学校では今まで通り、目立たず平穏に過ごす。放課後は白瀬の練習台になり、その代わりにユキと思う存分遊ばせてもらう。それがオレの日常になって、はや二週間。今日ももちろんその予定で、その前にまずは公園に寄ってミーコにごはんをあげる。白瀬もミーコに会いたいと言っているけど、一緒にいるところを学校の誰かに見られたくないから、断固拒否だ。ひとしきり愛でて、それから白瀬の家へ向かう。
白瀬に招き入れられ、白瀬の部屋の椅子に腰を下ろす。デスクの上にはドライヤーにヘアアイロン、コテが数本並べられている。この時間ユキは大抵ベッドの上にいて、ヘソ天ですうすうと眠っている。早く抱っこしてあわよくば吸わせてほしいけど、練習台として白瀬の気が済むまでおあずけだ。
それにしても、だ。目の前に置かれた鏡を見て、オレはいつだってげんなりしてしまう。三つ編みやポニーテール、ツインテールに巻き髪。そんなものがオレに似合うはずもなく。ただの練習だとしたって、鏡の中で変わっていく自分が、いつも気色悪いったらない。
「なあ、今日はなんの練習すんの」
「今日はコロネ巻き」
「コロネ巻き?」
「チョココロネってパンあるだろ? あんな感じで、くるっとしてるヤツだな」
「うげ……」
「さすがに真宮の髪でも、長さがちょっと足りないんだけど。感覚だけでも知りたくてさ」
「へえ……」
スマホでやり方を調べて、熱くなったコテにオレの髪を巻きつける。練習をしている時の白瀬の目は、いつも驚くくらい真剣だ。学校ではほほ笑んでばかりいるから、未だに新鮮に見える。そのくらい、美容師という夢を叶えたいのだろう。
「白瀬ってすげーよな」
「んー? なにがー?」
「将来の夢がもう決まってて。それで、道具もこんなに揃えたんだろ。金かかってそう」
こういった道具の値段は見当もつかないが、安くはないだろうことくらいは分かる。バイトでもしているのだろうか。もしくは、親に買ってもらっているのか。
「ああ、これ? 全部姉ちゃんからのお下がり」
「へえ、お姉さんいたんだ」
「うん。10個上で、もう結婚して家は出てるけどな」
「へえ」
そもそ苦手なヤツだから、白瀬に興味を持ったことがなかった。だから、姉がいたことも初耳だ。
「姉ちゃんが学校に行く前とか、土日に出かける時とか。洗面所で一生懸命ヘアセットしてんの、いつもぼーっと眺めてたんだよ。その時間にはもう、親は仕事で出てるし。そしたら、新しいの買ったから泉にあげるー、好きなんでしょーとか言って。いや俺好きじゃないしいらないしって最初は思ったんだけど……あれ、俺実はこれ触ってみたかったのかもってなって」
「道具が先ってこと?」
「まあたしかに? なんだろ、セットしながら姉ちゃんの顔が嬉しそうになってくの見てたから、魔法使いにでもなれる気になったのかも」
「……ふ、魔法使い?」
「あ、真宮笑ったな?」
「いやだって……」
不思議だなあと思う。白瀬はいちばん苦手なタイプ、今だってそれは変わらないのに。こうして鏡の前にふたりでいると、なぜか話が尽きない。そんな自分に戸惑いのほうが大きいけど、無言で気まずい時間を過ごすよりはきっといい。
「でもマジでさ。美容師になりたいって思ったのも、結局スタートはそこなんだよな。使い方の動画見漁って、姉ちゃんがやってるのだけじゃなくて、他にも色んなことできるんだなって分かって……やってみたかった。よし、できた」
「うわー、見事なチョココロネ……」
うん、オレの髪では一巻きで限界みたいだけど、どこかのマンガに出てきそうな立派なコロネ巻きだ。オレの顔についていることだけが残念って感じ。でも白瀬はと言えば、不服そうな顔をしている。
「俺としてはまだまだだけどな。練習あるのみって感じ」
「マジか……」
どうやらしばらくは、コロネ巻きの日々が続きそうだ。
「じゃあ元に戻すよ。真宮、今日も付き合ってくれてありがとな」
「どういたしまして。なあ、早くやって。ユキと遊びたい」
「はいはい、待ってて」
しっかりと巻かれた髪に、霧吹きで水がかけられていく。ある程度含ませて巻きが取れたら、今度はドライヤーをかけてくれる。大きな音が苦手らしく、この時間だけはユキが逃げてしまうのが残念だ。
「よし、これでオッケー。ユキー、おいで。終わったよ」
ドライヤーを片づけながら白瀬が呼ぶと、ユキはすぐに戻ってくる。屈んで待っているとオレの腕の中にやってきてくれて、お待ちかねの抱っこタイムだ。ゴロゴロと喉を鳴らして喜んでくれるのが、幸せでしかたない。
「ユキ、本当にかわいい……今日も抱っこさせてくれてありがとな。いい子だなあ」
「はは」
「……なに笑ってんだよ」
笑い声のほうにムッとした顔を向けると、白瀬が道具を片づけながらオレとユキを見ていた。笑われるのは、素直に腹立つ。
「いや、真宮は本当に猫が好きなんだなって」
「……まあな。ちっちゃい頃からずっと好き。ここ連れてこられた時はマジで最悪だと思ったけど……今は結構楽しんでる」
「それはよかった」
「ユキのおかげでな」
「そうだな」
楽しいのはあくまでも、ユキのおかげ。それをきちんと強調して、オレはユキと目を合わせ「なー?」と同意を求めた。ニャン、とちっちゃく返事をしてくれたから、ユキはオレの味方みたいだ。
「来月の文化祭で浮かれるのも分かるが、まずはテストが先だからな。みんなしっかり勉強するように」
十月に入って、二学期の中間テストを来週に控えた月曜日。六限目に充てられた、文化祭の話し合いのホームルーム後、先生の言葉にクラス中からブーイングが起こった。教師って、盛り上がった気持ちに水を差す天才だと思う。まあオレは、文化祭なんて楽しみじゃないから別にいいけど。
「はいはい、文句言ったってテストは待ってくれないからなー。今日から部活も停止期間だし、しっかりやれよー」
先生への愚痴だったり、テストなんていいから遊びに行こうと相談する声だったり。ザワザワしている教室を抜け出した時、小さな声で誰かがオレの名前を呼んだ。そんなこと滅多にないから、思わず肩を跳ね上げた。恐る恐る振り返れば、白瀬が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「っ、お前……話しかけんなって言ったよな。練習台やめるぞ」
「ごめん、スマホの充電切れちゃってさ」
小声で怒るって結構難しい。白瀬も気にはしてくれているようで、辺りを見渡しながら顔を見合わせずに話す。
「テスト前だからさ、練習はやめたほうがいいかなって聞きたくて」
「あー……」
なるほど、そういうことか。言われなかったらいつも通り、このまま公園からの白瀬家コースを辿るところだった。
正直なところ、勉強は得意じゃない。いつも必死に勉強して、どうにか赤点を回避できるかな、というレベルだ。
「だな。オレやばいし」
ユキに会えないのは寂しいけど、ミーコのところにはテスト期間だろうが毎日通うつもりだし。ミーコにたっぷり相手してもらって、テストをどうにか頑張ろう。
「じゃあ、そういうことで」
「あ、ちょっと待った」
「……なに? そろそろ離れないとまずいんだけど」
女子たちが話したそうに白瀬を見ていて、落ち着かないのに。オレを引き止めた白瀬は、口元に手を当てて少しだけこちらに顔を近づけた。
「もしよかったら勉強教えようか?」
「え……えっ、マジ!?」
あんなに気をつけていたのに、オレはつい大声をあげてしまった。慌てて口を塞いで辺りを見渡したけど、放課後の騒がしさに紛れられたようでほっと息をつく。
「本当にいいのか?」
成績優秀の白瀬に教えてもらえるなんて。苦手な相手だとは言え、その魅力には抗えない。なんてったって、藁にも縋りたいくらいオレの成績は致命的なのだ。
「交渉成立な。いつも通り、俺の家集合で」
「……分かった」
こくりと頷いた瞬間、しびれを切らした女子たちの
「ねえねえ白瀬くん。こっち来てー」
という声が響く。
「あー、うん。今行くよ」
その返事を背中に聞きながら、オレはそそくさと階段を下りた。
「あのさ白瀬……これってオレばっかり得してない?」
「そう? まあ気にすんなって」
白瀬はずいぶんと熱心に、オレに勉強を教えてくれる。合間には休憩がてら、なんとユキとの戯れタイムつき。ギブアンドテイクの関係だったのに、それが崩れている気がして落ち着かない。
「でもさあ……」
「まあまあ。人に教えるのって、自分の勉強にもなるから」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「じゃあ、いいか?」
「だな」
白瀬を苦手だなんて感じていることに、もはや罪悪感を覚えてきた。もうちょっとくらい、オレも優しくしてもいいのかもしれない。せめて、礼くらいはちゃんと言うべきか。
「白瀬……ありがとう」
「はは、どういたしまして。じゃあそろそろ、数学の続きやるか」
「うっ……数学……」
こうして一週間、アメとムチの使い分けが上手い白瀬に、放課後みっちりとしごかれた。そのおかげと言っていいだろう。五日間のテスト期間を走りきった後、オレは手応えを感じていた。
「白瀬ってマジですげー……」
少なくとも、赤点じゃない自信がある。こんなの初めてのことだ。
「真宮、お待たせ。珍しいじゃん、待ち合わせとか。どした?」
<放課後、あの公園に来てくれる?>と昼休みにメッセージを送ったら、白瀬は一秒で了承の返信を送ってきた。そして迎えた放課後。あたりに学校の人がいないのを確認して、白瀬と一緒に中へと入る。
「白瀬、オレ、テスト結構やれた気がする。合ってるかは分かんないけど、解答欄ほとんど埋められて、あんなの初めてだった」
「お、よかったな」
「うん、それでさ。お礼したいなって思って」
奥の木のほうへと向かい、リュックから猫缶を取り出す。パカッと開けたら、一匹の三毛猫が近づいてくる。ミーコだ。
「お、ミーコだ。ちょっと大きくなった?」
「そうかも。毎日見てるといまいち分かんないけど。ほらミーコ、ごはんだぞ」
「真宮が来て嬉しそうにしてる。かわいいな」
「本当はうちで飼ってやれたらいいんだけどな。これから寒くなるし」
まだ半袖で過ごせる日もあるけど、涼しくなってきて冬ももうすぐそこだ。ミーコは凍えながら過ごすのかと思うと、本当は気が気じゃない。
「たしかにそうだな」
「うん……」
「なあ真宮、さっき言ってたお礼って、ミーコに会わせてくれるってことで合ってる?」
「うん。白瀬も来たいって言ってたろ。でもオレが拒んじゃってたし。勉強教えてもらったの、白瀬は自分も勉強になるからって言ってたけど……やっぱオレのお得感がすごいなってテスト受けて思ったから」
「へえ、なるほどね。ありがとな。でも……これじゃ足りないかなあ」
「……え?」
耳を疑うような言葉に、オレはゆっくりと顔を上げた。白瀬がちょっと悪い顔でほほ笑んでいて、どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「いや、ミーコに会えたのはすごく嬉しいよ? できれば俺も毎日会いたいし」
「じゃあ、どういう意味……」
「勉強教えようかって言った時、交渉成立って言ったの覚えてる?」
「え? あ……」
そう言えば、たしかにそんなことを言われたかもしれない。そもそもギブアンドテイクの関係だから、それを不思議に思いもしなかった。
「だから足りないって言うか……もともとお願いしたいことがあった、ってのが正しいかな」
「……なんで黙ってたんだよ。やっぱり極悪人か」
「えー? でもまあ、敢えて後出しにしたところはあるから、そうなのかも」
「……ちなみに、なに?」
「聞いてくれるんだ?」
「とりあえず、聞くは聞く」
呆れたため息がつい出てしまう。でも大きく出られないのは、中間テストという壁を白瀬の手で乗り越えさせてもらった後だからだ。なるほど、これが目的か。やっぱり極悪人だ。ていうか、悪魔?
「真宮さ、明日ヒマ? あさってでもいいけど」
「え……内容によります」
「はは、なんで敬語。でもたしかに、先にヒマかどうかって聞くの卑怯だよなあ。俺も好きじゃないのにしちゃったわ」
「…………」
「先週と今週、テストのせいでヘアセットの練習はできなかっただろ。だから、真宮の土曜か日曜、俺にください。もちろん、ユキともたくさん遊んでやってほしい」
「……うん。え、それだけ?」
もっととんでもないことを言われるんじゃないかと、身構えていたのに。それこそ、やっぱりパシリもお願いしますだとか。だからオレは拍子抜けしてしまった。
「だって今までは、放課後のちょっとした時間だけだったからさ。休日もってなったら嫌じゃない?」
「まあ、普段だったらそうかも。でもマジで世話になったし。いいよ。明日でいい?」
「マジ!? よかったあ……この二週間、ずっとウズウズしてたんだよ。動画見るしかできなかったのが当たり前だったのに、贅沢なもんだよな」
「……いいんじゃない? それくらい真剣にやってるってことだろ」
「ん、まあな」
白瀬の意欲を肯定することは、ちょっと勇気が必要だった。それでも言ってみてよかったのかもしれない。白瀬もどこか気恥ずかしそうに笑っていて、悪いようには取られなかったみたいだから。
そろそろ帰ろうかと立ち上がると、ミーコがオレの足にすり寄ってきた。これをされると、帰る気が失せるんだよな。もう一度屈んでミーコの顎の下を撫でると、白瀬も隣にもう一度しゃがんできた。
「真宮も猫好きだけどさ、猫のほうも真宮が好きって感じするよな。ミーコは俺に見向きもしないし、ユキもいつも嬉しそうだし」
「そうかな」
「そうだよ。相思相愛って感じ。ミーコー、俺も大好きだからなあ?」
「あ……なあ、明日はユキと遊んだらダメじゃねえ? 勉強のお返しが一日の練習なら、やっぱりオレもらいすぎになる」
「いいんだよ、それはそれ、これはこれで」
「でも……」
「ユキも嬉しそうだって言ったろ。遊んでやってよ、俺の家に来た時は必ず」
「……ん、分かった」
それからひとしきりミーコと遊んでから、オレと白瀬は公園を後にした。明日たっぷりお願いするから、今日の練習はなしでいいとのことだ。
明日は十時に白瀬の家に集合。土日はお昼まで寝ていたいタイプだけど、一日中練習してみたいという白瀬の願いを、オレは叶えるべきだと思ったから。オレから提案させてもらった。
「じゃあ、また明日な」
「……ん、また明日」
休日に同級生と約束するなんて、多分小学校の低学年の時以来だ。だからどんな顔をしたらいいか分からなくて、オレは白瀬と目を合わせられないまま足早に帰った。
白瀬に招き入れられ、白瀬の部屋の椅子に腰を下ろす。デスクの上にはドライヤーにヘアアイロン、コテが数本並べられている。この時間ユキは大抵ベッドの上にいて、ヘソ天ですうすうと眠っている。早く抱っこしてあわよくば吸わせてほしいけど、練習台として白瀬の気が済むまでおあずけだ。
それにしても、だ。目の前に置かれた鏡を見て、オレはいつだってげんなりしてしまう。三つ編みやポニーテール、ツインテールに巻き髪。そんなものがオレに似合うはずもなく。ただの練習だとしたって、鏡の中で変わっていく自分が、いつも気色悪いったらない。
「なあ、今日はなんの練習すんの」
「今日はコロネ巻き」
「コロネ巻き?」
「チョココロネってパンあるだろ? あんな感じで、くるっとしてるヤツだな」
「うげ……」
「さすがに真宮の髪でも、長さがちょっと足りないんだけど。感覚だけでも知りたくてさ」
「へえ……」
スマホでやり方を調べて、熱くなったコテにオレの髪を巻きつける。練習をしている時の白瀬の目は、いつも驚くくらい真剣だ。学校ではほほ笑んでばかりいるから、未だに新鮮に見える。そのくらい、美容師という夢を叶えたいのだろう。
「白瀬ってすげーよな」
「んー? なにがー?」
「将来の夢がもう決まってて。それで、道具もこんなに揃えたんだろ。金かかってそう」
こういった道具の値段は見当もつかないが、安くはないだろうことくらいは分かる。バイトでもしているのだろうか。もしくは、親に買ってもらっているのか。
「ああ、これ? 全部姉ちゃんからのお下がり」
「へえ、お姉さんいたんだ」
「うん。10個上で、もう結婚して家は出てるけどな」
「へえ」
そもそ苦手なヤツだから、白瀬に興味を持ったことがなかった。だから、姉がいたことも初耳だ。
「姉ちゃんが学校に行く前とか、土日に出かける時とか。洗面所で一生懸命ヘアセットしてんの、いつもぼーっと眺めてたんだよ。その時間にはもう、親は仕事で出てるし。そしたら、新しいの買ったから泉にあげるー、好きなんでしょーとか言って。いや俺好きじゃないしいらないしって最初は思ったんだけど……あれ、俺実はこれ触ってみたかったのかもってなって」
「道具が先ってこと?」
「まあたしかに? なんだろ、セットしながら姉ちゃんの顔が嬉しそうになってくの見てたから、魔法使いにでもなれる気になったのかも」
「……ふ、魔法使い?」
「あ、真宮笑ったな?」
「いやだって……」
不思議だなあと思う。白瀬はいちばん苦手なタイプ、今だってそれは変わらないのに。こうして鏡の前にふたりでいると、なぜか話が尽きない。そんな自分に戸惑いのほうが大きいけど、無言で気まずい時間を過ごすよりはきっといい。
「でもマジでさ。美容師になりたいって思ったのも、結局スタートはそこなんだよな。使い方の動画見漁って、姉ちゃんがやってるのだけじゃなくて、他にも色んなことできるんだなって分かって……やってみたかった。よし、できた」
「うわー、見事なチョココロネ……」
うん、オレの髪では一巻きで限界みたいだけど、どこかのマンガに出てきそうな立派なコロネ巻きだ。オレの顔についていることだけが残念って感じ。でも白瀬はと言えば、不服そうな顔をしている。
「俺としてはまだまだだけどな。練習あるのみって感じ」
「マジか……」
どうやらしばらくは、コロネ巻きの日々が続きそうだ。
「じゃあ元に戻すよ。真宮、今日も付き合ってくれてありがとな」
「どういたしまして。なあ、早くやって。ユキと遊びたい」
「はいはい、待ってて」
しっかりと巻かれた髪に、霧吹きで水がかけられていく。ある程度含ませて巻きが取れたら、今度はドライヤーをかけてくれる。大きな音が苦手らしく、この時間だけはユキが逃げてしまうのが残念だ。
「よし、これでオッケー。ユキー、おいで。終わったよ」
ドライヤーを片づけながら白瀬が呼ぶと、ユキはすぐに戻ってくる。屈んで待っているとオレの腕の中にやってきてくれて、お待ちかねの抱っこタイムだ。ゴロゴロと喉を鳴らして喜んでくれるのが、幸せでしかたない。
「ユキ、本当にかわいい……今日も抱っこさせてくれてありがとな。いい子だなあ」
「はは」
「……なに笑ってんだよ」
笑い声のほうにムッとした顔を向けると、白瀬が道具を片づけながらオレとユキを見ていた。笑われるのは、素直に腹立つ。
「いや、真宮は本当に猫が好きなんだなって」
「……まあな。ちっちゃい頃からずっと好き。ここ連れてこられた時はマジで最悪だと思ったけど……今は結構楽しんでる」
「それはよかった」
「ユキのおかげでな」
「そうだな」
楽しいのはあくまでも、ユキのおかげ。それをきちんと強調して、オレはユキと目を合わせ「なー?」と同意を求めた。ニャン、とちっちゃく返事をしてくれたから、ユキはオレの味方みたいだ。
「来月の文化祭で浮かれるのも分かるが、まずはテストが先だからな。みんなしっかり勉強するように」
十月に入って、二学期の中間テストを来週に控えた月曜日。六限目に充てられた、文化祭の話し合いのホームルーム後、先生の言葉にクラス中からブーイングが起こった。教師って、盛り上がった気持ちに水を差す天才だと思う。まあオレは、文化祭なんて楽しみじゃないから別にいいけど。
「はいはい、文句言ったってテストは待ってくれないからなー。今日から部活も停止期間だし、しっかりやれよー」
先生への愚痴だったり、テストなんていいから遊びに行こうと相談する声だったり。ザワザワしている教室を抜け出した時、小さな声で誰かがオレの名前を呼んだ。そんなこと滅多にないから、思わず肩を跳ね上げた。恐る恐る振り返れば、白瀬が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「っ、お前……話しかけんなって言ったよな。練習台やめるぞ」
「ごめん、スマホの充電切れちゃってさ」
小声で怒るって結構難しい。白瀬も気にはしてくれているようで、辺りを見渡しながら顔を見合わせずに話す。
「テスト前だからさ、練習はやめたほうがいいかなって聞きたくて」
「あー……」
なるほど、そういうことか。言われなかったらいつも通り、このまま公園からの白瀬家コースを辿るところだった。
正直なところ、勉強は得意じゃない。いつも必死に勉強して、どうにか赤点を回避できるかな、というレベルだ。
「だな。オレやばいし」
ユキに会えないのは寂しいけど、ミーコのところにはテスト期間だろうが毎日通うつもりだし。ミーコにたっぷり相手してもらって、テストをどうにか頑張ろう。
「じゃあ、そういうことで」
「あ、ちょっと待った」
「……なに? そろそろ離れないとまずいんだけど」
女子たちが話したそうに白瀬を見ていて、落ち着かないのに。オレを引き止めた白瀬は、口元に手を当てて少しだけこちらに顔を近づけた。
「もしよかったら勉強教えようか?」
「え……えっ、マジ!?」
あんなに気をつけていたのに、オレはつい大声をあげてしまった。慌てて口を塞いで辺りを見渡したけど、放課後の騒がしさに紛れられたようでほっと息をつく。
「本当にいいのか?」
成績優秀の白瀬に教えてもらえるなんて。苦手な相手だとは言え、その魅力には抗えない。なんてったって、藁にも縋りたいくらいオレの成績は致命的なのだ。
「交渉成立な。いつも通り、俺の家集合で」
「……分かった」
こくりと頷いた瞬間、しびれを切らした女子たちの
「ねえねえ白瀬くん。こっち来てー」
という声が響く。
「あー、うん。今行くよ」
その返事を背中に聞きながら、オレはそそくさと階段を下りた。
「あのさ白瀬……これってオレばっかり得してない?」
「そう? まあ気にすんなって」
白瀬はずいぶんと熱心に、オレに勉強を教えてくれる。合間には休憩がてら、なんとユキとの戯れタイムつき。ギブアンドテイクの関係だったのに、それが崩れている気がして落ち着かない。
「でもさあ……」
「まあまあ。人に教えるのって、自分の勉強にもなるから」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「じゃあ、いいか?」
「だな」
白瀬を苦手だなんて感じていることに、もはや罪悪感を覚えてきた。もうちょっとくらい、オレも優しくしてもいいのかもしれない。せめて、礼くらいはちゃんと言うべきか。
「白瀬……ありがとう」
「はは、どういたしまして。じゃあそろそろ、数学の続きやるか」
「うっ……数学……」
こうして一週間、アメとムチの使い分けが上手い白瀬に、放課後みっちりとしごかれた。そのおかげと言っていいだろう。五日間のテスト期間を走りきった後、オレは手応えを感じていた。
「白瀬ってマジですげー……」
少なくとも、赤点じゃない自信がある。こんなの初めてのことだ。
「真宮、お待たせ。珍しいじゃん、待ち合わせとか。どした?」
<放課後、あの公園に来てくれる?>と昼休みにメッセージを送ったら、白瀬は一秒で了承の返信を送ってきた。そして迎えた放課後。あたりに学校の人がいないのを確認して、白瀬と一緒に中へと入る。
「白瀬、オレ、テスト結構やれた気がする。合ってるかは分かんないけど、解答欄ほとんど埋められて、あんなの初めてだった」
「お、よかったな」
「うん、それでさ。お礼したいなって思って」
奥の木のほうへと向かい、リュックから猫缶を取り出す。パカッと開けたら、一匹の三毛猫が近づいてくる。ミーコだ。
「お、ミーコだ。ちょっと大きくなった?」
「そうかも。毎日見てるといまいち分かんないけど。ほらミーコ、ごはんだぞ」
「真宮が来て嬉しそうにしてる。かわいいな」
「本当はうちで飼ってやれたらいいんだけどな。これから寒くなるし」
まだ半袖で過ごせる日もあるけど、涼しくなってきて冬ももうすぐそこだ。ミーコは凍えながら過ごすのかと思うと、本当は気が気じゃない。
「たしかにそうだな」
「うん……」
「なあ真宮、さっき言ってたお礼って、ミーコに会わせてくれるってことで合ってる?」
「うん。白瀬も来たいって言ってたろ。でもオレが拒んじゃってたし。勉強教えてもらったの、白瀬は自分も勉強になるからって言ってたけど……やっぱオレのお得感がすごいなってテスト受けて思ったから」
「へえ、なるほどね。ありがとな。でも……これじゃ足りないかなあ」
「……え?」
耳を疑うような言葉に、オレはゆっくりと顔を上げた。白瀬がちょっと悪い顔でほほ笑んでいて、どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「いや、ミーコに会えたのはすごく嬉しいよ? できれば俺も毎日会いたいし」
「じゃあ、どういう意味……」
「勉強教えようかって言った時、交渉成立って言ったの覚えてる?」
「え? あ……」
そう言えば、たしかにそんなことを言われたかもしれない。そもそもギブアンドテイクの関係だから、それを不思議に思いもしなかった。
「だから足りないって言うか……もともとお願いしたいことがあった、ってのが正しいかな」
「……なんで黙ってたんだよ。やっぱり極悪人か」
「えー? でもまあ、敢えて後出しにしたところはあるから、そうなのかも」
「……ちなみに、なに?」
「聞いてくれるんだ?」
「とりあえず、聞くは聞く」
呆れたため息がつい出てしまう。でも大きく出られないのは、中間テストという壁を白瀬の手で乗り越えさせてもらった後だからだ。なるほど、これが目的か。やっぱり極悪人だ。ていうか、悪魔?
「真宮さ、明日ヒマ? あさってでもいいけど」
「え……内容によります」
「はは、なんで敬語。でもたしかに、先にヒマかどうかって聞くの卑怯だよなあ。俺も好きじゃないのにしちゃったわ」
「…………」
「先週と今週、テストのせいでヘアセットの練習はできなかっただろ。だから、真宮の土曜か日曜、俺にください。もちろん、ユキともたくさん遊んでやってほしい」
「……うん。え、それだけ?」
もっととんでもないことを言われるんじゃないかと、身構えていたのに。それこそ、やっぱりパシリもお願いしますだとか。だからオレは拍子抜けしてしまった。
「だって今までは、放課後のちょっとした時間だけだったからさ。休日もってなったら嫌じゃない?」
「まあ、普段だったらそうかも。でもマジで世話になったし。いいよ。明日でいい?」
「マジ!? よかったあ……この二週間、ずっとウズウズしてたんだよ。動画見るしかできなかったのが当たり前だったのに、贅沢なもんだよな」
「……いいんじゃない? それくらい真剣にやってるってことだろ」
「ん、まあな」
白瀬の意欲を肯定することは、ちょっと勇気が必要だった。それでも言ってみてよかったのかもしれない。白瀬もどこか気恥ずかしそうに笑っていて、悪いようには取られなかったみたいだから。
そろそろ帰ろうかと立ち上がると、ミーコがオレの足にすり寄ってきた。これをされると、帰る気が失せるんだよな。もう一度屈んでミーコの顎の下を撫でると、白瀬も隣にもう一度しゃがんできた。
「真宮も猫好きだけどさ、猫のほうも真宮が好きって感じするよな。ミーコは俺に見向きもしないし、ユキもいつも嬉しそうだし」
「そうかな」
「そうだよ。相思相愛って感じ。ミーコー、俺も大好きだからなあ?」
「あ……なあ、明日はユキと遊んだらダメじゃねえ? 勉強のお返しが一日の練習なら、やっぱりオレもらいすぎになる」
「いいんだよ、それはそれ、これはこれで」
「でも……」
「ユキも嬉しそうだって言ったろ。遊んでやってよ、俺の家に来た時は必ず」
「……ん、分かった」
それからひとしきりミーコと遊んでから、オレと白瀬は公園を後にした。明日たっぷりお願いするから、今日の練習はなしでいいとのことだ。
明日は十時に白瀬の家に集合。土日はお昼まで寝ていたいタイプだけど、一日中練習してみたいという白瀬の願いを、オレは叶えるべきだと思ったから。オレから提案させてもらった。
「じゃあ、また明日な」
「……ん、また明日」
休日に同級生と約束するなんて、多分小学校の低学年の時以来だ。だからどんな顔をしたらいいか分からなくて、オレは白瀬と目を合わせられないまま足早に帰った。



