪をくしで梳かし、軽く化粧をする。
お母さんが肌が綺麗なおかげかわたしもニキビやシミができにくいので、あまり濃い化粧をすることはない。朝の身支度に手間がかからないためありがたく思う。
「じゃあ行ってきます」
「気をつけてね」
電車にガタン、ゴトンと揺られながら周りを見渡す。
同じ制服を着ている人は、誰一人いなかった。それもそのはずだ。
わたしは、知っている人が誰もいない高校をわざと選んだのだから。
三十分ほどで学校の最寄り駅に着き、わたしは電車を降りる。
すると急に席を立ったからか、目眩がしてしまった。
いけない、と思ったときには遅かった。頭がぐるぐる回るなか、わたしは隣の男性にもたれかかってしまったのだ。
「大丈夫ですか」
男性はわたしが落ち着くまで駅のホームの椅子に座らせてくれた。
しばらくしてわたしは目眩が無くなり、呼吸も深くできるようになった。
「本当に、ごめんなさい。迷惑掛けて」
「いや、俺は別に。あなたは大丈夫なんですか。寝不足?」
「……起立性調整障害を、患っていて。朝が弱いのと、さっき急に立ったので、それのせいで」
起立性調整障害。
その病名を知っている人はあまりいないと思う。
だけどその男性は知っていたのか納得したように「あー」と頷いた。
「俺も自律神経失調症」
「え……そうなんですね」
だからこの人はわたしの病気を理解し、そばにいてくれたんだ。
よく見ると高身長のいわゆるイケメンで、少し見惚れてしまった。恥ずかしくなり急いで視線を逸らす。
「その制服、紅林学院でしょ?」
「は、はい」
「俺も紅林に通ってる。三年だけど、あなたは?」
「えっ、一年、です」
うそ、同じ高校の先輩?
まさかこの人が高校生だとは思わなかった。もっと大人っぽく見えるので、大学生くらいかと思っていたから。
「名前、なに」
「白雪 果林です」
「俺は五味 大地。大地でいいよ。よろしく、白雪さん」
「よろしくお願いします、大地先輩」
そう言うと、大地先輩はバッグの中から何かを探して、渡してくれた。
「え……り、りんご?」
渡してくれたものは、カットされたりんごが入っているプラスチックの容器だった。
「知ってる? りんごって食物繊維が豊富で水分もあるから、栄養が優れてる」
「わたしにくれるんですか?」
「うん、元気ないし。それになんか白雪さんっぽいから」
わたしっぽいって、どういうことだろう。
疑問に思いながらも、わたしは受け取って「ありがとうございます」と答えた。
その後友達と待ち合わせしてるから、と言って大地先輩は先に行ってしまった。
……優しいけど、不思議な人だったな。
わたしは、友達なんてできるのだろうか。またあんなことになってしまったらと思うと、他人の心に踏み込むのが怖い。
昇降口でクラス表を見て、わたしは教室に向かった。
「同じクラスじゃん!」
「まじで嬉しいー!」
どうやら、同じ中学校の友達が同じクラスになったという人が数名いるようだ。
席について読書をしていたり、教室の隅で会話をしていたり、手鏡を見ながら前髪を直していたり、さまざまだった。
わたしは一旦荷物を整理し、憧れだったスクールバッグを机の横に掛ける。
……不思議。先月までは、あれほど教室が嫌いだったのに。もう我慢しなくていいんだ。
そう思うと、本当に心が軽かった。
「席についてー。おはようございます。今日からこのクラスの担任の飯島です。よろしくねー」
「お願いします!」
「早速だけど、自己紹介をしてもらう」
担任は、女性の先生だった。
飯島先生がそう言うと、教室中に大ブーイングが起こる。
「名前と好きなもの、あとは希望の部活動を言ってくれ。えー、じゃあ新井から」
「はい! 新井のばらです。好きなものはお花、希望の部活は演劇部です。よろしくお願いします!」
新井のばらさん。わたしの隣の席の子だ。
高い位置で結んであるポニーテールと、少し茶色の髪の毛が特徴的。
濃いオレンジメイクが似合っている。
「じゃあ次は……えー、白雪」
「はい。白雪果林です。好きなものは……」
どうしよう。何を答えよう。
パニックになりかけていたとき、大地先輩のことが頭に浮かんだ。
「好きなものは、り、りんごです」
思いきってそう言うと、「え? りんご?」「何でりんごなんだろう」とヒソヒソ話を始めていた。
……失敗した。いつもわたしはこうだ。
周りとは少しズレていて、変な扱いをされてしまう。学校が変わっても、やっぱりわたし自身を変えることはできない。
泣きそうになり、唇を噛んだ。
「あははっ、りんご!?」
ビクッとして隣を見ると、新井さんが腹を抱えて笑っていた。
それまでヒソヒソと話していたクラスメイトも一斉に新井さんを見る。
「なにそれ、おもしろい! 好きな食べ物がりんごなの?」
「え……いえ、あの、なんとなく思いついたというか。朝、りんごを貰って」
「りんごを貰うってどういう状況!? あはは、白雪さんっておもしろいんだね! 朝からめっちゃ元気もらえる! ね、みんなもそう思わない?」
突然の状況に、みんなポカンと口を開けていた。
だけど少しずつ「確かにおもしろいね」「うん、元気出る」「白雪さんって何者!?」と、みんな笑みかこぼれていた。
先程までとは違い、この教室中の雰囲気も、わたしの心も、あたたかかった。
「あの……ありがとう」
「え、何が? それより自己紹介の続き、はやく!」
「あっ! え、えっと、部活動は特に決まっていません。これから……お願いします」
わたしが礼をすると、拍手が起こった。
隣を振り向くと、新井さんが誰よりも大きく拍手をしてくれていた。
……すごい。この人は、周りをよく見て助けてくれる。
あとでちゃんとお礼を言おう。そう思った。
「あの、さっきは本当にありがとう。助かりました」
「あっ、白雪姫!」
「え……白雪、姫?」
新井さんは、急にわたしの手を握ってブンブンと勢いよく握手をしてくれた。
「だってあなた、白雪さんでしょ? それにりんごを貰ったって言ってたから、もう白雪姫じゃんって思って!」
「はぁ」
「ま、いいや! ねぇ、わたしあなたのこと気に入っちゃった。部活決まってないんだよね?」
「う、うん」
温度差が激しいというか、感情が豊かというか……。忙しい人だなと思った。
「演劇部一緒に見学来てくれない?」
「えっ」
突然のことに戸惑ってしまう。
演劇部は考えてすらなかった。演劇の経験なんてないから。
でも、何故だろう。少しだけ新しいことに挑戦してみたい自分もいる。
それにこの人となら大丈夫だと思える。
「……分かった」
「いいの!? ありがとう、白雪姫っ」
「やめてよ、姫なんて。果林でいいよ」
「ふーん?」
すると新井さんはニヤリと何かを企んでそうな目でわたしのことを見つめた。
「な、なに? 新井さん」
「分かった、果林ってツンデレちゃんだね! なるほどなるほどー」
「なっ……! わ、わたしはただ新井さんと仲良くなれたらいいな、って思って……」
そう言うと、頭をくしゃくしゃと撫でられる。
恥ずかしいけど、それよりも“果林”って呼ばれたことがうれしかった。
「わたしのことも、のばらでいいよ。じゃあ放課後よろしくね、果林!」
「……うん。こちらこそ、のばら」
のばらの笑顔は、薔薇みたいに上品で美しく、人を虜にするようなそんな笑顔だった。
放課後になり、部活見学の時間が始まった。
わたしとのばらは一緒に演劇部の部室へ向かう。
「緊張するねー」
「えっ……のばらも緊張するの?」
「何言ってるの、わたしだって緊張するよ」
「でも自己紹介のときそんなふうには見えなかったけど」
「それは、乗り切ったの!」
よく分からないけど……。わたしたちは同時に深呼吸をし、ドアをトントン、とノックした。
中から「はーいっ」という優しそうな女性の声がした。
「こんにちは。見学しに来ました!」
「えーっ、一年生!? どうぞ入ってー」
案内され、わたしたちは椅子に座った。
どうやら女性の先輩がふたり、男性の先輩がひとりいるみたい。
「自分の名前をここに書いてねー」
言われた通り、わたしは名前を紙に書いた。
「白雪さん。へぇ、すごくかわいい名前だね」
「あ、ありがとうございます」
「わたし、演劇部部長の中川 凛。あの子が二年生の佐藤 萌奈ちゃんと、川口 圭介くん。部員のことは名前で呼んでね」
「は、はい。よろしくお願いします」
すると凛先輩は、突然辺りをキョロキョロと見渡した。
「どうかしたんですか?」
「副部長の男子が来てないのよー。せっかく来てくれたのにごめんね、ちょっと待っててね」
「大丈夫です!」
先輩たちが部屋を出ていくと、のばらが話しかけてきた。
「凛先輩、かわいい人だったねー」
「うん、そうだね」
「にしても演劇部って四人しか部員いないんだ、少ないね」
「確かに少ないね」
のばらは、もう演劇部に入りたそうな様子だった。
どうしてそんなに演劇部がいいのか気になり、わたしは聞いてみることにした。
「のばらはどうして演劇部がいいの?」
「うーん、もともと演劇に興味があったからかな。この学校は毎年文化祭で、劇を披露するらしいの。チラシ見たけど、今年は白雪姫みたいだよ。一年生も出れるみたいで、やりたいんだ!」
「そっか」
のばらが少しだけ羨ましくなる。
好きなこと、やりたいことがハッキリしていてちゃんと行動できるところが。
わたしは……あの頃のトラウマが蘇って、体調も管理できなくなって、苦しいことばかりだから。
「お待たせ、白雪さん、新井さん! もう、部活見学の日に遅刻なんて何考えてんの、大地」
「ごめん……って、え、白雪さん」
「だっ、大地先輩!?」
驚いた。凛先輩たちが連れてきた副部長というのは、大地先輩だったから。
うそ、先輩、演劇部だったんだ。てっきり運動部か何かだと思っていた。
「え、なになに、白雪姫の王子の登場ですかー?」
「違うって、のばら。今朝助けてくれたの。五味大地先輩」
「なに、白雪姫って。白雪さん、そう呼ばれてるの?」
「そうなんです! って、わたしが勝手に付けたあだ名なんですけどねー。りんごをくれた人って、もしかして先輩ですかー?」
のばらの問いに、わたしと大地先輩は頷いた。
ニマニマしてる、嬉しそうな表情を見てなんとなくのばらの考えていることが分かる気がする。
……どうしても恋愛にしたいのだろうか。わたしと先輩はそんな関係じゃないのに。
「それはもういいけどさ、あなたは演劇部に入部するの?」
「あっ、はい! 新井のばらです。よろしくお願いしまーす、大地先輩」
「よろしく、新井さん。で、白雪さんは?」
「え、わたしですか?」
……どうしよう。
わたしは特に部活は決まっていないし、とりわけやりたいこともない。
せっかく仲良くなった友達が演劇部に入るのなら、わたしも演劇部にしようかな。
「はい、入ります」
「よろしく、白雪姫」
「えっ、白雪姫って言った? もしかして大地、白雪姫の役をこの子にやらせようとしてる?」
凛先輩が大地先輩にそう言った。
そういえばさっきのばらが今年の演劇は白雪姫って言ってた。それのことを言っているのだろうか?
「そういうわけじゃなかったけど、中川たちはどう考えてるの?」
「わたしは文化祭出ないから、萌奈ちゃんにやってもらおうと思ってたよ。でも、せっかく白雪姫が来たのって偶然じゃないよね! 萌奈ちゃんはどう思う?」
「わたしは主役をやりたいわけじゃないし、白雪さんがやりたいと思うならそれで良いと思います」
「よし。えっと、白雪さん。今年の白雪姫の劇、主役をやってくれないかな?」
凛先輩の提案に、わたしは目を丸くする。
その瞬間、のばらが嬉しそうにわたしに抱きついてきた。
「やったじゃん、果林! すごいよ!」
「ちょっと待って、のばら。あの、本当にわたしでいいんですか? 二年生にとって最後の文化祭での舞台なんですよね。わたし、演技の経験もないですし」
「それなら心配ないよ。文化祭は十月だから、半年もある。それまでわたしが教えるよ! あと、圭介くんは小人役で、王子様役は大地だから、何でも聞いていいよ。ね、大地」
「まぁ」
王子様役は、大地先輩なんだ。
それを聞いて、少しだけ安心する。
でも、本当にわたしで役が務まるのだろうか。そう思うと後ろめたくなってしまう。
「白雪さんは、やってみたいって気持ち、ないの?」
「え……?」
「自分の気持ちに正直になってみてよ。劇をやりたいから、みんな演劇部に入るんでしょ? それなのに断るのは、新井さんや佐藤さんより気持ちが負けてることになる。やってみたい、成し遂げてみたいって気持ちが」
大地先輩の言う通りで、何も言えない。
……わたし、なんて情けないんだろう。過去に囚われて、何もできないなんて。
拳をぎゅっと握りしめて、心のなかにそっと耳を傾ける。
本当は、わたしは。
「やりたい、白雪姫。やらせてください」
「うん、そうこなくっちゃ! じゃあ白雪姫は白雪さん……果林ちゃんが主役に決定! のばらちゃんは毒りんごを渡す老婆役でいいかな?」
「はい、もちろんです!」
「ありがとう、劇が楽しみ! これから新体制となって、みんなで頑張っていこう!」
「はい!」
わたしが白雪姫の役をやるなんて、去年までは思いもしなかった。
楽しみだけど、正直不安な気持ちと怖いという思いが大きい。
でも、わたしと白雪姫は似ている部分がある気がする。
毒りんごを渡されてしまう白雪姫。
そして、毎日【いじめられていた】わたし。
鏡よ鏡、わたしはこれから、自分自身を変えることができますか?
*
わたしは少しずつ、わたしを知っていった。
*
春は好きだけど、嫌いだ。なんて矛盾しているけれど、本当にそのような気持ちが心のなかにある。
わたしは今日から新しい学校の制服を着て、腕にある傷を隠す。
……夏までになんとか癖を無くさないと。半袖だと誤魔化せないもんね。
体を痛めつけてまで周りや自分自身を嫌いになる理由が、わたしにはある。
「おはよ」
「おはよう、果林。制服似合ってるじゃない。やっぱり紅林学院の制服は可愛いわよね」
「ありがと」
「朝ごはんできてるから、食べちゃってね」
本当は、朝ごはんなんて食べたくない。胃が重い。
でも、こうしないとお母さんを心配させてしまうから。少しでも元気なフリをしないといけない。
「高校も無理せず自分のペースで頑張ってね。もちろん留年なんてことになったら困るけど」
「分かってるよ。自分でこの高校を選んだんだから」
「でも、本当に体調には気をつけて」
わたしは頷いて、席を立った。
腰まである長い黒髪をくしで梳かし、軽く化粧をする。
お母さんが肌が綺麗なおかげかわたしもニキビやシミができにくいので、あまり濃い化粧をすることはない。朝の身支度に手間がかからないためありがたく思う。
「じゃあ行ってきます」
「気をつけてね」
電車にガタン、ゴトンと揺られながら周りを見渡す。
同じ制服を着ている人は、誰一人いなかった。それもそのはずだ。
わたしは、知っている人が誰もいない高校をわざと選んだのだから。
三十分ほどで学校の最寄り駅に着き、わたしは電車を降りる。
すると急に席を立ったからか、目眩がしてしまった。
いけない、と思ったときには遅かった。頭がぐるぐる回るなか、わたしは隣の男性にもたれかかってしまったのだ。
「大丈夫ですか」
男性はわたしが落ち着くまで駅のホームの椅子に座らせてくれた。
しばらくしてわたしは目眩が無くなり、呼吸も深くできるようになった。
「本当に、ごめんなさい。迷惑掛けて」
「いや、俺は別に。あなたは大丈夫なんですか。寝不足?」
「……起立性調整障害を、患っていて。朝が弱いのと、さっき急に立ったので、それのせいで」
起立性調整障害。
その病名を知っている人はあまりいないと思う。
だけどその男性は知っていたのか納得したように「あー」と頷いた。
「俺も自律神経失調症」
「え……そうなんですね」
だからこの人はわたしの病気を理解し、そばにいてくれたんだ。
よく見ると高身長のいわゆるイケメンで、少し見惚れてしまった。恥ずかしくなり急いで視線を逸らす。
「その制服、紅林学院でしょ?」
「は、はい」
「俺も紅林に通ってる。三年だけど、あなたは?」
「えっ、一年、です」
うそ、同じ高校の先輩?
まさかこの人が高校生だとは思わなかった。もっと大人っぽく見えるので、大学生くらいかと思っていたから。
「名前、なに」
「白雪 果林です」
「俺は五味 大地。大地でいいよ。よろしく、白雪さん」
「よろしくお願いします、大地先輩」
そう言うと、大地先輩はバッグの中から何かを探して、渡してくれた。
「え……り、りんご?」
渡してくれたものは、カットされたりんごが入っているプラスチックの容器だった。
「知ってる? りんごって食物繊維が豊富で水分もあるから、栄養が優れてる」
「わたしにくれるんですか?」
「うん、元気ないし。それになんか白雪さんっぽいから」
わたしっぽいって、どういうことだろう。
疑問に思いながらも、わたしは受け取って「ありがとうございます」と答えた。
その後友達と待ち合わせしてるから、と言って大地先輩は先に行ってしまった。
……優しいけど、不思議な人だったな。
わたしは、友達なんてできるのだろうか。またあんなことになってしまったらと思うと、他人の心に踏み込むのが怖い。
昇降口でクラス表を見て、わたしは教室に向かった。
「同じクラスじゃん!」
「まじで嬉しいー!」
どうやら、同じ中学校の友達が同じクラスになったという人が数名いるようだ。
席について読書をしていたり、教室の隅で会話をしていたり、手鏡を見ながら前髪を直していたり、さまざまだった。
わたしは一旦荷物を整理し、憧れだったスクールバッグを机の横に掛ける。
……不思議。先月までは、あれほど教室が嫌いだったのに。もう我慢しなくていいんだ。
そう思うと、本当に心が軽かった。
「席についてー。おはようございます。今日からこのクラスの担任の飯島です。よろしくねー」
「お願いします!」
「早速だけど、自己紹介をしてもらう」
担任は、女性の先生だった。
飯島先生がそう言うと、教室中に大ブーイングが起こる。
「名前と好きなもの、あとは希望の部活動を言ってくれ。えー、じゃあ新井から」
「はい! 新井のばらです。好きなものはお花、希望の部活は演劇部です。よろしくお願いします!」
新井のばらさん。わたしの隣の席の子だ。
高い位置で結んであるポニーテールと、少し茶色の髪の毛が特徴的。
濃いオレンジメイクが似合っている。
「じゃあ次は……えー、白雪」
「はい。白雪果林です。好きなものは……」
どうしよう。何を答えよう。
パニックになりかけていたとき、大地先輩のことが頭に浮かんだ。
「好きなものは、り、りんごです」
思いきってそう言うと、「え? りんご?」「何でりんごなんだろう」とヒソヒソ話を始めていた。
……失敗した。いつもわたしはこうだ。
周りとは少しズレていて、変な扱いをされてしまう。学校が変わっても、やっぱりわたし自身を変えることはできない。
泣きそうになり、唇を噛んだ。
「あははっ、りんご!?」
ビクッとして隣を見ると、新井さんが腹を抱えて笑っていた。
それまでヒソヒソと話していたクラスメイトも一斉に新井さんを見る。
「なにそれ、おもしろい! 好きな食べ物がりんごなの?」
「え……いえ、あの、なんとなく思いついたというか。朝、りんごを貰って」
「りんごを貰うってどういう状況!? あはは、白雪さんっておもしろいんだね! 朝からめっちゃ元気もらえる! ね、みんなもそう思わない?」
突然の状況に、みんなポカンと口を開けていた。
だけど少しずつ「確かにおもしろいね」「うん、元気出る」「白雪さんって何者!?」と、みんな笑みかこぼれていた。
先程までとは違い、この教室中の雰囲気も、わたしの心も、あたたかかった。
「あの……ありがとう」
「え、何が? それより自己紹介の続き、はやく!」
「あっ! え、えっと、部活動は特に決まっていません。これから……お願いします」
わたしが礼をすると、拍手が起こった。
隣を振り向くと、新井さんが誰よりも大きく拍手をしてくれていた。
……すごい。この人は、周りをよく見て助けてくれる。
あとでちゃんとお礼を言おう。そう思った。
「あの、さっきは本当にありがとう。助かりました」
「あっ、白雪姫!」
「え……白雪、姫?」
新井さんは、急にわたしの手を握ってブンブンと勢いよく握手をしてくれた。
「だってあなた、白雪さんでしょ? それにりんごを貰ったって言ってたから、もう白雪姫じゃんって思って!」
「はぁ」
「ま、いいや! ねぇ、わたしあなたのこと気に入っちゃった。部活決まってないんだよね?」
「う、うん」
温度差が激しいというか、感情が豊かというか……。忙しい人だなと思った。
「演劇部一緒に見学来てくれない?」
「えっ」
突然のことに戸惑ってしまう。
演劇部は考えてすらなかった。演劇の経験なんてないから。
でも、何故だろう。少しだけ新しいことに挑戦してみたい自分もいる。
それにこの人となら大丈夫だと思える。
「……分かった」
「いいの!? ありがとう、白雪姫っ」
「やめてよ、姫なんて。果林でいいよ」
「ふーん?」
すると新井さんはニヤリと何かを企んでそうな目でわたしのことを見つめた。
「な、なに? 新井さん」
「分かった、果林ってツンデレちゃんだね! なるほどなるほどー」
「なっ……! わ、わたしはただ新井さんと仲良くなれたらいいな、って思って……」
そう言うと、頭をくしゃくしゃと撫でられる。
恥ずかしいけど、それよりも“果林”って呼ばれたことがうれしかった。
「わたしのことも、のばらでいいよ。じゃあ放課後よろしくね、果林!」
「……うん。こちらこそ、のばら」
のばらの笑顔は、薔薇みたいに上品で美しく、人を虜にするようなそんな笑顔だった。
放課後になり、部活見学の時間が始まった。
わたしとのばらは一緒に演劇部の部室へ向かう。
「緊張するねー」
「えっ……のばらも緊張するの?」
「何言ってるの、わたしだって緊張するよ」
「でも自己紹介のときそんなふうには見えなかったけど」
「それは、乗り切ったの!」
よく分からないけど……。わたしたちは同時に深呼吸をし、ドアをトントン、とノックした。
中から「はーいっ」という優しそうな女性の声がした。
「こんにちは。見学しに来ました!」
「えーっ、一年生!? どうぞ入ってー」
案内され、わたしたちは椅子に座った。
どうやら女性の先輩がふたり、男性の先輩がひとりいるみたい。
「自分の名前をここに書いてねー」
言われた通り、わたしは名前を紙に書いた。
「白雪さん。へぇ、すごくかわいい名前だね」
「あ、ありがとうございます」
「わたし、演劇部部長の中川 凛。あの子が二年生の佐藤 萌奈ちゃんと、川口 圭介くん。部員のことは名前で呼んでね」
「は、はい。よろしくお願いします」
すると凛先輩は、突然辺りをキョロキョロと見渡した。
「どうかしたんですか?」
「副部長の男子が来てないのよー。せっかく来てくれたのにごめんね、ちょっと待っててね」
「大丈夫です!」
先輩たちが部屋を出ていくと、のばらが話しかけてきた。
「凛先輩、かわいい人だったねー」
「うん、そうだね」
「にしても演劇部って四人しか部員いないんだ、少ないね」
「確かに少ないね」
のばらは、もう演劇部に入りたそうな様子だった。
どうしてそんなに演劇部がいいのか気になり、わたしは聞いてみることにした。
「のばらはどうして演劇部がいいの?」
「うーん、もともと演劇に興味があったからかな。この学校は毎年文化祭で、劇を披露するらしいの。チラシ見たけど、今年は白雪姫みたいだよ。一年生も出れるみたいで、やりたいんだ!」
「そっか」
のばらが少しだけ羨ましくなる。
好きなこと、やりたいことがハッキリしていてちゃんと行動できるところが。
わたしは……あの頃のトラウマが蘇って、体調も管理できなくなって、苦しいことばかりだから。
「お待たせ、白雪さん、新井さん! もう、部活見学の日に遅刻なんて何考えてんの、大地」
「ごめん……って、え、白雪さん」
「だっ、大地先輩!?」
驚いた。凛先輩たちが連れてきた副部長というのは、大地先輩だったから。
うそ、先輩、演劇部だったんだ。てっきり運動部か何かだと思っていた。
「え、なになに、白雪姫の王子の登場ですかー?」
「違うって、のばら。今朝助けてくれたの。五味大地先輩」
「なに、白雪姫って。白雪さん、そう呼ばれてるの?」
「そうなんです! って、わたしが勝手に付けたあだ名なんですけどねー。りんごをくれた人って、もしかして先輩ですかー?」
のばらの問いに、わたしと大地先輩は頷いた。
ニマニマしてる、嬉しそうな表情を見てなんとなくのばらの考えていることが分かる気がする。
……どうしても恋愛にしたいのだろうか。わたしと先輩はそんな関係じゃないのに。
「それはもういいけどさ、あなたは演劇部に入部するの?」
「あっ、はい! 新井のばらです。よろしくお願いしまーす、大地先輩」
「よろしく、新井さん。で、白雪さんは?」
「え、わたしですか?」
……どうしよう。
わたしは特に部活は決まっていないし、とりわけやりたいこともない。
せっかく仲良くなった友達が演劇部に入るのなら、わたしも演劇部にしようかな。
「はい、入ります」
「よろしく、白雪姫」
「えっ、白雪姫って言った? もしかして大地、白雪姫の役をこの子にやらせようとしてる?」
凛先輩が大地先輩にそう言った。
そういえばさっきのばらが今年の演劇は白雪姫って言ってた。それのことを言っているのだろうか?
「そういうわけじゃなかったけど、中川たちはどう考えてるの?」
「わたしは文化祭出ないから、萌奈ちゃんにやってもらおうと思ってたよ。でも、せっかく白雪姫が来たのって偶然じゃないよね! 萌奈ちゃんはどう思う?」
「わたしは主役をやりたいわけじゃないし、白雪さんがやりたいと思うならそれで良いと思います」
「よし。えっと、白雪さん。今年の白雪姫の劇、主役をやってくれないかな?」
凛先輩の提案に、わたしは目を丸くする。
その瞬間、のばらが嬉しそうにわたしに抱きついてきた。
「やったじゃん、果林! すごいよ!」
「ちょっと待って、のばら。あの、本当にわたしでいいんですか? 二年生にとって最後の文化祭での舞台なんですよね。わたし、演技の経験もないですし」
「それなら心配ないよ。文化祭は十月だから、半年もある。それまでわたしが教えるよ! あと、圭介くんは小人役で、王子様役は大地だから、何でも聞いていいよ。ね、大地」
「まぁ」
王子様役は、大地先輩なんだ。
それを聞いて、少しだけ安心する。
でも、本当にわたしで役が務まるのだろうか。そう思うと後ろめたくなってしまう。
「白雪さんは、やってみたいって気持ち、ないの?」
「え……?」
「自分の気持ちに正直になってみてよ。劇をやりたいから、みんな演劇部に入るんでしょ? それなのに断るのは、新井さんや佐藤さんより気持ちが負けてることになる。やってみたい、成し遂げてみたいって気持ちが」
大地先輩の言う通りで、何も言えない。
……わたし、なんて情けないんだろう。過去に囚われて、何もできないなんて。
拳をぎゅっと握りしめて、心のなかにそっと耳を傾ける。
本当は、わたしは。
「やりたい、白雪姫。やらせてください」
「うん、そうこなくっちゃ! じゃあ白雪姫は白雪さん……果林ちゃんが主役に決定! のばらちゃんは毒りんごを渡す老婆役でいいかな?」
「はい、もちろんです!」
「ありがとう、劇が楽しみ! これから新体制となって、みんなで頑張っていこう!」
「はい!」
わたしが白雪姫の役をやるなんて、去年までは思いもしなかった。
楽しみだけど、正直不安な気持ちと怖いという思いが大きい。
でも、わたしと白雪姫は似ている部分がある気がする。
毒りんごを渡されてしまう白雪姫。
そして、毎日【いじめられていた】わたし。
鏡よ鏡、わたしはこれから、自分自身を変えることができますか?
*



